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縁起
その縁起を釈尊は具体的にはどのように説いたのだろうか。『法と縁起』に興味深い対話の場面が平川の解説付きで 出ているので引用する。経典の部分は強調表示にした。
『相応部』「因縁相応」に次のごとく説いている。 迦葉かしょう(Kassapa)姓の外学げがくの修行者が、釈尊に「苦」について質問している。
(『南伝』第一三巻、二七−三〇頁。『雑阿含経』巻一二、八六上)
「ゴータマよ、苦は自作じさなりや」。「迦葉よ、然らず」と世尊は言われた。
ここで、「苦が自作であるか」という意味は、いま自己が受けている苦は、過去に自己が作ったものであるかという 意味である。即ち、苦の原因を自ら作り、その結果を自ら受けるという意味で、いわゆる「自業自得」の意味である。 これは原因と結果とを、連続的に結合する見方である。これに対して、仏陀は「然らず」と答えたという。・・・ このように否定されたので迦葉は、
「ゴータマよ、苦は他作たさなりや」。「迦葉よ、然らず」と世尊は言われた。
ここで、「苦は他作である」とは、他人が作った苦の原因を、自分が受けるという意味である。「他作」とは「他作自 受」という意味。ここには、原因と結果は断絶しており、因果のつながりがないという意味がある。しかし釈尊は、 苦を「他作自受」と見る見方にも反対せられた。そこで迦葉は、
「ゴータマよ、苦は自作にして他作なりや」。「迦葉よ、然らず」と世尊は言われた。
ここで、「自作にして他作」とは、自己の受けている苦は、自己と他人との協力でできたものであると見るのである。 自作は連続で、他作は断絶であるから、この考えは、苦は「連続であって、同時に断絶である」という見方になろう。 しかしこの見方にも、釈尊は反対された。そこで迦葉は、
「ゴータマよ、苦は自作にあらず、他作にあらず、無因生なりや」。「迦葉よ、然らず」と世尊は言われた。
と。ここで「自作にあらず、他作にあらず」というのは、断絶でもなく、連続でもないという意味であるが、しかし それは「非連続の連続」というごとき肯定を含んだ意味ではなく、「自も他も苦の生ずることに関係しない」という 意味であり、きわめて否定的な意味を持っている。しかも、自己と他者(自己ならざるもの)以外に存在はないから、こ の二つを否定することは、原因の存在を全部否定することになるから、そこでここには「無因生」であるのかと問う ているのである。しかし仏陀はこれをも否定した。
しかし存在の生起を考える場合、自作と、他作、自作にして他作、自作にもあらず他作にもあらずの「四つの場 合」を挙げれば、これで、存在のすべての場合が尽されると考えるのが、釈尊時代のインド思想界の考えであった。 それ故、自作と他作と、自作にして他作と、自作にもあらず他作にもあらずの「四つの場合」を否定されたので、そ こで迦葉は、
「ゴータマよ、苦は無なりや」。「迦葉よ、苦は無にあらず、迦葉よ、苦は有なり」。
と。即ち、釈尊は、苦は存在するが、しかし苦は以上の四つの場合以外の状態から生じてくると考えているのである。 しかし迦葉には、釈尊のその理解は分らないので、次のごとく質問した。
「さらば尊きゴータマは、苦を知らず、苦を見ざるや」。「迦葉よ、われは苦を知らざるにあらず。苦を見ざ るにあらざるなり。迦葉よ、われは苦を知り、苦を見るなり」。
と。そこで迦葉は、これ以上理解ができないので、
「・・・大徳よ、世尊はわれに苦を説きたまえ。大徳よ、世尊はわれに苦を示したまえ」。
と、苦の説明を請うている。これに対して釈尊は次のごとく答えている。
「迦葉よ、作す者と、受くる者とが同なりとする。さきより有るものには、「苦は自作である」との説は、「常見」 に陥る。
迦葉よ、作者と受者とが異なるという受に征服せられてあるものには、「苦は他作である」との説は、「断見」 に陥る。
迦葉よ、如来はこれらの二辺を承認せずして、中によりて法を説くのである。
即ち無明を縁として行あり。行を縁として識あり。・・・乃至・・・かくのごとくにして、この純大苦蘊うんの集起 がある。しかるに無明が残りなく離貧し滅することより、行の滅がある。行の滅より識の滅がある。・・・乃至・・・ かくのごとくにして、この純大苦蘊の滅がある」。
と。ここには「自作」は「常見(連続)」に陥り、「他作」は「断見」に陥ることが示されており、さらに「如来は中によ りて法を説く」として、釈尊の立場が断常の二辺に陥らない立場であることが示されている。しかもその見方が「縁 起」であることが、「無明を縁として行あり」以下の教説によって示されている。ここに「中道」と「縁起の見方」 とが同じであることが示されている。断常の二見には、自作と他作だけが示されているが、しかし「自作にして他作、 自作にもあらず他作にもあらず」の二つの見方も、さきに否定されているのであるから、「中による立場」が、これ らの四つの立場をすべて超えていることは明らかである。 そして「無明を縁として行あり」等の縁起も、断常を超えた見方として理解さるべきである。
[法と縁起356]
迦葉は自らの苦の原因を突き止めたいと真剣に求めていると見られる。そして釈尊に質問するのだが、ここで注目
すべきは迦葉の質問が既に答えを予定している型にはまっている、ということである。
その型とは「自作」「他作」「自作にして他作」「自作にもあらず他作にもあらず」の四パターンになり、これで
迦葉にとっての有意な質問の可能性は全て尽すのである。迦葉にとっては答えはこの四パターンの何れかに
必ず無ければならない。それが迦葉にとっての「合理性」であり、またそれは万人に共通の常識(=釈尊時代のインド
思想界の考え)であるという前提が見える。
しかし、釈尊はその問いのパターンの一々を否定し、しかも迦葉の質問に辛抱強く「論理的」に付き合うのである。
迦葉には「この男は狂人か?」という疑念がはじめは起こったかも知れないが、釈尊の対応の冷静さと、論理的回答と、
決して質問を拒否しない姿勢が鏡の如き働きを為し、迦葉自身が磐石の基盤と思い込んでいた「合理性」が
軋きしみはじめるのを思い知らされる。その心境の変化は、最初は「ゴータマ」と呼び捨てにしていた
釈尊への呼びかけが、段々と敬称に変わっていく点に如実に現れている。
釈尊の立場からは迦葉のこだわる「合理性」が、実は何等根拠の無いものであることを暗示する対応をし、迦葉自身が
それに気づき自壊する機会を待っているわけだが、あと一撃で迦葉のこだわりが崩壊すると見て取ったとき、縁起の説明を
開始している。
したがって縁起の説法は質問者が聞き入れる態勢が整って、はじめて開示される微妙なものという位置付けにある。
が、当然と言うべきかその決定的な解答が全然分りやすくないのである。釈尊の応答は「分りやすい」出口を全て
塞いでいった上で、十二縁起を説きはじめる。迦葉はこの延々と続く論理の連鎖に耐えなければならない。
苦の原因の連鎖は無明で止まるが、無明が根本の原因だと知って迦葉は納得しただろうか。無明とは、迦葉にとって
言葉を聞いただけで納得できるような概念だったのだろうか。おそらくほぼ確実にそうではない。
これが釈尊の語りの姿勢の骨格を表した経典表現の例であり、我々はそのような姿勢を取る釈尊の意図を解明しなければならない。