真宗大谷派 西照寺

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縁起


7.2.4 取

 この取から続く三支、取・愛・受は、「渇愛」または「煩悩」と言われるものの異なる角度から見た特徴を 扱っているように思う。従ってこの三支の間の順番に特に意味は無い。別な言い方をすれば取→愛→受という 連鎖は次の順番でもそれぞれ「AによりてBがある」の縁起の型で説明が可能である。
取→受→愛 、愛→取→受、愛→受→取、受→取→愛、受→愛→取。
私の意見では、愛→取→受が適当と思うが、そんなに固執する問題では無い。どの順番でも辞書的意味によって 一応理屈は付けられるし、解釈の要点は人によって様々であろう。このような立場で、ここでは私の解釈の要点 を表すことにする。辞書的意味は考慮しているがそれらはあまり表面には出てこない。

 有、「私がある」ということ、「三界にある」ということは、何によってあるか。それは「取」によってある。
 ここで再び他律的な視点に移る。三界に「生れさせられた」私は、三界の生を「生きざるをえない」私である。 それは、「生きる」という自律的なとらえ方や、「生きよう」という意欲からの視点よりも、もっと深い反省に 立った「自己の生の現実」の認識である。
 つまり、いくら高度な精神集中によって自己を制御し安定状態を作り自己と世界を完全に把握しうる境地に あったとしても、すなわち自律的に「生きる」という意識に立ちえたとしても、その状態は必ず中断させられる。
 その中断の要因は、腹が減ったり、排泄の衝動だったり、満腹感による睡眠への欲望だったり、家族や 友人の切実な助力要請だったり、また、事故(他者の介入や地震などの災害)による現在の自己のあるべき 場の破壊だったり、更には老いや病気による自己のあるべき環境の激変だったりするわけである。これらの例は すべて「外から降ってくる」。そして、それらの欲求や衝動や要請から逃れる術は無い。すなわち、それらを 「取らざるをえない」。
これが「生きざるをえない」の意味である。「生きる」という自律的な認識は、この他律的な土台の上にたまたま 泡沫のように成り立っているにすぎない。
この他律的な認識を「取」とよぶ。「取」の語源的な意味を検証する力は私には無いが、このように考えなけれ ばつじつまが合わないのである。つまり、取は次の支の愛と殆ど同じ内容を指しているにもかかわず、何故 わざわざ分割するのか?これが私の長い間の疑問だったが「取は他律的な側面を表す」と解釈すると、この支分を 設けた意味が明確になる。
 取はまた「執着」であり「煩悩の異名」であり「五蘊(色、受、行、想、識)=五取蘊」である。このように 辞書的意味を列挙すると、その文脈の中に自律的な理解の姿勢が忍びこみ、これらを自分が制御しうるかのような 感じを与える。すなわち、執着を絶ったり、煩悩を断じることが出来るかのような「感じ」である。しかし、その 感じは言葉に本来的に備わる「ずれ」の性質から来る幻想である。
取はあくまでも「取らざるをえない、そこから逃れることはできない」という認識において意味を持ってくる。 そこを指して「業」と言ったものであろう。今村の表現をあてはめれば「負い目」である。

負い目は存在の不完全性のしるしであり、マイナスの記号をつけられる。もし生存することを自己保存とよぶなら、 自己保存は負い目という欠如を埋め続けなくてはならない。生きるとは負い目を不断に返すことに等しい。
[社会性の哲学48]

そして「取らざるをえない」ということは、選択の余地の無い強制であり、そこに自由は無い。ここに苦悩の 生まれる原因がある。

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目次
引用文献一覧・凡例・更新履歴
1 はじめに
2 典拠による表現と意味
3 考えるということの道具立て
4 縁起表現の表と裏
5 縁起を語る釈尊の姿勢
6 縁起表現の構成
7 十二縁起支の解明
7.1 推理的順序による直列的な解釈例
7.2 縁起支をたどる
7.2.1 老死愁悲苦憂悩
7.2.2 生
7.2.3 有
7.2.4 取
7.2.5 愛
7.2.6 受
7.2.7 触
7.2.8 六処
7.2.9 名色
7.2.10 識
7.2.11 行
7.2.12 無明
7.3 転回
付録1 十二縁起の変節・説一切有部「三世両重因果」
付録2 伝許・伝説─世親の不信表明
付録3 「大乗」のニュアンス─世親、親鸞に通づるもの

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