ホーム > 雑文・文献・資料 > 縁起
縁起
しかし、絶望的結論に到達した時、同時に「私の心」は「私の心の外」との境界に思いがけずも到達し
ていたのである。「私の心」はその稜線に立ち、絶望的な流転輪廻世界全体を見渡すとともに、その暗
黒との境界の外側の輝きを一瞬のうちに垣間見る。この一瞬の輝きによって流転世界の暗闇を
一掃しうることを知る。
この輝きを言葉で表すことはできない。なぜなら言葉は「私の心」において作り出されるものであり、
それは無明に属するからである。しかしまた同時に、この言葉で表すことができないものを言葉で表さ
なければならない、という強い要請が湧き起こる。言葉で表せないものをあえて表そうとするとき、
それは矛盾表現とならざるをえない。
「無明を無明と知ったとき、それは既に無明を脱しているのである。」
これが「無明の滅より行の滅がある。」の「滅」の意味である。
そして、ここから十二縁起の無明を始点とする滅の連鎖が始まり、老死愁悲苦憂悩の滅で終わるのである。
この連鎖は文章表現としては、直列的に芋づる式に読んでいかなければならず、そこからドミノ倒しのよう
に順繰りに時間差をはさみながら、終点に到達するかのような感じを与えるが、実際の体験としてはそう
ではない。喩うれば、無明から老死まで連なる十二本の蝋燭の灯の上から、輝く白い布をバサリと被せて
一度に消すようなもので、滅の連鎖は一瞬に完成する。これが「覚り」と言われるものの一瞬の体験である。
老死から無明へと辿る探索は試行錯誤の続く長い道程であった。しかし無明の滅から老死の滅への連鎖は
一瞬の出来事である。この非対称性は注意すべきであろう。
さて、「覚りの体験」をした後の「私」はどうなるのだろうか。実は非常に矛盾した事態を抱え込むこと
になる。それは、覚りの体験の後であろうと「私の生活」は定義によって流転輪廻の世界の苦悩の中にある、
からである。にもかかわらず、「覚り」という「私の外」なる絶対の依り所を知るという経験をしてしまって
いる。その依り所に立つときのみ、苦悩は完全に消滅することを知ってしまっている。このように矛盾する
二つのものに引き裂かれながら、生活としては有の世界にある「私」は非常に難しい立場に追い込まれる。
しかしそれは、難しくはあっても重荷ではない。その難しい立場をこなしていく実践は戒・定・慧の三学
として開かれてくる。(注)
この実践─有の世界の行動─は老死愁悲苦憂悩の汚泥を浄化し希薄化する営みを己の置かれた立場で行う
こと、になるのである。
(注)そのような覚りの体験をした者の日常生活の内容─そこには三学が知らず識らずのうちに必 ず伴う─を指して浄土門仏教では南無阿弥陀仏というのである。