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縁起
「生れた」という事実を重荷として意識するとき、それは「自分がある」ということの意味への
問いを起していることになる。これは現代哲学では「存在論」を求めるということになろう。
「生は何によってあるか?」。そして「それは有によってある」という支分につなげられる。
有(bhava)は語の意味からも存在論に関係するが、普通我々が存在論という場合は、西洋哲学での
存在論であり、その底流にはユダヤ・キリスト教的な神と自己との関係の思想が関わっている。
ところが、この十二縁起の有という支分の存在論は、古代インドのウパニシャド・バラモン思想を
母体とし、その用語を用いている。我々にとって厄介なことは「存在」という言葉について、
西洋哲学的存在論と、古代インド・仏教的存在論の二つの意味があり、注意しないとそれらの異なる
概念を混同する危険性をはらむということである。とりあえずここでは西洋哲学的存在論は話題から外す。
ここで有という言葉で示される概念で「自分はいまここにある」という文の意味はどう表される
のだろうか。それは「三有にある」と言い換えられる。
三有とは三界とも言い、世界把握のための次のような分類体系である。
大分類 (三界) | 中分類 (趣、道) | 小分類 |
欲界 | 地獄 | 等活、黒縄、衆合、号叫、大叫、炎熱、大熱、無間 |
餓鬼 | ||
畜生 | ||
(阿修羅※1) | ||
人 | 南贍部ナンセンブ州、東勝身トウショウシン州、 西牛貨サイゴケ州、北倶盧ホックル州※2 | |
天 | 四大王、三十三、夜摩、都史多、楽変化、他化自在 | |
色界 | 初禅天 | 梵衆、梵輔、大梵 |
二禅天 | 少光、無量光、極光淨 | |
三禅天 | 少淨、無量淨、遍淨 | |
四禅天 | 無雲、福生、広果、無煩、無熟、善現、善見、色究竟 | |
無色界※3 | 空無辺処 | |
識無辺処 | ||
無所有処 | ||
非想非非想処 |
※1 阿修羅に括弧を付けてあるのは、これを認める部派と認めない部派があったからである。 認める場合欲界の中分類は六種(六趣、六道)になり、認めない場合は五種(五趣、五道)となる。
※2 これらの「州」は人間が住む世界を東西南北に分割したものであり、我々の世界(=当時の インド人の世界)は南贍部州である。この四州の中心に須弥山が配置されヒマラヤ山脈と同一 視される。従ってインドを中心とした地理的世界が表現されている。
※3 「方処に住せず・・・方処によりて作られたる上下はなし・・・殊勝なる等至より生じたる」 ([倶舎論の原典解明13〜15])
この三界の分類体系はウパニシャド・バラモン神話の地理的世界観と思想、仏教の精神活動 (禅定、等至。精神の集中と安定と拡大。)における概念との複雑な混交物である。 地理的世界観にこだわると、今となっては荒唐無稽な宇宙論となるし、欲界→色界→無色界と 段階を経て高級になる、あるいは覚りに近づくというような単純なステップアップ思想でも無い。 この体系の詳しい分析は私の手に余るが、気づいた特徴を指摘しておく。
- 欲界の天と色界の初禅天である梵天はウパニシャド由来の天を分類整理し再配置したもののようである。 輪廻思想はウパニシャドを起源とするが、もともとは比較的簡単な分類であり([インド哲学史33]) その名残を「六道輪廻」という言葉に留めていると思われる。現在まで伝わる通俗的な輪廻の意味も 六道輪廻の内容とほぼ重なる。それは、ここでの分類体系の欲界と、色界の初禅天である梵天までの 範囲である。色界の二禅天以降及び無色界については事実上忘却されているといってよい。諺ことわざ的に 「三界を流転する」と言った時、殆どの人のイメージとして浮かぶのは実は欲界の流転であろう。 色界・無色界がイメージから脱落してしまうのは禅定の概念が難解なためである。 仏教の「三界」という体系は、そのような難解なものをあえて加上し、本来の通俗的・素朴な輪廻思想 とは異質で極めて抽象的なものを含む、という点を注意すべきである。
- 色界、無色界の分類は本来は禅定の深化のレベルを表すものであろう。釈尊は出家後の早い段階で無色界の 最高位である非想非非想処定に到達している。([インド仏教史上巻36]) このように自己の精神状態を「界」という言葉で表すという捉え方の面もある。この考えを欲界にあて はめれば、自分の精神状態は地獄にも餓鬼にも人にも天にもなりうるということになる。そして人類の 歴史及び我々の体験は、この解釈が妥当であることを示している。
さて「生は有によってある」。
すなわち「自分がある」ということの意味は何か、この問に対して「汝は三界にある」と答える。
また「自分はどこから来て、どこに行くのか」。この問は我々現代人にとっては、宗教とは無関係な
文脈で語られるイメージがあるが、あけすけには次のように言い換えることができる。
「自分は生まれる前はどこにいて、死んだ後はどこに行くのか」。
これに対して「それは三界のある趣から生まれて、別の趣に生まれ変わる」と答える。
「自分があるということの意味は何か」、それはたまたま人という趣にあるということである。
そして人趣での生が尽きれば、それまでの生存中の行為に応じて別の趣に生まれ変わる。この繰り返し
(流転)に始めは無く終りは無い(輪廻)。
以上の解答に対して、問を起した者はちょっと待ってくれ、と言いたくなる。自分はそんなカビの
生えた迷信的な答えを求めて問を起したのではない、と。おそらく十二縁起の忘却の背景にはこの
ような軽蔑感情が横たわっている。特に「近代的・科学的・民主的」教育を受けた我々にとっては。
しかし考えて欲しい。我々はこの三界という存在の分類体系を軽蔑できるほどの高級な概念体系を
持っているか、と。
須弥山説の地理的宇宙論を荒唐無稽と難ずるのはたやすい。しかし、現代の世界観・宇宙論が
それを超えるものを持っているだろうか。ビッグバン説で宇宙の起源と終焉を説明されても、
我々はその「起源の前」「終焉の後」を考えることが出来てしまうのである。
つまりは現代の宇宙論も「この世の始まりと終りと涯」を解明するのに十分でなく、須弥山説と
同質の地平にあって、団栗の背比べをやっているに過ぎないとも言える。(だからといって
現代の分析科学を否定する心算は毛頭無い。科学や技術が高度に進化するのは、人間の歴史活動
の必然なのだ。しかしそれらの構築活動の根本には須弥山説のような神話を作る活動と同じ概念
と欲求がある。)
また三界の生まれ変わりを迷信と難ずるのはたやすい。しかし、それを迷信と否定しても
「自分は生まれる前はどこにいて、死んだ後はどこに行くのか」という問は依然として残るのである。
以上の考察を踏まえて「三界にある」ということの意味を改めて考える。
-
意味その1
「私」という主観と「私の認識対象としての他者」(人、物、世界、時間)の一切を把握しうる。 その把握の仕方は自己(主体)と他者(客体)を分別した分析的なものである。
そのような仕方で無始の過去からの生れ換りの結果として、今の「私」があり、終りの無い未来へ の生れ換りとして「私」が続くことを知る。この繰り返しに出口は無い。
この繰り返しを経る「私」(主体)をウパニシャドではアートマン(我)と呼んでいると思う。 -
意味その2
意味その1の認識が徹底してくるとき、ある種の認識の転換が訪れる。それは次のようなものである。
輪廻を繰り返す主体としての我、すなわち「今現にある私」は意味その1では今現在の世界の中 の無数の人間のうちの一人と認識していた。しかし、その無数の個別の我をそれと認めるのは現に 今生きて考えているこの「私自身」である。「私」には輪廻において生まれる前の我の記憶は無く、 死んだ後の次の生の我を知ることもできないが、しかし輪廻する主体としての我を、今現に考えて いる「私」は完全にとらえている。そして前の生、後の生においても、そのときの「私」は今現に 考える私と全く同じとらえ方をもって「私」の認識に至る。つまり無数の生れ換りの中で「私」の 認識は唯一である。
また、分別的な私(アートマン)が他人として認識するところの、今現に生きている無数の人々 も、この私と同じように世界一切を把握する唯一で交換不可な「私自身」の認識に至る。 その他に完全な自己の認識はありえない。
そうすると「今現に考える私自身」が交換不可能な形で無数の他者の中にあり、過去・未来の無数 の生れ換りの中にある、ということになる。そしてその「私」はまた唯一の私であり今現に考える 私と同一のものである。この「私」がブラフマン(梵)であろうと思う。
アートマンとブラフマンは異なるものながら唯一なる「私」の二面として完全に一致する。
この梵我一致の認識のもとに時間世界は流転輪廻するものとして完全に把握される。おそらく
これがバラモンにおける世界把握の究極であろう。これを「覚り」といっても良いのかもしれない。
この中で現に生産される苦悩を受け入れさえすれば!
しかし釈尊はそれを受け入れることを是としなかったのである。