真宗大谷派 西照寺

ホーム > 雑文・文献・資料 > 縁起

縁起


7.2.3 有

 「生れた」という事実を重荷として意識するとき、それは「自分がある」ということの意味への 問いを起していることになる。これは現代哲学では「存在論」を求めるということになろう。
「生は何によってあるか?」。そして「それは有によってある」という支分につなげられる。
有(bhava)は語の意味からも存在論に関係するが、普通我々が存在論という場合は、西洋哲学での 存在論であり、その底流にはユダヤ・キリスト教的な神と自己との関係の思想が関わっている。 ところが、この十二縁起の有という支分の存在論は、古代インドのウパニシャド・バラモン思想を 母体とし、その用語を用いている。我々にとって厄介なことは「存在」という言葉について、 西洋哲学的存在論と、古代インド・仏教的存在論の二つの意味があり、注意しないとそれらの異なる 概念を混同する危険性をはらむということである。とりあえずここでは西洋哲学的存在論は話題から外す。
 ここで有という言葉で示される概念で「自分はいまここにある」という文の意味はどう表される のだろうか。それは「三有にある」と言い換えられる。
三有とは三界とも言い、世界把握のための次のような分類体系である。

大分類
(三界)
中分類
(趣、道)
小分類
欲界地獄等活、黒縄、衆合、号叫、大叫、炎熱、大熱、無間
餓鬼
畜生
(阿修羅※1
南贍部ナンセンブ州、東勝身トウショウシン州、 西牛貨サイゴケ州、北倶盧ホックル※2
四大王、三十三、夜摩、都史多、楽変化、他化自在
色界初禅天梵衆、梵輔、大梵
二禅天少光、無量光、極光淨
三禅天少淨、無量淨、遍淨
四禅天無雲、福生、広果、無煩、無熟、善現、善見、色究竟
無色界※3空無辺処
識無辺処
無所有処
非想非非想処
※1 阿修羅に括弧を付けてあるのは、これを認める部派と認めない部派があったからである。 認める場合欲界の中分類は六種(六趣、六道)になり、認めない場合は五種(五趣、五道)となる。

※2 これらの「州」は人間が住む世界を東西南北に分割したものであり、我々の世界(=当時の インド人の世界)は南贍部州である。この四州の中心に須弥山が配置されヒマラヤ山脈と同一 視される。従ってインドを中心とした地理的世界が表現されている。

※3 「方処に住せず・・・方処によりて作られたる上下はなし・・・殊勝なる等至より生じたる」 ([倶舎論の原典解明13〜15]

この三界の分類体系はウパニシャド・バラモン神話の地理的世界観と思想、仏教の精神活動 (禅定、等至。精神の集中と安定と拡大。)における概念との複雑な混交物である。 地理的世界観にこだわると、今となっては荒唐無稽な宇宙論となるし、欲界→色界→無色界と 段階を経て高級になる、あるいは覚りに近づくというような単純なステップアップ思想でも無い。 この体系の詳しい分析は私の手に余るが、気づいた特徴を指摘しておく。

 さて「生は有によってある」。
すなわち「自分がある」ということの意味は何か、この問に対して「汝は三界にある」と答える。
また「自分はどこから来て、どこに行くのか」。この問は我々現代人にとっては、宗教とは無関係な 文脈で語られるイメージがあるが、あけすけには次のように言い換えることができる。
「自分は生まれる前はどこにいて、死んだ後はどこに行くのか」。
これに対して「それは三界のある趣から生まれて、別の趣に生まれ変わる」と答える。
「自分があるということの意味は何か」、それはたまたま人という趣にあるということである。
そして人趣での生が尽きれば、それまでの生存中の行為に応じて別の趣に生まれ変わる。この繰り返し (流転)に始めは無く終りは無い(輪廻)。
 以上の解答に対して、問を起した者はちょっと待ってくれ、と言いたくなる。自分はそんなカビの 生えた迷信的な答えを求めて問を起したのではない、と。おそらく十二縁起の忘却の背景にはこの ような軽蔑感情が横たわっている。特に「近代的・科学的・民主的」教育を受けた我々にとっては。 しかし考えて欲しい。我々はこの三界という存在の分類体系を軽蔑できるほどの高級な概念体系を 持っているか、と。
 須弥山説の地理的宇宙論を荒唐無稽と難ずるのはたやすい。しかし、現代の世界観・宇宙論が それを超えるものを持っているだろうか。ビッグバン説で宇宙の起源と終焉を説明されても、 我々はその「起源の前」「終焉の後」を考えることが出来てしまうのである。 つまりは現代の宇宙論も「この世の始まりと終りと涯」を解明するのに十分でなく、須弥山説と 同質の地平にあって、団栗の背比べをやっているに過ぎないとも言える。(だからといって 現代の分析科学を否定する心算は毛頭無い。科学や技術が高度に進化するのは、人間の歴史活動 の必然なのだ。しかしそれらの構築活動の根本には須弥山説のような神話を作る活動と同じ概念 と欲求がある。)
 また三界の生まれ変わりを迷信と難ずるのはたやすい。しかし、それを迷信と否定しても 「自分は生まれる前はどこにいて、死んだ後はどこに行くのか」という問は依然として残るのである。

 以上の考察を踏まえて「三界にある」ということの意味を改めて考える。

 アートマンとブラフマンは異なるものながら唯一なる「私」の二面として完全に一致する。 この梵我一致の認識のもとに時間世界は流転輪廻するものとして完全に把握される。おそらく これがバラモンにおける世界把握の究極であろう。これを「覚り」といっても良いのかもしれない。 この中で現に生産される苦悩を受け入れさえすれば!
 しかし釈尊はそれを受け入れることを是としなかったのである。

前ページ トップ 次ページ

縁起

目次
引用文献一覧・凡例・更新履歴
1 はじめに
2 典拠による表現と意味
3 考えるということの道具立て
4 縁起表現の表と裏
5 縁起を語る釈尊の姿勢
6 縁起表現の構成
7 十二縁起支の解明
7.1 推理的順序による直列的な解釈例
7.2 縁起支をたどる
7.2.1 老死愁悲苦憂悩
7.2.2 生
7.2.3 有
7.2.4 取
7.2.5 愛
7.2.6 受
7.2.7 触
7.2.8 六処
7.2.9 名色
7.2.10 識
7.2.11 行
7.2.12 無明
7.3 転回
付録1 十二縁起の変節・説一切有部「三世両重因果」
付録2 伝許・伝説─世親の不信表明
付録3 「大乗」のニュアンス─世親、親鸞に通づるもの

 (C)西照寺 2007年来