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『仏教聖典』を読もう─同業者への提案
私の手元に一冊の本がある。『仏教聖典』仏教伝道教会発行。
ホテルなどに泊まったとき、部屋の机にキリスト教の聖書が備え付けてあると、それと同じくかなりの確率で備え付けてある例の本である。
そしておそらくどの寺にも一、二冊はあるのでないだろうか。
なぜなら版元から寄贈されているはずだから。我が寺ではこの本は知らぬ間に書棚の片隅に積んであった。
知らぬ間にというのは、寄贈された時点では何の興味もなく、捨てるわけにもいかないので書棚の隙間に放置され、そのまま忘れ去られ今に至ったという意味である。

さて我が寺では毎月第三土曜に「同朋の会」と称して月例学習会を催している。 最近はコンスタントに二十名前後は集まるようになった。出席者の意欲は結構旺盛である。 年に十回の開催(お盆の八月と報恩講の十一月は休み)で現在八十回になっているので、足掛け十年近く行ってきた勘定になる。 喋る側としては、約二、三年ごとにネタの入れ替えを行ってきたのであるが、 宗派的な視野で話のネタを選ぼうとすると、そもそも宗派という貧困な小乗的基盤※注の上で仏教を捉えざるを得ず、あっという間に話題が涸渇していく。 昨年末に次の題材を選ぶ段になって遂にネタが切れた。
※注 法然が浄土宗を別して立てると宣言した時、当時の仏教界の小乗的性向を打ち破る目的があった、と私は理解している。
しかしながら、その現代の末裔の大谷派を含む浄土門の宗派は、自宗派内に閉塞し、 額面はどうあれ内実として小乗としかいいようの無いものに成り下がってしまった。
さてどうしようかと思案していたときに、ふと本棚の隅に目に付いたのが『仏教聖典』であった。
これを開いて読んでみた。存外に面白い。引き込まれて通読した。
本文は大蔵経典群からの抜粋の現代語訳から成っているが、その視野の広さ、選択のレベルの高さに感銘を受けた。
また付録的な「仏教通史」も簡にして要を得ていて素晴らしい。
最後の二行に編纂者の意図がさりげなさを装いつつ計画的に述べられており見事である。
この本の最後に発行元の仏教伝道教会の由来が記してある。また発行元は次のサイトを運営している。
財団法人 仏教伝道協会
これらの情報から、編纂にはその時々での一流の仏教学者が関っていることが判った。これは得難い教材であると思った。
現代の日本で仏教を伝達するためには、先ず現代語で語ることが必須である。
何故なら明治から現在に至る百数十年の流れの中で、一般に流通する常識として
の仏教の伝統的な語り口はほとんど壊滅してしまったから。いや、語り口は残ったが
その意味が死滅してしまったというべきだろうか。
そのような中で、現代の大谷派が当然の如く行なっている宗派でしか通じない語
り口や、真宗聖典の教義のみを情報源として、仏教の話題を供給しようということ
はどだい無理な企てなのである。
現代は通信や流通や交通の発達によって、個人が否応なしに世界と接続されてしまって
いる。その結果として我々はキリスト教やイスラム教や神道や新興宗教等が様々
に関わりを深めつつある中で日常生活を送らざるをえない。
これが我々坊主分も属するところの現代人である。
その現代人に対して仏教を説くということは、宗派を離れた世界宗教としての仏
教の知識と仏教教養を身につけたという自信を与えることが第一の意義であると
思う。
この伝達のための基礎訓練に我が大谷派の教義体系はほとんど無力であるし、その
熱意も持ち合わせていない。たまたま熱意を持ち合わせる場合でも、宗派の教義
を現代に無理に合わせるようなトンチンカンな解釈を行い、ほぼ間違いなく袋小路
の中に閉塞してしまう。
そしておそらく全ての日本宗派仏教は同じ問題に陥っている。
『仏教聖典』の企画はこの宗派仏教の欠陥を暴きかつ埋める意識の内に、止むに
止まれず生れたものではないかと推測している。
我が「同朋の会」では暫くはこの本を題材にすることにした。
他力・自力、聖道門・浄土門などの分別は基礎教養ができてからの話である。
そして客観的に言って現代という状況においては、基礎教養のできていない仏教
の知識は、まともに相手にされない。それだけ現代人の目は肥えているといえよう。
そういう意味で宗派仏教という形態は世間から無視される方向に傾斜しつつある
ということを、真剣に考えるべき時である。
この本は現代文の故に、口当たりはやわらかいのだが、それを得心がいくように
解釈しようとすると仏教全体を相手にして勉強する真剣な作業が必要になる。
この作業を経なければとうてい他人に対して解説できない。従って坊主分に対し
て着実な勉強努力を要求してくる。この意味でも得難い書物であると思う。
2007/09/12 星 研良