真宗大谷派 西照寺

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善悪凡夫vs悪衆生


2016年6月18日 同朋の会

 今日ははじめに最近の自分の経験と心境をお話しして、休憩の後、正信偈の解説に繋げます。

 今年は年明けから4月のはじめ頃まで西照寺にしては葬式が立て込んでありました。しかし4月のはじめの葬式が終るとぱたりと途絶えました。そして今日まで一回もありません。いつもの西照寺に戻ったかな、と思っています。葬式とはそういうもので重なる時は立て続けだしない時はぱったりなくなる。葬式は我々坊主からすれば仕事です。しかし皆さんからすれば非常事態ですね。そういうものを我々は仕事として日常のこととして受けている。仕事ということであれば世間のサラリーマンと同じです。サラリーマンは毎日時間通りに出社して同じ仕事があるというしくみの中で月給という安定収入を得る。しかし雇っている会社の経営からすると浮き沈みがもちろんありますし、毎月社員に給料を払えるだけの収入があるかというと、そうでもない場合がある。しかし雇われている人達にとってはそれが直接は影響しないように一応なっている。それが普通の人の日常生活だと思います。
 しかし我々坊主の場合の仕事は皆さんにとっての非日常の事態ですから、サラリーマンのように毎日安定的にできるものではない。私は若い頃はサラリーマンをしていて、その後会社を自分で起こした時もそれなりの安定した売上があった。しかし寺はそういうわけにはいかない。だから毎日の仕事のペースがあるようでない。葬式が多すぎる時はそれをこなすことで精一杯で忙しすぎる。葬式がない時は失業したかと思うような時間の空きが続く。
   だから我々坊主は忙しすぎる状況と暇すぎる状況を自分の生活の中でどう扱うかを、身体で納得して調子を合わせるようにできなければならない。それができないとかなり大変です。しかしそうできるようになるまでかなりの時間を要します。私は今でも大変です。葬式が忙しい時は自分の気持ちがそれに慣れてしまう。ところがパタッとなくなるとつっかえ棒が外されたように精神が不安定になる。そして暇な時間の生活にようやく慣れた頃にまた忙しくなる。
 私は昔は「寺が暇なことはいいことだ。自分のやりたいことができるから。」と豪語していましたが、最近はこんな言葉は吐けません。こんなことが言えたのは副業を持っていたからです。副業でそれなりの収入があって寺の収入に頼らなくても生活ができたのでこんな偉そうなことを言っていた。しかし葬式が立て込んでお布施を何回も頂くような時はそれはそれで、自分は何のための仕事をしているのかという疑問が実は出てくる。いわゆる葬式坊主状態です。一昔前は葬式坊主は坊主丸儲けなどという言葉とともに軽蔑の意味で使われていた。最近はその意味合いが変わってきて再評価されている。葬式は大切ではないのかというと大切です。その大切な事を行うのだから葬式坊主は蔑みではないという意味合いが出てきている。しかしそれでも葬式坊主をすることは今言ったように結構大変です。坊主もそれなりに大変だということをお話ししました。

 さて、それで暇になってから何をしていたかをお話しします。4月中旬から暇になって気候も暖かくなってきた。この時期の私の作業になっている境内整備を始めました。一番目はコンクリートの傷みなどの補修作業でした。次が蓮の植え替えです。いま蓮は12鉢あります。蓮は毎年土を替えて植替えしてやらないと連作障害が起きて花が咲かないのです。土を替えて蓮根の古い株を切り離し新しい株を植える。この作業が大変ですがこれをやれば、あとは肥料と水を切らさなければ勝手に育って花を付けてくれます。この土替えを丸一日かかって泥だらけになってやりました。
 境内の世話をすることが年を追うごとにエスカレートしてきています。私は皆さんご存知の通り5年前までは草取りも満足にしない人間だったのですが、それがここまで変わることに自分ながらびっくりしたとは何遍も言いました。(一同笑)
 蓮の植え替えの後、道路を隔てた第2駐車場の草取りをしました。この場所は20年以上借りていたのですが2年前に寺のものになりました。借りている時は、車が何とか置ければいいくらいの世話しかしていなかった。雑草が伸びると草刈り機で刈って体裁を整え除草剤を撒くということを長年やってきた。これでは雑草の根が残るのでまた生えてくる、除草剤をかけても小さい草は死にますが大きいのはそこまでいかない。枯れた草も根っこごとそのまま残っている。体裁が悪い。水はけも悪くなりキクラゲのようなものが砂利の間に繁殖し、雨が降ると靴で踏むのがはばかられるような状態になる。今年はこの状況を一掃しようと決心し、子供二人にもハッパをかけて根っこから草取りをしました。二,三日で終るだろうと始めたら、大変な作業でした。踏み固められた地面に草が生えているので根まで取ろうとすると大変です。それでもめげずに作業して何とか終らせました。毎日作業したわけではありませんが結局二週間ほどかかりました。そうしてつくづく思ったのは庭や境内の作業で何が一番大変かというと草取りですね。しゃがむので腰に来る、道具は使いますが根っこから引き抜くので手首と指先を酷使する。子供達は若いので回復は早いと思うのですが、年を取ると回復しない。それを毎日作業するとどんどん指が痛めつけられ疼いて寝られなくなる。おそらく皆さんご経験があると思います。昔、母が手や腰が痛いと言っていましたがその時は草取りぐらいで何を大袈裟に言っているのだと思っていた。自分でやってみてこんなにひどいことはないとわかった。それが毎年作業のたびにひどくなる。年を取ることに愕然ときています。
 そうして5月も中旬を過ぎた頃、庭の剪定に移りました。全体の剪定は年二回、植木屋さんにやってもらっています。しかしそれだけでは全然足りないということが木を世話しているとわかってきた。木は毎日生長しているので毎日切らないといけないくらいのことです。しかも木の健康を保つように切るのは結構手間がかかる。外側だけを切って形だけ綺麗にすれば良いということとは違うのです。刈り込むのではなく木の育ち具合を見ながら枝を抜いていかなければならない。これに手間がかかるのですが自分ですることにした。そしてまず駐車場脇の庭の剪定をしました。そうしたらトラック一台分くらいの枝の山ができました。この前植木屋さんに運んでもらったところです。次に正面の庭に手をつけたところですが、これから一ヶ月くらいでまた同じくらいの枝が積み上がると思います。さらにお盆前、植木屋さんにそれを片付けてもらいながら全体の剪定をやってもらう。それくらいしないと木の健康まで考えた庭の管理はできないなと思っています。しかしここまですると病気とかアブラムシが付きにくいようです。だからやればやっただけのことはある。作業していてそれなりに充実しています。そして毎日気になるので目が覚めたら剪定することしか考えていない。(一同笑)
我ながら変われば変わるものだと思いますが、こだわる性格なのでのめり込んでしまうのかもしれない。

Hさん 住職が日に焼けていたのでゴルフでもしたのかと思っていた。

ゴルフなんてやったことありません。(一同笑)
この前、十年ぶりくらいで訪ねてきた友達がいたのですが、話をしていて「旅行に行かないのか」と聞かれた。私は答えて「とんでもない、ここに居て庭の世話をするだけで精一杯だ、旅行なんて面倒くさいことやっていられるか」と。私の世界はこの境内の中で十分すぎるのです。もちろん坊守や子供達も自分の時間を見つけて作業しています。それで何とかこの状態を保っている。自分でも充実している。ところが身体の方がついていかなくなってきていて疲れがどんどんたまる。一日の作業が終って晩飯を食べると眠くなる。うたた寝をして目を覚ますと12時を過ぎている。それから少し仕事をすると2時、3時になっている。という情けない生活をずっと続けています。
 こんなことを延々と喋りましたが何が問題かというと、私には庭仕事の他にもやらなければならないことが色々あるわけです。坊主の仕事として事務的なこととか本を読んだりものを書いたりもしなければならない。しかし疲れてそれらに全然手がつかなくなってしまう。
 私はテレビはほとんど見ない人間で最近は新聞も読まなくなりました。ではどこから情報を得ているかというとインターネットからです。仕事部屋の机にパソコンがあるので、椅子に座ると目の前に画面がある。そして動画サイトのYouTubeとかニュースサイトから情報を仕入れている。疲れると何もしたくなくなるのでぼけっとこれらを見ていることになる。だから食事の後、仕事するとかいいながら実はぼけっとこれらを見て時間を過し、何の事はないテレビを見ているのと同じだったりする。剪定を始めるとそういう毎日が続くのです。
 そうすると、気持ちがどんどん落ち込んでくるのです。そういうこと皆さんはありませんか。庭仕事は充実しているし腹が空き食事も美味い。健康的な生活なのですが、しかしやるべき事が溜まってくると気持ちが落ち込んでくる。そして気持ちのゆとりがなくなってきてギスギスしてくる。それが表われて家族に当ったりすると家族関係もよろしくなくなる。

Sさん お寺さんばかりでなくどこの家でもあると思うよ。一人で面白くなくなってきて拳骨で叩いてやりたくなったりする。女だから手は出さないが。それで黙ってひとりでに直ってくるのを待っている。

自分としてはそういうことをようやく気付くようになってきたのかな、と思っています。どこにでもあるものだとして、そんな心境をどうとらえたらいいのかが問題になってきます。そこを正信偈ではどう言っているのか、それが今日の本題です。ようやく前置きが終ったところで休憩します。


〈休憩〉

(大谷派勤行集12〜13ページ)
1 一切善悪凡夫人   一切善悪の凡夫人
2 聞信如来弘誓顔   如来の弘誓願を聞信すれば
3 佛言広大勝解者   佛、広大勝解の者と言えり
4 是人名分陀利華   この人を分陀利華と名づく
5 弥陀佛本願念佛   弥陀佛の本願念仏は
6 邪見驕慢悪衆生   邪見 驕慢の悪衆生
7 信樂受持甚以難   信楽を受持することはなはだもって難し
8 難中之難無過斯   難の中の難、これに過ぎたるはなし

先ほど言ったような状況に落ち込んでしまうと、阿弥陀さんを讃えるといった気持ちにはなかなかなりませんよね。(笑) そんな時でも仏壇の前で念佛を称えるべきだという人もあるかもしれませんが、私は無理なことはしない主義です。自分の気持ちに正直になれば気持ちが落ち込んだ時は「阿弥陀さんありがたい」なんてとても言えない。だからといって私は阿弥陀さんを讃えないわけではありません。しかし落ち込んだらつらい。

Mさん ただ念佛申すのみとか言うけれど、そんな念佛したってどうにもならないでしょうと思う。

Sさん そんな事ないんだけどね。続けているといいこともある。

そんな事ないという考えももちろんあります。それも話してみたい。
 まず、正直なところで、落ち込んだら阿弥陀さんを讃える気持ちにならないということ、それを凡夫と言うと思う。凡夫は気持ちが高ぶれば何でも善く見えるし、落ち込めば何でも悪く見える。その凡夫という言葉が正信偈の中に入っている。

 1行目 ここでの凡夫と私が今言った凡夫は同じものです。
 2行目 その凡夫が如来の弘誓顔=阿弥陀の本願=全ての凡夫を救うということです、を聞き、信じたとしたならば
 3行目 ここでの佛はお釈迦様ですので注意してください。念佛するときの佛は阿弥陀佛です。佛という言葉が場所によって色々違います。この行の意味は、本願を聞いて信じた凡夫である自分をお釈迦様は「大きな勝れた理解をした人だ」と誉めてくださる。
 4行目 お釈迦様はその凡夫である自分を分陀利華(プンダリカ=白蓮華)と名付けてくださる。蓮華は濁った泥の中から出てきて清い花を咲かせる。泥が我々が生きる世界を表わし、その悩み苦しみ憎しみの世界の中からそれらに染まらない覚りの心がその人に現れた時、その人を指して蓮華に例える。だから仏教では何かにつけて蓮華が出てくるのです。
 5行目〜8行目 阿弥陀佛の本願を信じてする念佛は、邪見(よこしまな考え)、驕慢(おごり、たかぶり、思い上がり)にある衆生は信樂を受けて持(たも)つことは非常に難しい。邪見・驕慢に陥っていることは悪なので衆生に悪がついています。

 親鸞さんの言い方では本願を信じるときには必ず楽しみあるいは喜びが伴います。悲しんで信ずる、あるいは苦しんで信ずるなどということはありえない。信ずるということは楽しみであり喜びなのです。これが伴わなければ信じたことになりません。だから親鸞は信と楽とを合せて信楽という熟語を使う。

Nさん 信を悲しみと置き換えてはまずいですか。

たぶんNさんの言われる意味は「悲喜交々」だと思います。悲しみの中に喜びが混じる場合がある。あるいは悲しみが喜びに換わる時がある。そういう経験ありませんか。それを悲しみと表現しているとすればここでの言い方に一致します。悲しみと喜びは一緒にはありえないと思いがちですが、よく考えると悲しみの中に喜びがある場合がある。あるいは喜びの中に悲しみがある場合もある。「面白うてやがて悲しき」という言い方があるでしょう。
私は親鸞の言葉の使い方をある程度分かっているので自分の気持ちが落ち込んだときに阿弥陀さんを讃える気持ちにならないでしょうと言った。

Mさん 普通の人はそうだと思う。でもそれをひっくり返さないといけないのでしょう。

それもありますが、このように受け取らないと理屈が通じないなとも思っている。私も住職として月に一度こんな話をすることは実は大変なのです。剪定で疲れているときに、うわー、また同朋の会が回ってきたかと思う。(一同笑) 話をなんとか用意しなければならないなと気持ちに鞭打っているのが正直なところです。

Mさん 今月は疲れたから休みますと(笑)

そう言えたらいいのですが、それをやってしまうとますます嫌な気持ちになりますね。一応全体の意味を説明しました。しかしおそらく皆さんは納得できないと思う。私も実は親鸞のこのような文章の作り方が納得できないところがある。
 まず言葉について言うと「凡夫」と「衆生」はほぼ同じ意味です。どちらも我々ですが、凡夫には「私」が中心にある。衆生は「私も含めたみんな」という面がある。

 ここで質問です。1行目の凡夫と6行目の衆生は同じものでしょうか、違うものでしょうか。
 1行目の凡夫は善悪凡夫です。善悪にこだわらざるをえない。我々は善いことと悪いことにどうしても囚われる。そういう自分です。
 6行目は衆生に悪が付いて悪衆生です。
 そして1行目の凡夫を指してお釈迦様は広大勝解の者と誉め称えており凡夫をいい意味で使っている。
 ところが6行目の邪見や驕慢に陥っている悪衆生は信楽を受持することが事実上できないと言っている。悪衆生が信楽を持つことはありえない。
 そうすると信楽を受持した善悪凡夫と悪衆生は別のものを指しているように見える。文章を素直に読めばそう取れる。親鸞は自分のことをどっちだと思っているのだろうか。おそらく親鸞はお釈迦様に誉められる凡夫の方に自分を入れているのだろうと最初は思った。すると悪衆生はそうではないやつらということになります。しかしそういう取り方をすると全体の説得力が無くなってしまう。これを読んでいる自分はどうなんだろう。親鸞と同じ凡夫と言う自信はない。私には信楽を得たという経験は何度かあるのですがそれが持続しないのです。いつもそれを呼び起こすことができるかというととてもできない。疲れて落ち込むと信楽なんてどこかに飛んでいってしまう。しかし信楽を保っていない自分はここの分け方で言うと悪衆生でしかない。しかし悪衆生なんて言われる筋合いはないという反発もある。邪見驕慢なんてそんなに持っているつもりもないし。しかしまてよ、本当にそうなのかなとちょっと考える。

Nさん 善悪凡夫人を誉めすぎて悪衆生を貶しすぎている。

そうなんです。その落差が大きすぎる。親鸞さんの文章の全般に言えることですが、作り方が親切ではないのです。読めば納得するような文章になっていない。

Nさん 正信偈の最後で高僧が言っているのだから信じなさいと言っているじゃないですか。だから自分の言葉じゃないところに逃げているのではないですか。

そういうとらえ方もありますね。しかし逃げてはいないのです。親鸞の別の文章の中では自分の書いたものを高僧が書いたものと同列に扱っているものがありますから。そういう覚悟で書いているのは立派なのですが、なかなか分かるように書いてくれない。そこで理屈で解読しなければならない。

 6行目が悪衆生を切り捨てるためだけに書いたのだとしたら、善悪凡夫の自分さえよければよいということになってしまう。すると全ての人を救う阿弥陀仏の本願はどこかにいってしまう。悪衆生は地獄に落ちるだけか。
 そこで善悪凡夫人と悪衆生は同じものを指していると考えなければならないと行き着く。我々凡夫はお釈迦様に誉められるような者になったとしても、悪衆生を抱え込んでいる。裏側に張り付いている。

 Nさん 言われるまで私は別だと思っていました。

普通に読めばそうなります。そして私の解釈が正しいかどうかも分かりませんが、これ以外に納得できる読み方がありません。信楽を得たと喜んだとたんに思い上がりが起きる。自分は覚ったのだ、他人とは違うのだと。信楽がいつの間にか思い上がりになっていく。そうなると信楽は幻の如く消え去る。人間とはそういうものだと思いませんか。この部分はある種の誡めだと思いますが、親鸞はそういう人間の裏表をきっちり見て書いていると思う。

 正信偈の正式名称は正信念佛偈というのです。つまり親鸞自身の心の内容を書いている。とすれば書いてあること全ては親鸞自身の事だと考えなければならない。

 さてそうだとして、今の自分はどうだろうかというところに返ります。さっきSさんが続けているといいことがあると言われました。落ち込んだ自分を反省したからといって信楽が湧いてくるわけではないのですが、しかし絶望するようなことでもない。凡夫とは弱い者だし自分の心に左右されるものだということが分かる。そういう別の視点がでてくる。するとやはりおごり高ぶりがあるということも見える。

 世間でさまざま深刻な事件がありますが、そういうことの根っこはこの辺にあるのではないでしょうか。反省をする機会がなく自分が正しいと思ってしまっていることが間違いを大きくしていく。

Mさん 余裕がないとだめですね。捨てられるものは捨てていかないと日々焦って暮らすようになる。

日々焦るということにも思い上がりがあると思う。

Mさん 自分はできるのだという・・・。知合いの色々な人にいい顔して声を掛けることが、年を取ってくるとつらくなってくる。人からそんな風に見てもらわなくてもいいかと思ってきて、声を掛けることを止めるようになった。捨てることは捨てなければ。

いいことだと思いますね。

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