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2018年9月23日 秋彼岸会法話「諸仏のいるところ」
お経を読むのが仕事ですが、うちの宗派のお経は浄土三部経といいます。
大無量寿経、観無量寿経、阿弥陀経の三つです。これらのお経を坊主として長年読んできて、最近、気になってきていることがあります。それを今日はお話したい。
それは何かというと、これらのお経の中に「諸仏(しょぶつ)」という言葉が出てきます。諸々の仏さんということですね。今回、諸仏の話をするために大無量寿経と観無量寿経をざっと眺めて、この言葉が出てくる文章を拾ってみました。
1 無量の諸仏みな共に護念(ごねん)したまう
数え切れない諸仏がみな共に護(まも)って念(おも)ってくれる。
2 深定門(じんじょうもん)に住してことごとく現在の無量の諸仏を覩(み)たてまつる
3 例えば恒沙(ごうじゃ)のごときの諸仏の世界、また計(かぞ)うべからず
恒沙とはガンジス川の砂です。ガンジス川の川岸の砂のような無数の諸仏の世界があるという。
4 諸仏如来はこれ法界(ほっかい)の身なり 一切衆生の心想(しんそう)の中に入(い)りたまう
諸仏とはそういうものだという言い方を拾ってみましたが、1から3までは大無量寿経から4は観無量寿経から取りました。
もともと諸仏の仏とは仏陀(ブッダ)のことです。仏陀はもともとはお釈迦様のことです。お釈迦様は2500年前にこの世に現れた歴史上の人物です。お釈迦様が覚りを開かれた時に覚った人になった。そして覚った人のことを仏陀といった。その時から覚った人の教えとして仏教が始まった。
その教えを聞いて覚った人はたくさん出てきます。しかし仏教の歴史の中では仏という尊称は開祖のお釈迦様にしか使わない。だからお釈迦様の後に覚った人を指して仏とは言いません。
我々の宗派の場合、親鸞が宗派の祖で、親鸞はお釈迦様の覚りと同じところに達したと考えられますが、だから私は親鸞を仏と言ってもいいくらいの人と思っていますが、親鸞仏とは言わない。敬って親鸞聖人とは言いますが。曹洞宗であれば道元、この人も覚った人だと思われますが道元仏とは言わず道元禅師と敬って言う。そういうことで仏という尊い言葉はお釈迦様だけに付けられたものでした。
ところが、お釈迦様が亡くなってから三百年、四百年くらい経った紀元前後に大乗仏教というものが興ってきます。これはどういうものかというと、お釈迦様の教えは限られた人だけに開かれているものではなく、全ての人に開かれているものだという考えのもとに起された、新しい仏教の考え方でした。そういう考えの人達によってお経がたくさん作られました。それを大乗経典と言います。浄土三部経はその中に含まれます。また皆さん一番耳にする般若心経もそうです。涅槃経とか法華経とかも大乗経典です。それらの大乗経典の中で諸仏という言葉が初めて出てくるようになった。
さっき言った仏の使い方でいけば仏はお釈迦様ただ一人に用いられる言葉ですから、諸仏などという言い方はありえない。ところが大乗経典ではお釈迦様の他にも仏さんがいるという。だから大乗経典が出る前とは全く違った考え方で仏という言葉を使うようになった。
そうして、無量の諸仏でしょう・・・、どこにいるのでしょうか。
そのヒントが引いた文章にあります。2番の文章ですが
深定門(じんじょうもん)に住してことごとく現在の無量の諸仏を覩(み)たてまつる
深定門とは定は禅定(ぜんじょう)です。禅定とは坐禅が有名ですが、心を集中して安定した状態です。門とは方法です。つまり深く心を集中して安定させる方法を行ったときに、諸仏を見るのだと言うのです。
これは分らないでもないですね。坊さん達はそのために修行するのだなと思うでしょう。
もっと端的に言っているのが4番です。
諸仏如来はこれ法界(ほっかい)の身なり 一切衆生の心想(しんそう)の中に入(い)りたまう
如来と仏は同じことです。法界は後で説明します。一切衆生は簡単に言えば人間のことです。だから一切の人間の心の想(おも)いの中に諸仏が入っているという。
ということはですよ、皆さんの心の中に仏がいると言っているのです。どうですか、居ますか?(笑)
そんなこと聞かれても困りますよね。今まで考えたこともなかったでしょう。俺は俺だ、私は私だとしかいいようがないでしょう。
だから、あなたの心に仏がいるのですよ、と言われてもそんなこと信じられるかとなるのが、現代人だと思います。
しかし、私は自分の心の中に仏がいると考えないといけないのではないか、と思うようになってきた。若い時はそんなことを思いませんでした。お経を読んでいても、昔の人はこんなことを言っているのだなくらいにしか考えなかった。しかし、最近はこれは本当のことではないかと思う。そう考えないと落ち着かないというか、深く納得できないようなことがだんだんと出てきた。
そこで、変な言い方をしますが、皆さんの心の中に仏がいるという証拠があるのです。その証拠を今から言います。
その証拠とは皆さんが今ここに居られるという事実です。それが証拠なのです。(一同笑)
ね、変でしょう。皆さんがここに居るということが皆さんの心の中に仏がいるということの証拠なのです。屁理屈と言われたらそれまでなのですが、屁理屈にならないように願って喋ります。
つまり、皆さんが今ここに居られるということは、西照寺という仏の教えを伝える場に、彼岸会という行事の仏の教えを聞きに来てしまったのです。いや、皆さんの気持ちとしてはお寺の行事だからいつもの通り行こうかというぐらいのことかもしれない。しかし結果として仏の教えを伝える場にこうして皆さんが居られる。そして教えを伝える人間の良し悪しは別にしても、教えを聞いておられる。ということは、言い方を変えると皆さんの心の中にいる仏が仏の教えを聞きたがっている。これが理屈です。そんなこと言われても仏なんかいないよ、と言われればそれまでです。
しかし、こういう理屈は私はこれまで考えませんでした。彼岸会の行事も毎年やっているから止めるわけにいかないからやるか、といった気持ちが心の片隅にあった。しかしそういう重荷としての義務感が段々なくなって、やっぱり来る人達の期待に応えなければならないと思うようになり、それを真面目に考えると結論として、皆さんの心に仏が居るからだとなった。
それが、ここに拾った二千年前の文章にも書いてある。1番の文です。
無量の諸仏みな共に護念(ごねん)したまう
つまり、この諸仏は皆さん一人一人です。皆さんの中にある仏――というよりも仏の種です。これを種子と書いて「しゅうじ」と読む。その仏の種がだんだんと教えの養分を吸い取って育って花開く。その種が順調に育つようにということで本日はここに居られる。
それが私達の社会生活で他の人を尊重しなければならない、傷つけてはいけない、争ってはいけない、そういう道徳的な考えがあるでしょう。そういう道徳的な考えの基になっているのが相手の心の中に仏がいるという考え方だと、私は思うのです。
これを西洋のキリスト教思想だと人権というのですが、私は人権は仏教的にちょっと違うな、とずっと思っていたのですが、最近ようやく人権と同じものが仏教にはあったのだということがこれで分った。諸仏が相手の心の中にいるからその人を尊ばないといけない、と納得しました。これで何十年も、もやもやとしてきたものがすかっとしました。
その仏の心は広大にして限りがないと言われる。無量とか無辺際という言葉がたくさん使われます。三千大千世界という言葉もある。そういう無限なるもの、無限の時間、無限の広さなどを皆さんそれぞれが思い起こすことができるでしょう。そういう無限なるものを仏の心は持っている。だから我々はそういうことを考えることができる。そして浄土三部経の言い方では無限なるものの中に西方十万億仏土を過ぎた所に阿弥陀の極楽世界があると説いてくる。それは仏の心ではない現代人の心では、そんなもの信じられるかとなるが、しかしそれでも私達はそういうものを考えることができる。それは既に仏の心があると見た方がいいと私は思う。
また六道の輪廻、地獄・餓鬼・畜生などの世界、それもそんなもの信じられるかとなりますが、しかしそういう苦しみの世界も無限にあると考えることができる。それを乗越える教えとして仏の教えがあることも考えることができる。
これは現代の用語に直せば、皆さんが自分の心の中にそれぞれの宇宙を持っていると言えます。皆さんの持っている宇宙は全世界を飲み込んでいる。そうでしょう。世界というと、頭の中に思い浮かべることができるでしょう。全てがその中に含まれると思うことができるでしょう。それが仏の心です。しかもそれが一人一人違うのです。ここが面白いというかおかしなところです。全てを飲み込んでいるのならみんな同じだと言いたいのだが、一人一人違う。同じ宇宙なのだが違う。それが、その人が「かけがえがない」ということの意味です。かけがえがないということは、姿形だけが唯一だからというばかりでなく、その人の心が持っている大きさが全てを飲み込んでいるのに、唯一で他の人の心とは違うものだからです。だから大切にしなければならないと思うのです。何を大風呂敷広げているのだと言われるかもしれないが私はそう思う。
そこまで考えたとき、毎日接触する人々、ケンカばかりしている家族とか、知合いの中でいやなやつとか、いやだけれども仕事で付き合わざるをえない人とか、いると思いますが、そういう人の心に仏が潜んでいると考えれば、自分と同じ無限を持っているのだと考えれば、いやなやつでも敬いを持って接触しようという気持ちにもなるかと思います。だから大風呂敷で役に立たないことを喋っているつもりはないのです。日常生活に仏の心は直結していると言いたい。
そうして私達は日常生活ではこの世に生れて、それぞれ違った寿命があり、寿命が尽きると死にます。世界を飲み込む仏の心を持っていた身体は無くなる。だから人間が死ぬということは大変なことなのです。物が無くなるのとは違う。しかし仏教では身体を持ってこの世に生きているということは、苦しみの世界に有るという言い方をする。他の生き物を殺さないと生きていられないし、争いもしなければならない、争いに巻き込まれざるをえない、苦しみの世界に居ますが、身体が無くなるということはその苦しみから離れることができるということでもある。そうだとすると、死ぬ時その人の心の中にあった仏の心は苦しみから完全に開放されることになります。それを涅槃(ねはん)といいます。
だから死ぬということは日常生活の心にとっては、悲しくつらいことだが、見方を変えれば心の中の仏が身体という軛(くびき)を解いて、はじめて完全な覚りに達するという、喜ばしい出来事なのだと言われるのです。そうとらえると、自分が死ぬということも、そんなに怖いことではないと思えますし、亡くなった人は身体が消えたからといって消えるわけではない。
これは最近の私が葬式でよく喋ることですが、死んだ人を仏というのはある意味本当のことです。身体はもうありませんが仏という完全な在り方に移ったのだと言える。そして自分の仏の心はその目にも見えない触(さわ)れもしないものから、いつも教えを受けている。そういう世界のことを法界(ほっかい)というのです。お経から拾った文の四番目に出てくる言葉です。身体しかないと考えるとこの世界は物質界ということになりますが、そうではない。身体を離れての心もないのですが、物質だけではないものも含んでいるということを指して法界という。法とは仏法の法です。仏の教えが生きている世界です。生きていようと死んでいようとそういうものが――有る、と言ってしまうと語弊がある――無いとは言えない。
今日、私の申上げたかったことは以上です。分って頂けたか自信がないのですが。最後にそういう見方で、最近の世の中の状況を拾います。今年の初めころでしたか、女の子を殺した継父がいました。女の子は反省している文章を書いているにも関わらず食事を与えず。また少し前に九州大学で焼身自殺した方がおられた。学問をやりたいのだが大学に居場所がなくて、塾のアルバイトなどをやっていたがそれも途切れがちで自殺してしまった。そういう事件を聞くたびに、悲惨だなという感情以上に、この人の唯一で世界を包み込んでいた仏が消えたのだ、何ということをしてくれたのだ、という思いになります。人間に生まれるということはそれほと尊いことなのに。
そんなことも、皆さんお考え頂くとこの場からでも世の中は少しはましになっていくのではないでしょうか。
2018/10/04