真宗大谷派 西照寺

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墓所と犬猫と仏飯の話


「2014年1月18日 同朋の会」及び「2月1日 東北別院市民講座」

 この市民講座で話をするのは二回目で一回目は12年ほど前でした。その時は今より若いが故の、少し過激な宗門批判をしました。ひねくれ者でして変な話をすると思います。私の話に疑問を持たれる方もいらっしゃると思いますので話は一時間半くらいに納めて後の30分を質疑の時間としますのでどうぞご意見をお願いします。
 題名がこの通りですが、案内にも書いた通りこの三つの話題が私の頭の中では繋がったものとなっています。題名からは内容が簡単そうにも見えるのですが、うちの寺の同朋の会(月例学習会)で今回の内容を喋ったところかなり時間がかかってしまいました。内容も難しいところがあります。飛ばして話をしますがガマンしてお聞きください。


墓所

 私は2006年の10月末に住職になって、今年で足かけ9年、実質7年目という経験です。住職の業務はどんなものがあるかというと法事・葬式などの儀式、また教えを伝える仕事、さらに寺を維持する経営があります。さて大谷派は教えには熱心で、儀式はそれより軽く扱う、更に経営になるとほとんど話題にのぼりません。しかし経営は住職の仕事として非常に重要です。しかしそれをまともに扱おうとしない風潮がある。しかし現実は「教えがあればいいんだ」といった姿勢では通用しないことがたくさん出てきます。その最たるものが墓地です。新しく門徒になろうとする人のうち半数以上が寺の境内墓地を求めてきます。しかし、我が寺の墓地は最近までほとんど空きがなく、それを知ると残念そうに去って行く人が結構いました。
 大谷派では親鸞の「自分が死んだら賀茂川に流して魚の餌にすべし」という伝説からの雰囲気が広まっており、墓に正面から向き合おうとはしない風潮があります。また大谷派の教えには墓をきちんと説明できる理屈がありません。そういう背景から住職になった頃の私は墓を重視していませんでしたし、年月が経っても墓については必要悪という立場でしかありませんでした。しかし同時に境内の墓地を整備し墓所を「売って」いるのです。
 そうして墓を求めた人は先祖の墓があるからそこに参るわけです。墓のある場所が寺の境内だから、ついでに寺に参るのです。住職としては寺が主で墓は従ですと説明するわけですが、それを鵜呑みにする人はいないでしょう。
 このように寺の経営にとって重要な墓をきちんと説明できないでいることは無責任ではないかという思いが段々強くなってきました。そんな中で考えさせられるできごとがありました。
 門徒の複数のお宅で起ったことですが詳しいことに立ち入るわけにはいきませんので、それらに共通する特徴を取り出して話します。

 老年の親と中年の子がいる家族です。その中で家族関係や経済的な問題が重なって親子の間が疎遠になり、さらには親子の縁が事実上切れそうな状況に追い込まれていることがありました。このような関係悪化はどう現われるかというと、寺の年会費未納という形で現れます。
 我が寺は三年連続で会費未納の場合は門徒を除名、さらに二年(つまり会費未納から5年)音信が無い場合は、境内の墓所を強制的に更地に戻すという運用方針が役員会で決められています。ただしその家庭の事情によっては会費納入を免除できる権限も住職に与えられています。住職は未納者がある場合、督促状を出します。ほとんどのお宅はこの時点で納入になりますが、中にそれでも次年度まで未納の場合があります。2年滞納になった場合は家族関係に深刻な問題が起こっている可能性が高いです。このとき住職は先に言った運用方針を示して、このままだと除名また墓の強制撤去になることを注意し、会費免除もありうるので寺に相談に来るようにと連絡します。そうすると何とかして墓を守らなければならないと思うのでしょう、家族内のわだかまりや不信感を乗り越えて親子で話し合い、会費を納め寺との関係を復旧しようとします。
 こういった例を見ていると「墓を守らなければならない」「先祖をきちんと供養しなければならない」という気持ちは強いもので、家族内のわだかまりや相互不信に負けないものがあると感じます。そこから壊れかけた関係を修復し協力していこうという姿勢が生まれるようです。教えによって家族関係を修復させようとしてもおそらく耳に入りません、しかし墓が無くなるかもしれないと知ると関係修復に動き出すのです。
 これはどうしたわけだろうかと考えました。さきほど言ったように大谷派の教えにはこれを説明する力はありません。また墓は死者の怨霊を封じ込めるもので墓参りをするのはその怨霊の怨念を静めるためだ、という説もあります。そういう面も否定はできないでしょう。しかしこの説だけで墓を守り熱心に墓参りする人たちの心情を説明することはできません。その心情には先祖への懐かしさや親愛の情があるからです。
 こうしてなぜ墓を守りそこに参るのかという理屈を自分なりにはっきりさせなければならなくなりました。そうしてしばらく考えた末、私なりの答えを見つけました。それを説明します。

画像 これは12世紀頃に作られた餓鬼草子という絵巻物の絵です。
 まず死者を葬る形です。現代のような家ごとの墓や先祖供養の形になったのは江戸時代中期からだそうです。それ以前はどうだったかというと、この絵のような地域ごとにある死体捨て場に葬ったのでした。その場所は京都であれば鳥辺山で、一般的には青山と名の付く場所がその役目を果たしました。死者が出るとそこに運び、富裕な人は穴を掘って死者を埋め、土饅頭を作りそこに木で簡単な目印を立てました。貧しい人は運んで野ざらしのまま置いてきました。
土饅頭であれば数年くらいはそこに誰が埋まっていたかがわかるでしょうが、野ざらしであれば死体は腐敗し獣や鳥の餌になり白骨となり、1年も経たないうちに誰だかわからなくなったでしょう。いずれこの時代は死体は葬ってしばらくすればそれで終わりです。このような葬り方からは散骨や樹木葬は起るかもれませんが、墓参りや先祖供養は起りようがないと思います。
 では墓参りや先祖供養はどこからどうして起ったのか。これから話すことが私がたどり着いた理屈です。
 約2500年の仏教の歴史の中で、約2000年前の西暦紀元前後頃から大乗仏教という流れが出てきます。大乗仏教は、全人類を覚りに導くという崇高で遠大な目標を見出し、多彩な教説を生み出しました。その中には高度な哲学的内容から具体的な実践まで様々なものがあり、全く違う教えや矛盾した教えと見えるものもありましたが、あえてそれらを仏教として大きなくくりの中に一つのものとしたのが大乗であったと思います。その大乗の根底に流れるものが菩薩道―自ら覚り他の全ての衆生を覚らしめる―です。

 この大乗が広まるにあたって重要な役割を担ったものに仏塔(ストゥーパ)があります。
画像
大乗の教えを掲げる人々はこのような塔を建て、その基礎部分に開祖である釈尊の火葬にした骨の粒(仏舎利)を置いたのです。そこに多くの人々が集まり大乗が広まっていった。つまり大乗という教えが、生きている人々に広まるに当って、仏塔とそこに祀られている開祖である死者の骨が人々を結びつける重要な役割を果しました。釈尊は覚りを得た人という意味で仏と言われますが、大乗を学ぶ人々にとっては、自分の師である開祖の仏は既に死者であったわけです。その仏の記念碑である仏塔に参拝することで釈尊を敬い慕う気持ちが沸き起り、その情熱で大乗の教えは深められ展開していったと思います。その中で大乗菩薩道の究極の姿として整えられたものが阿弥陀仏の本願です。阿弥陀仏の本願はあらゆる菩薩の誓願の根本を取り出したものであり、さらにそれが全ての衆生の心の底にあると示したものです。
 この大乗が日本に伝わり日本仏教が始まったのですが、当初はその内容は十分には理解されず、鎮護国家の呪術として国を統治する道具の一つでした。それが時代を経るに従って内容が理解され民衆にも広まってきます。大乗の教えを通して死者と自分は繋がっていることが意識されるようになったとき、死者を葬る形が葬りっぱなしの従来のやり方から、仏塔に倣って記念碑を建て永続的に記憶してそこから生きている自分への教えを導き出すために墓を建てるようになったのではないでしょうか。だから墓石は仏塔を表わしていると私は考えます。

画像 これはうちの境内の墓所を写したものですが、そういう目で見ると似ているでしょう。
以上が私の仮説です。
自分としては答えが出てみると「なあんだ」という感想もありますし、我々が墓に対して持っている感情を理屈付けしただけでないかという感想もあります。
しかし理屈屋の私としては理屈が付けられたことは良いことで、かつ、墓や先祖供養といった、宗門では日陰者扱いされる問題を、きちんと扱うことができるようになったことは意義あることでした。
 ここから更に考えを進めると次のようなことが言えると思います。
墓を建てそこに参ろうとする人には、死者と深く繋がっているという感情があるはずです。それは仏教の言い方からすれば、大乗の菩薩道がはたらいているということです。さらにそれは私達浄土教の言い方からすれば阿弥陀仏の本願がはたらいているということです。これは仏教やキリスト教やイスラム教といった宗教の違いを問わず、墓を建てそこに参ろうとする人の心の底へのはたらきを表わしたものと考えなければなりません。つまり阿弥陀仏の本願とは特定の宗教の教えではなく、人間一般の生者と死者との根本的な関係を表わしたものだと言えると思います。


犬猫

画像  ここ15年ばかりのわが家の犬猫の履歴を話します。
これが15年ほど前にいた猫で、捨て猫でした。他所の家で拾われしばらく飼われた後に母がもらって来ました。性格はおだやかで人なつこかったです。

この猫が来て二、三年後、隣の小学校に子犬が段ボールに入って捨てられていました。当時私の子供達が生徒でしたが、この子犬が欲しいと言いだし、結局うちで引き取ることになりました。この犬は今も健在です。
画像 さて犬猫の履歴と言いながら、主に猫の話をします。
この猫は子犬が来た時もいじめたりせず、じゃれてくる子犬を鷹揚に相手をしていたものでした。病気もせず過していたのですが、2002年の秋頃からだんだん元気がなくなってきました。怪我とかの外から見える変化は無かったのですが、おそらく苦しかったのでしょう、時々壁を掻きむしり壁紙に爪跡を付けました。その年の冬、餌もほとんど食べないようになったので、母が猫を抱いて私が車に乗せて近くの獣医に連れて行きました。診察でははっきりしたことは分らず、栄養剤を注射してもらって帰りました。その帰りの車の中で突然猫が大きな声で長く鳴きました。それを聞いた母は「ああ、死ぬのか」と優しく声をかけていました。私は運転しながら、強い印象を受け言葉が出なかった。

 猫はその後も良くならず、二,三日していよいよ悪くなってきたので、別の動物病院へ今度は父が母と猫を車に乗せて連れて行きました。当時私は兼業をしていてこの日は外出していたのです。つれていった動物病院では何でここまで放っておいたのかと言われたそうです。既に片肺がダメになっており、もう片方で何とか呼吸しているありさまでした。人工呼吸器を付けてしばらく様子を見たようですが、もう手遅れだと言われて連れ帰る車の中で死んだそうです。私は夕方に帰宅したのですが「猫は?」と聞くと仏間に置いてあると言います。ああ、と思いながら仏間に行き動かなくなった猫を前に坐っておりました。しばらくして居間に戻った私の姿を見て、子供達が「お父さん泣いているね」と言ったということをあとで妻に聞きました。涙は出さなかったのですが身体が泣いていたのでしょう。
 たかがペットの話かもしれませんが、死んだときの衝撃は人が死んだくらいのものがあります。その後しばらくはみんな落ち込んでいましたが、春になって母が近くの家で生れた子猫をもらってきました。

画像 前の猫とうり二つで性格もほとんど同じ。違うのは尻尾の形と毛並みの立ち方ぐらいでした。犬はこの猫に焼き餅を焼き噛み殺す勢いでかかっていくので離して飼うようになりました。この猫も前の猫と同じように家族に可愛がられ、お参りの人々に愛嬌を振りまきました。猫が変わったということに気づかない人も結構いたようです。

 こんな中で私の母が血液のガンであるリンパ腫になり、治療を受けるようになりました。ガンの治療は強烈な副作用をもたらし健康な体力を急速に奪っていきます。母の場合は治療が上手くゆかず長期化し、体力と免疫力がどんどん低下していきました。私が病院への送り迎えをしていましたが、半年くらい治療に通った秋口に病院へ行く車の中で「生きる望みを無くした」とぽつりと言いました。私ははっとして返す言葉が出なかったのですが、前の猫が車の中で鳴いた情景を思い出しました。母はガン治療約1年で副作用による免疫力の低下から肺炎を起しその悪化で死にました。死を感じることは猫も人間も同じなんだなと思いました。

 この2代目の猫は昼夜なく気ままに出入りする生活で、夜12時過ぎに外に出たがり朝まで遊び、朝、庫裡の玄関が開くのを外で待っているという毎日でした。そして2012年の4月のはじめの朝、玄関を開けると猫の姿が見えません。これまでも1日2日帰ってこなかったことがありましたので、そのうち来るだろうと思っていたのですが、1週間経っても現れません。家族皆が心配しそれぞれが探し回りました。車に轢かれたのかとも思ったのですが死体も見つかりません。そうして一月経ち二月経つともう猫はいなくなったのだという事実を受入れざるをえなくなりました。しかし、気持ちの落ち込みがひどく、前の猫が死んだときよりつらいものでした。死体がないために割り切りができなかったのでしょう。

画像  そうして半年ほど過ぎたとき、伯父の家から野良猫が納屋に産んだ3匹のうちの2匹を飼って欲しいと言われて連れてきたのが今の猫たちです。

 門徒さんにも犬猫を可愛がっている人は沢山おります。犬の場合ですが、死んだ時にどう葬ればよいかという相談を何軒かのお宅から受けたました。うちには動物用の墓所はなかったので「家族の一員ならばお宅の墓所に納めたら」と言ったところ、こちらがびっくりするくらい喜びました。最初に墓所に犬の骨を納めたお宅の時は、私にはまだ動物と人間を差別する意識がありまして、自分は感知しないから勝手に納めていいよという応対でした。次のお宅の時もそうでした。(このお宅は捨て犬や虐待された犬を飼っておりました)しかし段々、死んだ犬に対する門徒さんの気持ちの深さに思い及ぶようになりました。そのお宅で2匹目が死んで納骨するとき「一緒に本堂でお勤めしてから納骨しましょうか」というと、泣いて喜んでいました。
 このように犬猫は言葉を話はしませんが、私達と心を通わすものであると言っていいでしょう。それは犬猫が人間と暮らすことにより、ある面人間と同じものになっているからだと言えます。

こうして自分に関係する犬猫は自分と同じという考え方を推し進めると、犬猫ばかりでなく、植物や物質も私と同じであり、私というものの一部を成しているというところまで突き進みます。そういうとらえ方を簡潔に示している文章を紹介します。

画像 清沢満之(きよざわ まんし 1863〜1903)
1900年(明治33年)の愛知教育会での講演から


「人と人の間に行われる、感じ合うということがらは、天地の法則である。この説明が一般的にはどうもすると、物質の原子がどうだ分子がどうだというところからからはじまってしまう。そうすると、人間の身体はいくつかの元素からできている、脳髄も神経も物質の元素からできているということになってしまって、このような仕方で人間を説明しようとするから 行き詰まる。

        ・・・・・・

 このようになってしまうのは、根本が間違っていると思う。根本は「人間が知る」というところにある。天地の間の事を知るとは、人間が知るという行為が知識となるのだ。だから人間において最も大切な働きは、知るという行為を成り立たせるところの根本である、と言わなければならない。すなわち、人間の働きの中で最も根本となるものは、人間相互が感ずると いうことである。感ずるというところから総てが起こって知情意が起こり、物を知るとか動くとか欲するという働きができてくる。つまり、相感ずる、相応するということが無ければ、総ての働きができない。そしてそこからはじめれば、 総ての説明ができることになる。
 (演台に置いてあるコップを指し)ここにあるコップのような機械的なものは、精神的な働きの度合いが低いのです。 植物は精神的働きの度合いが少し高まってくる。動物はそれがさらに高まってくる。それから、人間の神経の働き、精神の働きという風に高まってきて、これらすべては同一種類の働きであって、下等な状態と高等な状態との違いがあるだけで 別種のものではない。」

清沢満之は大谷派の坊主でかつ明治初期の第一級の思想家ですが41歳で結核で亡くなりました。この文章は亡くなる3年前の講演ですが、「感じ合う」という言葉で端的に自分と他の生物、物質が一つのものであることを表わしています。


仏飯

画像 我が寺の仏飯はこういうものです。
毎朝、坊守が盛りつけて、私が運んで供えます。その後、自分達の朝食です。そして11時頃に下げて昼食の一部になります。ご覧の通り多くの仏器がありますので、後で食べることを考えると沢山は盛れません。これでもご飯茶碗2杯分くらいあります。さて毎日仏飯を供えるという作業はそれをしないと気が済まないものになっているのですが、なぜ行うのでしょうか。墓所と犬猫のところでの内容を繋げると次のようになると思います。

今生きている私というものには過去に亡くなった人々が深く関わっている。それを自覚するとき、その人の残した志というものが今を生きる私の力となります。ものを食べるということは生きる力を作り出すことです。
また私には、犬猫や植物や大地や水や空気がやはり深く関わっています。それらによって私が作られているといっていいでしょう。
亡くなった人や犬猫や植物や大地などに対して、私を生かす力の元であるご飯を捧げる。そうすることによりそれらとの関係を日々新たに深くしていく。
その営みを動きのあるリズムとして作り出す意味合いが込められていると思います。

2014/02/19 公開

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