真宗大谷派 西照寺

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生まれ変わることの重さ・恐ろしさ


2014年3月1日 東北別院市民講座

現代の「死後」感

 今回の題名を決めてから、たまたま話の取っかかりとなるようなテレビの番組を見ましたので、その話から始めます。
 先日、テレビで「夫と同じ墓に入りたいか」という話題を流している番組がありました。私はテレビを熱心に見る質たちではなく、このときも茶を飲んでいるときに流れていたので5分ほど眺めただけで、最後までは見ていません。おかしなテーマがあるものだとちょっと興味を惹かれたので見たのです。しかし、その5分ほど見た内容が印象に残ったのでそれを話します。
 ある家族の話です。夫婦と幼児一人の三人家族です。夫はサラリーマン、妻は専業主婦です。
この夫婦の間にささいなことからすきま風が吹くようになり関係が悪化していきます。はじめの場面は子供の世話をしながら朝食の支度に忙しい妻に、夫が自分のセーターはどこにあるかと尋ねるところです。妻は自分が忙しくて手が離せないのが分らないか、という態度で夫に自分で探せと言います。夫には妻が主婦の務めを果さない人間と映り、妻には夫が自分の事しか考えない人間と映ったようです。
 またあるときは、妻と子が風邪を引いて寝込んでいた朝、夫は看病するでもなく、いたわりの言葉をかけるでもなく「仕事に行ってくる」と冷たく言い放ちます。そして夫婦間の溝はどんどん深くなり夫はついに朝帰りをするようになります。
 とうとう妻は離婚を考えるようになります。しかし、自分と子供が金銭的に夫に頼らざるをえない現状を考えて思いとどまります。しかし妻は夫と同じ墓には入りたくないと思うようになり、親から相続した金を使って夫に内緒で自分のための墓地を求めます。寒々しい話ですが、妻と夫との間には怨みや蔑み嫌悪の情の深刻な溝ができてしまったのでしょう。
 このような問題は結構一般的な社会現象のようで、夫婦や家族が同じ墓に入るかどうかを研究している大学教授が番組に出ていましたが、そんな研究があるのかとちょっと驚きました。
 さて、この問題は当事者にとってはとても切実で苦しく出口の見出せない類のものであることは想像できます。ここでは墓という自分の死後に目標を置き、そこへの現在の生き方が問題になっているのですが、本日はそこに踏み込むことはしません。本日はこの問題に表われた「自分の死後」について考えます。

 「自分の墓を配偶者や家族と別にしようとする人は、自分が死んだらどこに行くと思っているのか」
この問いには二つの問題が含まれています。

(1)肉体と魂の分離
 この問いでは肉体と魂(心あるいは精神とほぼ同じです)が分離できるということが前提です。私達はそれを当然のように思っている面があります。すなわち肉体が滅んでも魂は残っていると多くの人が思っているのです。(葬式での遺族の死体に対する行動とか弔辞などを考えてみればわかります。)また私達の使う言葉が肉体と魂の分離を前提として作られているという面があり、普通はそこに誰も疑問を持ちません。
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 しかしこの前提はよくよく用心して扱わなければなりません。つまり肉体と魂は本来分割できません。なぜなら魂――つまり心と心に思うこと、は肉体があってこそ活動できるのです。心に思うことは声すなわち声帯や口という、肉体に属するものがあってこそ言葉として表わすことができるのですから。
 ではその声を出す肉体が死によって滅んだら、魂も一緒に無くなってしまうのでしょうか。そう断言することはとてもできません。なぜなら、そんな風に割り切ることは自分のこれまでの苦しい経験や、残される者たちへの思いなどにおいてできないからです。
 つまり、肉体と魂は分離できると考えることは正しいと言えず、肉体と魂は分離できないと考えることも正しいと言えないのです。この避けることのできない矛盾を含んだものとして「自分が死んだらどこにいくか」という問いを扱わなければならないのです。

(2)魂の行き先
 さて、そういう矛盾した問題を考えているのだということに注意しつつ、話を進める上で一応肉体と魂は分離できると認めるのです。すると
「自分は死んだらどこに行くか」という問いは次の言い方になります。
「自分の肉体が滅んだら自分の魂はどこに行くか」
 夫と同じ墓に入りたくない妻は、夫への恨みを懐いたまま死ぬことになります。第三者の目から見ると、恨みを持った魂が今より良いところへ行くのはちょっと無理ではないのかと思います。しかし、妻としては自分の魂は夫より上の立場にあるはずだという思いもあるでしょう。
 ではその魂はどこに行くのでしょうか。その行き先を自分は分っているのでしょうか。墓の中の骨の隣にでもいるのでしょうか。そういう単純な話でないことは当然でしょう。また以前流行った「千の風」のように風になるという情緒的な行き先を信じるのでしょうか。これもちょっと場違いの感じです。
こうして確認してみると墓を分けるというやむにやまれぬ行動は、現実の生活への絶望から来る目先の解決であるということが分ります。つまり自分が死んだらどこに行くかという問いをきちんと考えきれていないのです。
 この墓を分けるという行動に走る人に対して死んだらどうなるかという問題をぶつけることは、ちょっと筋が違うのではないか、横槍ではないかと思われるかもしれません。しかし坊主の立場としては自分が死んだらどうなるかということをとらえきれていない例と映りましたので取り上げました。

 葬式を執行していると多くの人々が同じような状況にあることが分ります。つまり亡くなった肉親の魂が、どこか今より良いところへ行って、自分達を上から見守っているというイメージを多くの人は懐くようです。弔辞などを聞いているとそこを「天国」「草場の陰」「向こう」などの言葉で指しているようです。その言葉尻をとらえて、仏教ではそんな言い方はしないと言いがかりをつけてもはじまりません。そもそも、こういう言葉を使う人は仏教を特に意識してはいませんから。このような言い方は人情としては当然と思います。しかし言っている本人も含めて遺族や縁者は死んだ人の魂の行き先をつきつめて考えようとはしないのです。その結果、その人の精神状態には不安が横たわります。
 これが多くの現代人の肉体と魂への関わり方だと思います。
さて、例として出したテレビ番組の問題がどうすれば解決できるか、という具体案をここでは示すことはできません。しかし仏教はその解決の手がかりとなりうるものを長い歴史の中で作り上げてきました。それは仏教の世界観です。次にその話に進みます。


仏教の世界観

 「死んだらどうなるか」と考える私達は人間の世界に住んでいます。その「自分が住む世界」を仏教では「道」という言葉でも表わします。「道」はこの場合「状態」という意味です。私達の生まれ変わる世界の種類を6種類に分け、六道と名付けます。もともとはバラモン教の神話的な考えなのですがそれを仏教が取り入れ独自の解釈を発展させたのです。この世界観が形を成したのは、おそらく大乗仏教が起った時期と同じと考えられます。これからその解説をしますが、資料は源信が著わした「往生要集」によっています。
 源信は七高僧のうちの第六祖で比叡山の学識豊かな高僧でしたが、どうも宗門内では影が非常に薄いのです。その原因の一つに主著であるこの「往生要集」の影響があると思います。この本は始めのほうで六道のあらすじを説明しているのですが、地獄や餓鬼の説明が凄まじいのです。(後で少し紹介します。)そのリアルな表現によって中世の来世観に大変な影響を与え、大衆への仏教流布に大きな役割を果したのですが、読む人の多くはあまりの印象の強さにそこで止まってしまって、そもそも源信がこの本を書いた意図を理解するところまで行かなかったのではないか。結果として地獄や餓鬼の強烈なイメージが、恐怖によって人々の善悪観に縛りをかける方向にのみ働いたと思います。その反動として近代になって、六道輪廻は時代遅れの迷信として顧みられなくなるばかりか、坊主自身も六道の話題を卑下して避けるという情けない風潮になって、まともに扱わなくなりました。それが源信が影が薄い理由だと思います。
 私自身若い時にこの本を読んでいますが、始めの地獄の記述は強烈な印象でしたが、それ以降の七割方は退屈な文章が続いたという感想しかありませんでした。今回改めて読んでみて、源信の意図がようやく掴めてきた感じがしています。では説明に入ります。
 
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 生まれ変わりは魂が違う身体を持つことですので、その身体があるべき場所がなければなりません。その場所全体の略図がこれです。本来はインドの神話的で多彩な世界像なのですが、ここでは場所の上下関係だけを示す簡単な図にしています。
 大きなくくりとしては、地獄・餓鬼・畜生・阿修羅・人・天の六つ(六道)です。地獄は更に八つに分けられます。餓鬼は人の下と人天の世界に共存する二つに分けられます。畜生も人天と共存します。天は人の上で、現代の我々の言葉では「神々」に相当すると思います。天は欲界(よくかい)の六欲天と色界(しきかい)、無色界(むしきかい)に分れますが、具体的に表現されるのはほぼ六欲天までです。葬式の弔辞での「天国」などはここに重なると思います。阿修羅は人と天の間にあり天と戦うものです。ではそれぞれのあり方がどのようなものなのか、往生要集から二、三例を引いてみましょう。

 ・地獄(等活)
 「この中の罪人は互いに害する心を持つ。もし相会うことがあれば、狩猟者が鹿に会ったように、鉄の爪で互いに掴み裂く。そうして血・肉は破れついには骨だけとなる。また獄卒が鉄の棒で罪人の頭から足先まで打ち砕く。また極めて鋭利な刀で罪人の肉を割いて刻むこと、台所で魚を刻むようである。」
地獄では一番軽い等活地獄にしてこのありさまです。

・餓鬼(多くの例の中の一つ)
「ある餓鬼は昼夜の二回、五人の子を生むのだが、生れてすぐその自分の子を食うのである。しかし、そんなことをしてもこの餓鬼の飢えは満たされない。」

・天(トウ利天)
「この世界に住むと快楽を受けることは極まりないのであるが、しかし命の終りはある。その衰えの相が出ると、縁者や天女達は彼を捨てて離れていく。命の終る時の苦悩は地獄での苦悩よりも激しい。」

 皮肉なことに、ここに書かれているようなことは往生要集が忘れ去られた近代・現代において、ある意味で実際に起ることになってしまいました。しかし今回はそこに立ち入ることはしません。


 次にそれぞれの世界における寿命(時間)です。
往生要集の内容に従って計算してみました。カッコでくくった数字はその世界での勘定による寿命です。

・天
  他化自在(たけじざい) 2千560万年(一万六千歳)
  楽変化(らくへんげ) 640万年(八千歳)
  兜率(とそつ) 160万年(四千歳)
  夜摩(やま) 40万年(二千歳)
  トウ利(とうり) 10万年(千歳)
  四天王(してんのう) 2万5千年(500歳)
・人 50〜100年
・餓鬼(がき) 1万5千年(500歳)
・地獄
  等活(とうかつ) 1千250万年(500歳)
  黒縄(こくじょう) 1億年(千歳)
  衆合(しゅうごう) 8億年(二千歳)
  叫喚(きょうかん) 64億年(四千歳)
  大叫喚(だいきょうかん) 5百12億年(八千歳)
  焦熱(しょうねつ) 4千96億年(一万六千歳)
  大焦熱(だいしょうねつ) 半中劫
  阿鼻(無間)(あび・むけん) 1中劫

これらの途方もない数字については、皆さん色々感想もあるかと思いますが、私の感想を少し述べておきます。
 原発事故が起きてから、10万年、100万年といった時間が私達の現実に直結する時間として考えざるを得ず、またその時間の長さは人類の滅亡を嫌でも考えざるを得ないものであることが突きつけられました。さてそこで、人間道から地獄道に落ちた者がそこでの寿命を終って、また人間道に戻ることができたとしましょう。そのときそこに人類はまだあるのでしょうか。一番軽い等活地獄でも1千250万年です。おそらく人類は滅亡しているでしょう。そういう恐ろしいまでのスケールを暗示しているし、この世界観を作り上げた仏教徒達はそれを意図していたと思います。
 つまり、六道輪廻というと、悪いことをすれば地獄に落ち、そこで報いを受け終れば、また人間や天に生まれ変わることができるというイメージを懐きがちですが、この時間の計り方は、そういうある意味甘い考えを打ち砕きます。今の自分の生というものは、事実上一回限りで取り返しのつかないものである、ということを暗示しています。


 次にどのようなことをすれば、その道に行くのでしょうか。
往生要集には人道より悪い道に落ちる原因しか書かれておりません。

・畜生・・・愚癡、無慚にしていたずらに信施を受け、他の物を償わなかった者。

・餓鬼・・・自らは美食し家族に食を与えない者。名利を貪り不浄説法した者。
      他人が働いて得た物を欺いて取った者。
・地獄
  等活・・・・・・・・殺生(殺人)。放逸にして殺生せる者。
  黒縄・・・・・・・・殺生、偸盗(強盗)。物を貪るが故に人を殺し縛り食を奪いし者。
  衆合・・・・・・・・殺生、偸盗、邪淫。
  叫喚・・・・・・・・殺生、偸盗、邪淫、飲酒。
  大叫喚・・・・・・・殺生、偸盗、邪淫、飲酒、妄語。
         (妄語:嘘、特に自分が覚ったと偽ること。)
  焦熱・・・・・・・・殺生、偸盗、邪淫、飲酒、妄語、邪見。
         (邪見:邪悪な見解、特に善悪の因果や三宝を否定すること。)
  大焦熱・・・・・・殺生、偸盗、邪淫、飲酒、妄語、邪見。淨戒尼を汚す。
  阿鼻(無間)・・五逆罪を作り因果を排除し大乗を誹謗し四重を犯し虚しく信施を食う者。
         (五逆罪:母を殺す、父を殺す、阿羅漢を殺す、仏の身を傷つけ血を流す、
              教団を破壊する。
          四重:淫、盗み、殺人、妄語。)

八つの地獄はそこに落ちる原因が一つづつ重なっていってより悪い行き先が決まります。七番目の大焦熱地獄の 「淨戒尼を汚す」は邪淫のくくりに入るものと思われますが、特に別に指定して重罪であることを示しています。最後の八番目の阿鼻地獄はちょっと分りにくい書き方ですが、直前の大焦熱と何が違うかというと、大乗仏教を否定し破壊する罪が加わっています。

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 「生まれ変わり」をもう一度考えます。六道輪廻を受入れる限り、生まれ変わりはこの三界の中でしかありえません。人道にある私達が、死んだらもっと善いところに生れたい、生れさせて上げたいと願うとき、そこは三界の中では天道になるわけです。ですから、葬式の弔辞などで「天国」とか「あの世」という言葉が出るとき、それはここでの天を指している、とあてはめることができます。すると行きたい場所は天であり、それと反対に行きたくない場所は地獄ということになります。その意味を表わす言葉として「地獄と極楽」という対句がありますが本来は「地獄と天」という言い方のはずです。では「極楽」とは何かについてはこの後考えます。
 次に輪廻についてですが、先にも言ったとおり、善いところと悪いところを生まれ変わって廻る、といいながら、実は悪いところに落ちてしまったら、そこから善いところに上がるのは不可能に近い難事であるということを示しています。つまり、万一天に生れたとしても、そこから悪い道に落ちる恐れがあり、天より下の道に生れたらそこから上がるのは絶望的なのですから、この三界の中での生まれ変わりによって魂の救いを得ることは不可能であると分ります。この出口の無い恐ろしい循環から解放されることはないのでしょうか。
 この難問を大乗が始まって間もないころの仏教徒達は、考えに考え抜いたと私は思います。そうして「極楽・浄土」という輪廻の外にあるものをいわば「発明」したのです。
 
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その浄土は、六道と同じく肉体が滅んで魂が行くようなところでしょうか。
 もし、そういうところだとすれば、天の上にもっといいところとして浄土を作っただけことになります。それでは浄土は六道の輪廻の中に入ってしまい、全く無意味です。

 そうではないものとして浄土を作ったとすれば、その浄土に生れるということは、輪廻とどう違うのでしょうか。浄土に生れることを「往生する」と言います。往生した者は自みずからの完全な覚りを達成し、苦悩の衆生を覚りに導く行為をする者、すなわち大乗菩薩道を行う者となると説いてあります。
 苦悩の衆生はどこにいるのでしょうか。それは三界におり、その中で輪廻する者です。さらに言えば苦悩の衆生とは人道に生れて今現に生きている「私」のことです。
 とすれば、浄土が有るか無いかの判定は、往生した者の菩薩としての行為が人道で生きるこの「私」に働いており、かつ私がそれを感じているかどうか、そこに懸かってくることになります。
 皆さん、この点をご自分の身に照らしてよくお考えください。


さて、最初の話題に戻ります。
 あの夫婦は互いに寒々しい亀裂を抱えたまま一生を過すのでしょうか。夫は無反省のまま自家の墓に入り、妻は秘密にしている別の墓に入るのでしょうか。それぞれは死んだ後どこへ行くと思っているのでしょう。夫は無反省に今より良いところ、妻は絶望を忍んだ対価として夫が行くところより良いところに行くと思うのでしょうか。
 往生要集の内容から私が考えるに、二人の行き先で可能性が高いのは畜生道だと思います。こういう言い方には当然異議が出てくると思います。また当事者が仏教の説を自分の死の問題に関係づけようとしている可能性はほとんど無いでしょう。仏教的伝統の中で形を成した自分の死のとらえ方や墓といったものに関心がありながら、それを説明する仏教の説をしっかりと理解しようとしないこの風潮は現代の悲劇だと思います。
 しかし私は夫婦間の亀裂を解決するためには、人間道の初めから終りまでを視野に入れた理解がなければならないと思います。そのためには、この仮に設定されたともいえる仏教の世界観を受入れた上でそれを納得できるまで考えなければなりません。その上で六道輪廻を断ち切ることの意味と浄土に往生するということの意味を理解するのです。そのとき夫婦の亀裂の解消ができる、すなわちお互いが救われる、ということになると思います。そして六道輪廻は恐れて盲信するためのものでなく死と生を正しく理解するための手段であったと知るでしょう。
 夫婦の亀裂を残したまま、それぞれに心地よい死後の場所などどこにもありえないと私は思います。

2014/03/03 公開

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