真宗大谷派 西照寺

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凡夫・光・往生極楽


2017年2月18日 同朋の会

 正信偈の中をあちこち飛びながら喋っています。また毎回、参加される方が同じというわけではなく、今回も新しい方が見えられていますので、なるべく一回ごとに完結する話にします。また私も年を取ってきて、若い時とは喋り方や、ものごとのとらえ方が変わってきています。自分でも試行錯誤しながら喋っていますので「何を喋っているのだ」と不満に思う方もいらっしゃるかもしれません。ですからいつもの通り合いの手を入れてもらいながら、話題を進めます。今日は凡夫、光、往生極楽について話します。

1 凡夫
 いつもの通り半分愚痴のような話で始まります。前回の同朋の会は1月21日でした。その時喋りながら、ちょっと風邪気味かなと思いました。夕方になったら、段々ひどくなってきた。皆さんそうだと思いますが、風邪を引いたとき、悪くなるとか大したことないとかのパターンが自分で分かるでしょう。
 今回のはちょっと嫌らしいなと思いました。翌日の日曜になったらかなり悪くなりました。そのスピードがこれまで経験したことがないくらいです。その週の半ばに法事予定が入っていましたが、この悪くなり方だと法事を勤められないなと思った。そして翌日の月曜日には医者に行きました。風邪で医者に行くなんて5、6年ぶりです。インフルエンザを疑ったのですが、検査したらただの風邪でした。薬を四日分出されて、それを飲んだら良くなり法事も勤めました。

 薬を全部飲み終わった頃に、風邪はよくなったのだけれども、首の筋の神経というか、そのあたりがビリビリと痛くなってきました。こういう痛さって分かるでしょう?(笑)。この痛さは私の場合は風邪の症状で出るのが多いのですが、今回は風邪と入れ替わりに突然きた。何で風邪が治ったのにこの痛みが来るのかと思った。その後、色々考えてしまいました。この年ですし、前にも言った通り不測の事態とかありましたし(笑)、悪い方、悪い方へと考えが行ってしまう。

 首の痛みは置き薬の風邪薬を飲んだら和らいだのですが、消えるわけではなく、そのうち痛みが歯のほうに移ってきました。私は歯周病で奥歯を二本抜いています。私の子供の頃は高度経済成長期でものが豊かになりつつあった。甘いお菓子をたくさん食べられる時代になり、歯磨きが嫌だったので虫歯小僧になりました。そして中年になって歯周病で苦しみ、その歯を抜いて痛みがとれほっとした。しかし歯がなくなるたび、ものが噛めなくなる。そして今回はその歯を抜いた後の歯茎が痛むのです。これは初めてのことだったので、大袈裟ですが免疫力が低下したのか、あるいは別の原因があるからでないかと悩み、夜もなかなか寝られない。それが続いて一月経ちました。

 自分という人間はダメですね。こういう場所で偉そうにお説教して「私は覚った」などと話す。とりあえず覚ったような経験はしています。しかし身体の痛みが続くと、なんだこいつはと自分に対して思う。「お前は覚ったとか偉そうに言っているが、痛み一つでこのありさまか」と。
 「心頭滅却すれば火もまた涼し」という言葉があります。織田信長に焼き討ちされた禅宗の坊さんが言ったというものです。火で焼かれて殺されるのに心頭滅却つまり煩悩が消え去れば、すなわち覚れば、火などは問題でない、喜んで死んでやると。私はこんなことは絶対できませんね(一同笑)、泣いて逃げ回るでしょう。すぐ死ぬのではなく炙られて死ぬのですから。二、三年前にヨルダンの飛行士がイスラム国に捕えられ火炙りにされたことがありましたね。

Sさん 鉄砲で撃って殺すのならまだしもね。

そう、一発で殺してくれればまだいいですが、苦しみを与え続けながら殺すというのは、想像しただけで身の毛がよだちます。
 歯の痛みはもちろん火炙りほどではないでしょうが、とてもつらい。この経験をした人とはすぐに話が通じる。「歯が痛い」と言っただけで「ああ、そうだよね」と共感がつながる。この前、会館修繕工事のご寄付を持ってきてくださった門徒さんと歯の痛みで話が盛り上がってしまった。(一同笑)
私の歯茎の痛みは今はかなり落ち着いてきました。良くなりつつあると分かる。それで気持ちが少し晴れてきました。しかし、回復に転ずる期間がずいぶん長くなっています。
 今回は自分というものは一体何なんだろうかとつくづく思いました。歯茎が痛いくらいで世の中が変わるような落ち込みかたをする。こんな人間が坊主をやっている。そうじゃない立派な坊主にはなれないよな、と。
 説教では凡夫ということを色々に言いますが、今回私が納得したのは痛みに耐えられないのが凡夫だということです。こんな単純なことで自分の人生観がころっと変えられてしまう。身体の調子が良いときは「自分は覚ったのだ。怖いものはない」と思うくせに歯が痛いだけで落ち込む。

Sさん 歯が痛いのが、虫歯で痛いのか、風邪で痛いのか、どこかにガンでもあるからでないかとか、悩むと余計に痛くなる。

そうそう、そしてやはり医者に行って検査してもらわなければならないかとか、検査してガンを見つけられてしまったらどうしよう、とか。(笑)

一切善悪凡夫人 一切の善悪の凡夫人
 親鸞さんは凡夫を善悪凡夫人と言う。凡夫というものは善悪にこだわるものだと言っている。凡夫に対する言葉としては聖人でしょうね。そうすると聖人は善悪を超えたものとなると思います。聖人は「心頭滅却すれば火もまた涼し」となるのかもしれませんが、私ははたしてそんな人がいるのだろうかと疑います。みんな身体を持っていますから、歯に穴が開けば聖人だって痛いはずです。

Sさん 痛みが違うんだよ和尚さん。大したことない歯の痛みもあるし、がまんできない時もある。誰でもそうだと思う。

私もそう思います。それで聖人についてですが、我々の宗派は「親鸞聖人」というでしょう。普通に使っているでしょう。でも改めて「親鸞って聖人なの?」と思いませんか。親鸞は凡夫じゃないのか。
 自分等の宗派の開祖ということで、崇め奉るために後の人達が持ち上げて付けたものでしかないと思う。まあそれはしかたがないことかもしれませんが、「親鸞聖人」という文句は見方を誤らせますね。親鸞聖人と言われると、親鸞さんは歯が痛くなっても我慢できる人なのかと思いかねない。でも私は親鸞さんは我慢できなかったと思います。あえて親鸞を聖人と呼ぶ意味があるとすれば、歯が痛いことは誰にも我慢できないことだということをはっきり教えてくれた人だから、この人を敬うのです。ちょっとこじれた言い方をしましたね。
 だから、それまでは出家して努力すれば何とか覚れる、出家して山に籠って覚るまで下りない、といった崇高な覚悟が要求されていた仏教を、そんなことができる人はごく僅かだし、そもそも自分自身はできないと言われた。その自分と同様の他の無数の人達が覚れる道はあるのかないのか。そういうことをはっきり言ってくれたので、この人は我々凡夫には尊い人になる。

 さて親鸞さんは凡夫は必ず善と悪にこだわるという。凡夫は一所懸命にものごとを善いことと悪いことに分けて、善いことを求め悪いことを排除する。あたりまえのことですし、立派な心がけです。そういう人が集まってこの世の中ができている。だから凡夫はみんな善い人です。しかしその結果としてこの苦しみの世界ができ上がっている。
 これが浄土真宗での世の中のとらえ方と言っていいでしょう。私はこれは仏教での世の中のとらえ方と言ってきたのですが、最近、よその宗派の方と話す機会が多くなり、仏教のとらえ方と言い切れなくなってきた。具体的には日蓮宗の学者の方とお話ししたときです。日蓮宗は親鸞の考えとはかなり違います。この世の中を本当に善くしようと思っているところがある。しかし親鸞は自分の力の限界というものを知っていて、善いことをしようとしても限界があるし、善いことをしたと思ってもそれを他人が善いと認めるかどうかは分からないという。余計なお世話だ、悪いことをされたと思うかもしれない。そうして善いことをする人達が集まってぶつかりあって喧嘩したり戦争になったりする事実を見ている。親鸞の考えにはこんな面がある。
 しかし日蓮の考えの場合には、自分が善いことをしようとして相手が間違っていたら、折伏といって相手が自分の考えに賛成するまで説き伏せるということをするようなのです。確かにこれは相手と議論して筋を通して納得させるということで大切なことです。しかし、日蓮宗と真宗では自分の主張を通そうという強さが結構違うと思いますね。
 さらに脱線のついでに言いますが、その日蓮宗の学者さんと私はとてもウマが合いました。この方の日蓮宗の解説は今言ったような内容なのですが、この方自身の立場は、どちらかというと私達に近いのです。日蓮宗の限界も話してくれる。この方は親鸞に共感を持っておられると思いました。
色々な宗教・宗派の人と言葉を交わしてみると、宗教・宗派が違ってもものごとを見る姿勢が同じだと心が通じると思います。そしてそれが大切だと思います。だから親鸞が言っているのは宗教宗派を超えたところだと思います。
 元に戻ると、善悪凡夫人は、ものごとを善くしようとしながら苦の世界を作り上げている。その世界に生きざるをえない。歯が痛いと落ち込んでしまうような自分と家族、友人、世界が苦しみから逃れることができるのだろうか。

2 光
 前回の続きです。私はこの光というものが苦手だと話しました。
普放無量無辺光
無碍無対光炎王
清浄歓喜智慧光
不断難思無称光
超日月光照塵刹
一切群生蒙光照

 無量光、無辺光、無碍光、無対光、光炎王・・・・このようにさまざまな光に例えて阿弥陀さんの力を表わしている。この光について前回は文句を付けましたが、続きを喋らせてもらいます。
 私が真宗を勉強したての頃は、阿弥陀さんを表わすのに光がたくさん出てきて、すごいなと思ったものですが、段々嫌になってきました。何でもかんでも光になって有り難みがなくなる。これらの光の喩えの中で、私が一番文句を付けたいことばが「超日月光」です。これまではまともに考えず済ましてきたのですが、年を取って疑い深くなり、一々確認しなければだめだと思うようになりました。
 そうすると「超日月光」はくどい表現だし、見境なくべたべたと喩えをくっつけたようでセンスがない。そう思いませんか?「日月光」だってひどいのです、お日様とお月様をくっつけてしまっていますから。さらにそれを超える光だと言うのですから、どうしようもない言葉です。

Mさん この言葉ではお月様は自分で光っていると考えているのですか。今の私達はお日様の光が当って光っていると分かっていますが。

おそらくお釈迦さん当時の科学的知識では、月が自分で光っていると考えられていたのでしょうね。それはその当時の世界観だから、そのことに対して文句をつけるつもりはありません。そうではなく、見境なくお日様とお月様を一緒にくっつけるというセンスの悪さに文句がある。さらにそれに超が付く。お日様を想像するだけで大変なのに、それを超えるとは一体どういうことだ、想像が全然できない。何でこんな風呂敷を広げた言葉を使うのだろうか。昔のインドの特徴といえばそうなのだが、感覚的についていけないな、という気持ちがずっとあった。そして言葉が暑苦しい。お日様だけでも十分暑苦しいのにそれを超えたら灼熱地獄です。
 しかし私のようなひねくれ者から文句を付けられることも当然予想して付けたのだろうな、そうだとしたら、このように付けた意図は何だろうか、と考えました。

 そもそも光とはどんな性質でしょうか。まず思い浮かんだのはこれです。
「北風と太陽」イソップ寓話の一つですね。北風と太陽のどちらが旅人の上着を脱がすことができるかで勝負する。北風は上着を吹き飛ばそうとするが旅人はきっちりと抱え込む。太陽が陽差しを与えると、旅人は進んで上着を脱いだ。光とはそういうものですね。力ということでいえば、光は風のように身体にぶつかる強さはないが、しかし光が差しただけで、自分から進んで行動しようとする。その辺をうまく喩えたのだと思います。
 つまり阿弥陀さんの光に照らされると自分が執着している心を知らずして離れる。またぶつかり合う力ではないが、そのぶつかり合う力を超える形でその力が行おうとしている問題を解決してしまう。実際のお日様の光ですら我々の思いを超える働きをする。阿弥陀さんの働きはさらにそれを超えるものだということで超を付けたのではないか。
 先ほど言った通り凡夫は善いことを求めながら悪を作り出すという悲劇的な性格を持っています。光は善だけを照らして悪を照らさないかというと、善も悪も平等にもれなく照らす。よく仏教はキリスト教に比べて善悪に対するけじめがないとか、世のため人のために身を削って善いことをしなければならない――ボランティアもそうですが、そういうことをキリスト教の人は積極的にするのに、仏教は煮え切らないとかいう話を聞きます。だから仏教はダメなのだ、現代社会に対応できないのだ、と。たしかに世間的な善を行うのは仏教よりもキリスト教の方が上手いと思います。しかし、仏教は善をそんなに行わないから怠惰で無力かというとそうではない。
 仏教はなぜ善に積極的でないように見えるかというと、悪も考えるからです。善を求めたからといって悪がなくなるかというと、それはこの世界では決して無いという立場にある。それらを全て収めるというのが仏教の立場だと思う。だから逆に言うと世の中に対して説得力がないのです。しかし私はその立場は深いと思う。そして阿弥陀の光は善も悪も等しく照らす。
 闇や薄暗がりで小山と思っていたものが、光に照らされると象だと分る。そのようにはじめて分る。つまりそれまでの自分の思い込みを外側から打ち破ってしまう。そして光に照らされたものはくっきりと見える。ただし、必ず影ができます。影の中にあるものは良く見えない。それでやはり超が付くのかと思いました。お日様の光は影を作りますが、阿弥陀の光はたぶん影を作らない。

 次に月光です。私は若い頃は満月の夜は嬉しくて一晩中散歩したものです。涼しげな光の中で世界全体が一つになったような落ち着いた感じがする。お月様の光はお日様の光とは違った意味で満足させてくれるものがある。全てを受入れることができる気持ちになる。阿弥陀さんの光はそういう特徴をお月様以上に持っているのかなと思います。それが超月光ですね。
 そんな風に超日月光という言葉を考えればいいのかなと思います。

3 往生極楽
 往生極楽という言葉は正信偈には出てきません。しかし我が宗派の眼目の一つですから話します。簡単な言い方では、阿弥陀さんを信ずれば、死んだらこの苦しみの世界を離れて極楽に行くということになる。真宗の葬式はこれを基本に儀式を組立てます。
 往生とは生まれ変わるということですが、六道輪廻の生まれ変わりというものもあります。今日は初めての方がいらっしゃるから本当はその違いも説明すればいいのですが、時間がないので今日はしません。
 実は六道輪廻の生まれ変わりの輪をぐるぐる回ることから離れるというのが、仏教の目的なのですが、往生は死んで極楽に行くということでは結局生まれ変わりで、何が違うのかということです。
葬式でも「天国から私達を見守ってください」とか言うでしょう。現代人は言葉の教育がきちんとされてないからこんな言い回しをしますが、みんな生まれ変わってここよりずっと良いところに行くと思っている。そして坊さんもそう言ってくれるから取りあえず安心する。
さて、皆さんはこれから死ぬのですが往生極楽したいですか。

Kさん 本人は分らないでしょう。

いや、私だって行ったことないから分らないですよ。しかし分る分らないは別にして、死んだら極楽に行きたいですか行きたくないですか。

Kさん そもそも極楽って何ですか。

極楽というのは苦の世界(娑婆、この世)の反対で苦が滅した世界です。苦が滅している、つまり苦の反対ですから楽です。その楽が極まっているということで極楽と言います。今生きているこの苦の世界は自分の身体と心があるかぎり離れられない。身体と心を持つものは必ず煩悩(身を煩わし心を悩ますもの)に囚われる。そこから離れるにはどうしたら良いか。一番簡単なことは身体と心を滅ぼすこと、すなわち死ぬことです。だから自殺しましょうと言っているのではありません。(一同笑)
 お釈迦様は身体と心を滅ぼすことなくして苦の世界を脱することはできないのか、という無謀なことを考えた。そうしてそれを達成したとき「覚った」と言ったのです。お釈迦様は苦の世界にいて身と心を持ちながら覚ったと言った。とんでもない人なのです。そういう非常識なことを仏教の開祖は達成したと言った。私の天の邪鬼の部分は「ホントかよ。歯が痛くなったらどうするんだ?」とお釈迦様に聞きたい(一同笑)。
 そのお釈迦様が話したことを元にした物語がお経です。お経はお釈迦様の後代の弟子達によって実は捏造されたものです。つまりお釈迦様の言われたことはこういうことなのだと、解釈しそれを説明する物語が沢山作られた。だからお釈迦様が話された言葉そのものではないのです。しかしそれは嘘を書いているのではない。つまりお経を読むと、身体と心を持ちながら苦の世界を離れるということができるということを、納得させられる。しかしその納得のしかたは非常に微妙で言葉にするのが難しい。だから仏教は人を煙に巻くようことを言うと思われている。本来できないことをできると言っているから、普通の言葉の表し方にならない。それを「覚り」という言葉で表わすのですが、私達の宗派では「極楽に往生する」とも言う。一応説明としてはこういうことです。

 さてそこで、さっき私が皆さんに聞いたことは、この説明は関係なしに、自分が死んだら、つまり身と心がなくなったらどうなるかということで、極楽――苦が滅した世界――に行きたいと思いますかということです。別の言い方をすると、極楽に行かない死に方となると、六道輪廻です。つまり死んだら地獄・餓鬼・畜生・人間・天などに生まれ変わることになる。これと比較してだったら極楽の方がいいでしょう。こんなのは迷信だと思うでしょう。でもこういった考え方を迷信だと片付けたつもりでも、皆さんは「死んだらどうなるか」と思うでしょう。その言い方の中に否応なしに生まれ変わるという考えが入ってしまっている。

Yさん 死後の世界というのがありますね。死んだ父や母がいる世界。臨死体験で綺麗なお花畑が見えたり、そこに行こうとしたとき行ったら死んでしまうという声がして戻ってきたとか。

自分の不安な心がそういう話を聞くと反応するでしょう。私が「死んだら極楽に行きたいですか」という質問のポイントは、「もし極楽に行けたとして、そこに行きっぱなしでいいんですか」
段々難しくなってきた(笑)。
 つまり行ったままで、残された家族・この世界の凡夫達を「私はあなた達とは違う苦がない世界に来ました、もうあなた達とは関係ありません」ということでいいのですか。

Sさん それはやっぱりダメだよね。

そこがポイントです。先に行ったら、この苦しみの世界に家族や友人を残していくことになる。極楽往生した人は仏になります。極楽世界の主は阿弥陀という仏ですが、そこに往生した人は同じく仏になる。そして阿弥陀と同じ力を持つ。その力の一つに苦しみの世界の人間を救うというものがある。その義務がある。救うためにはどうしなければならないですか――この世界に帰ってこなければならない。だから自分が仏になるということは、なった途端に衆生を救う義務が生じるから、そして救うためにはこの世界の人間に生まれなければならない。
夢も希望もない話ともとれます。しかし私はこれが素晴らしいことだと思っています。ひっくり返せばそれによって私達はこうして生きていられる。
でも戻ってきた人はいない、会ったこともない。しかしいないけれどもいるのです。これがまた難しい話ですが。そういう生き死にに対する構え方が往生極楽という言葉には含まれているのですが、伝統的な言い方では、行きっぱなしになる印象を与えるのが多いので説得力がないなと思ってしまいます。
 さて昨年の報恩講の法話で櫛谷さんは「極楽往生するために念仏をするのでもない」と言っておられました。そして念仏自身が念仏を称えるのだと言われました。その通りなのですが、しかし我が宗派の言い方では、極楽往生するために念仏するというのが決まり文句で出てくる。そうするとどうしても行きっぱなしの考えの方に引かれてしまう。だから行ったら必ず戻ってくるという面を強調しなければならないと最近は感じています。

Yさん 口寄せをするイタコがいるでしょう。あれは戻ってきているのかしら。

あれは人の納得の仕方が違うと思います。私が喋ったようなことは理屈です。でも理屈で説明しきれないものを相手にしているので矛盾する言い回しも入りながら、なんとか説明しようとする。でもイタコとか拜み屋さんとかは、理屈ではなくて情緒的、感情的に納得するしかただと思う。だからイタコの口寄せで死んだ人が本当に乗り移っているかどうかは、私はどうでもいいと思っています。いずれイタコに頼む人には本当のことだし、そういう必要がない人には本当ではないから。

Yさん 住職が戻ってくると言われたでしょう。だからイタコのことを思い出した。

そうですね。戻ってくると聞いたとたんに考えがそっちの方に引かれますね。口寄せを頼む人にとっては、そこに声で現れた縁者はいるのです。ただ私が戻ってくると言ったものはそれとはちょっと違います。

お勤めの中で最後に称える廻向について解説して終ります。

願以此功徳 願わくばこの功徳をもって
平等施一切 平等に一切に施し
同発菩提心 同じく菩提心をおこして
往生安楽国 安楽国に往生せん

安楽国は極楽のことです。このように我々はお勤めの度に誓っている。毎回称えているものだから雀を追い払う鳴子に雀が慣れてしまって逃げないように、この文句を聞いても感動しなくなっている。しかし実はものすごいことを言っている。  「この功徳」というのは阿弥陀の功徳です。それを平等に一切衆生――この世の全ての人間に施して、つまり自分が得た阿弥陀の功徳を分け与えて、同じく菩提心――覚りを求める心、つまり煩悩で苦しんでいるこの世界から離れようという心を、全ての人におこさせようというのです。そうなったときにみんなで安楽国に行きましょう、という。
 さっきは極楽に生まれた人は必ず帰ってこなければならないと言ったでしょう。これはそれを別の言い方で言っている。極楽に行く時はみんな一緒だぞというのです。それはこの世界が無くなる時です。つまりこの世界がある限り苦しみがあるのだから。
震災以降、本当にこんな言い方が通用するのだろうかと悩みながら、ようやくここまで喋れるようになりました。

Mさん これは私達の方から言っていることばですか。

そうです。だから念仏するということの中にこれが含まれています。はじめは私だけ助けて下さいと念仏したとしても、ここまで行かなければならない。私だけだったらまだいいのですよ。自分だけが納得して、慎ましやかな幸せでお念仏していればいいのだから。でもそれでは済まないよ、と言っている。

Mさん 「平等に一切に施し」は私達が施すのではなく阿弥陀如来が施してくれているのですか。

両面あります。阿弥陀が施してくれているのですが、施されている者は誰かというと「私」です。私が施されていると分るから念仏する。念仏したとたんに私に施されたものは他の人にも分けてあげなければならない。

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