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しっくりこない中の驚き
2017年4月15日 同朋の会
今日のように参加者が少ない(五人)こともありますね。
Yさん 天気が難しいのですよ。出がけに雨降って。
そうですね。この前のお彼岸のときは、あんなに参加があるとは思っていなかったのですが、天気が良かったからだと思います。
Sさん 二人しか来ない時があった。雪降って、雨降って道路が凍ったとき。
そうでしたか、全然覚えていない。
1月から阿弥陀仏を表わす光について文句を付けています。今日もその話題です。だからなかなか先に進まない。
昨日は暖かかったので、私の身体も気持ちも動き出しました。同じように庭の植物も動き出しました。こんなことで人間は草木と同じだと思います。寒いときは何もする気がないのに、暖かくなるといい気になって動き出す。庭の植物も動き出して桜は今日明日が満開です。毎日庭を見回っているので一日毎の成長が良く分る。サツキ・ツツジは種類によって色々ですが、冬の間青さを保っている木があり、また冬眠するような木がある。冬眠するような木は葉が茶色になる。春になってもしばらくはそのままですが、昨日のように暖かいと急に緑になる。こういうことが分ってくると、とても面白く感動しますね。これはこれでとても良いことですが、私に都合のよい木だけが勢いよくなるばかりではない。雑草も勢いよくなります。草取りをしなければならなくなる。
皆さん、もちろんスギナをご存知ですね。私はスギナとツクシが同じ植物だと知らなかった。
Nさん 歌があるじゃないですか。「ツクシ誰の子スギナの子」
Sさん ツクシは食べられる。
そうそう。今はスギナも薬草になるみたいですね。利用価値の高い植物のようです。
Sさん 強い。地獄まで根っこが行っているという。
あ、知ってますね(笑)。スギナの別名は地獄草というそうです。うちでは北庭に密生している。数年前から庭の剪定を自分でやるようになって、去年の暮れまでに私が考えている庭になんとかできた。今年はその大仕事が終って、形を維持ながらもっと良くするような段階になった。すこし余裕ができて、草取りに手が回るようになった。昨日は暖かくなったのでスギナも一斉に出てくる。スギナ取りをしていました。その道具にこういうものを使っています。
うちの墓地の掃除を頼んでいる人が面倒見のいい人で、山菜を採ったといっては持ってきてくれたりもする。この人がこの道具を持ってきてくれた。この辺のホームセンターなどでは売っていません。これは雑草の根っこを狙い撃ちできる。カモガヤなどは引き抜こうとすると根っこに土がどっさり付いてくるが、これで根の中心を刺して引っ張ると土がそれほど付かないで取れる。この道具は三本木だったかの道の駅で売っているそうです。これでスギナを取っていた。根っこ全てを引き抜くことはできませんが、手で取るよりかなり深くまで届くのでしばらくは生えてこないようにできる。
Mさん 昔の鍛冶屋さんは注文された農機具を作ったね。
この形はよく考えたなと思います。昨日の夕方まででスギナを取り終えた。とても気持ちが良かった。地面の上の部分だけを取っても、数日するとまた生えているといったいたちごっこに、煮え切らない気持ちをずっと抱えていましたが、今年はスギナに勝ったと思った。
Mさん 自分の身体も徹底的に治しましょう。(一同笑)
そういえば、この前血液検査をして数値が全部正常になりました。
Nさん 最近、何か庭が綺麗だなと思っていた。
お世辞じゃないでしょうね(笑)。庭の手入れをやり始めた頃は嫌々やっている面がまだあるから、本質が分らない。それが分ってくると仕事のしかたが違ってくる。石段の補修とかアスファルト舗装も私がやった。どうも性格で、スイッチが入ると極端から極端に動くのですね。自分でできると分ると全部自分でやろうとする。
Nさん 檀家としては坊さんに庭仕事をやらせるのはちょっと・・・
そういう思いは前には自分にもありました。草取りをしていると「住職が草取りするんですか」と言われたりする。作業着姿て庭をうろついていると誰も住職と見てくれない。この前も法事がある日に庭掃きと草取りをしていたら、仕出し屋が来て私の前を素通りして庫裡に向っていく。(一同笑)修繕工事の足場が掛かっているから、入口を聞こうと思っていたのでしょう。こっちだよ、と声を掛けると、怪訝そうな顔をしていたが、話しているうちに私が住職だと分ってくる。(笑)
何度もそういうことがあるので、一時作務衣を着て庭仕事をしていたことがあったが、どうにも着慣れないので、元の作業着に戻った。そういうことで最近は私の姿で坊さんだと認めてくれなくても全く気にしなくなりました。住職さん居ますかと聞かれたら、私ですと言えばいいだけのことで。
Sさん 形だけでなく木が健康に育つようにしたいんでしょ。自分でやるというのは。
そうです。Sさんもご存知のように、手を入れてやると木が健康になるか病気になるか分るでしょう。
本題に入っていきます。昨日はそんなことで雑草取りをしながら今日の話を考えていました。スギナを一掃して自分としては満足感です。大げさですが生きている喜びもちょっとありました。これは仏さんのおかげかな、などと間違って思ったりする。なぜ間違ってというかというと、私にとってはとても善いことです。皆さんにとっても善いことでしょう。でもスギナにとってはどうでしょうか。やはり坊主ですのでそういうことを考えます。スギナも生き物ですから。スギナに心と口があったとすれば、なぜ俺をこんなに苦しめるのかと言うでしょう。
人にとって善いことはスギナを取ることですが、スギナにとっては悪です。見事に善と悪です。
スギナにとって善いことは成長することですがこれは人にとっては悪です。スギナと人は一緒にここに同居、存在している。互いに敵同士だが一緒にいる。スギナが鎌を持って私に向っては来ないから戦争にはならない。Nさん、こんな言い方おかしいですか。
Nさん 私も畑を作っていますが、草が生える環境を作るのは人間ですね。だからスギナにも野菜にもそれは善いのではないですが。
でもスギナを取らなければいい野菜は作れませんよ。まあ、理屈の方に向けて話しているので、変な話し方になっているのですが。それでお日様に話をもっていくと、お日様が人間にとって善ならばスギナを照らしてはダメなわけですが、スギナも照らしている。不思議ですね。我々はお日様がスギナをも照らしているということを普通は考えない。しかしお日様が照って暖かくなってくれないと私もスギナ取りができない。これが、阿弥陀さんを表わす喩えとしての光です。光からすれば善いことだろうと悪いことだろうと等しく照らしている。簡単なことを言いながら難しいことを喋っています。
〈休憩〉
前住職が生きていた時、金子みすゞという人の詩を何遍も紹介していましたが、その中に漁師が大漁を祝う海の下では魚にとっての葬式だという意味のものがあった。私とスギナも同じことですね。光はその善と悪を両方照らす。そこで阿弥陀の光は無量光・無辺光というものでそういう意味合いだと思うのです。光はあくまで喩えです。現実の光は太陽とか月とかの光しかなく、阿弥陀の光というものはない。しかし阿弥陀を光に喩えるということは、現実の光が良いことも悪いことも等しく照らしているということにあやかって喩えている。
そういうことを言いたかったので、スギナと私の例を出しました。だから私はスギナを取るけれども、世の中から抹殺しようとまでは思っていない。世の中は必ず善いことと悪いことの二つで出来上がっている。しかし善と悪ではものごとを解決しようとしてもできない。その善と悪を平等に照らすのは光だということです。
安心決定抄という書物から引きます。これは作者不詳で室町時代頃までには作られていたと、考えられている書物です。
ふかき法も、あさきたとえにてこころえらるべし。 たとえば日は観音なり。その観音のひかりをば、みどり子よりまなこにえたれども、 いとけなきときはしらず。すこしこざかしくなりて、自力にて、 「わが目のひかりにてこそあれ」とおもいたらんに、よく日輪のこころをしりたらんひと、 「おのが目のひかりならば、よるこそものをみるべけれ、すみやかにもとの日光に帰すべし」 といわんを信じて、日天のひかりに帰しつるものならば、わがまなこのひかり、 やがて観音のひかりなるがごとし。帰命の義もまたかくのごとし。 しらざるときのいのちも、阿弥陀の御いのちなりけれども、いとけなきときはしらず、 すこしこざかしく自力になりて、「わがいのち」とおもいたらんおり、 善知識「もとの阿弥陀のいのちへ帰せよ」とおしうるをききて、帰命無量寿覚しつれば、 「わがいのちすなわち無量寿なり」と信ずるなり。
阿弥陀如来を表わすときにはパターンがあって、阿弥陀如来の両脇に観音菩薩と勢至菩薩が付くというものでこれを阿弥陀三尊といいます。勢至菩薩は智慧を表わし観音菩薩は慈悲を表わす。智慧と慈悲は阿弥陀仏の力ですが、それを取り出して勢至と観音で表わしているとも言える。
ここではその観音を光に喩えている。光を目に受けた幼児はものを見ることができている。ものを見ることができるということを何とも思わず当然のこととしている。それがすこし大きくなって知恵が出てきて言葉を使えるようになり分別するようになると、自分のものを見る力は自分の目が光を出しているいるからだと思う。しかしよくお日様のしくみを知っている人が言うのです。
「お前は自分の目から光を出してものを見ていると思っているが、だったら夜は見えるのか。見えないだろう。だからお前が自分の力で見ていると思っているのは、実はお日様の光あってこそなのだぞ」と教えるわけです。その教えを納得して、自分の目から光を出して見ていると思っていた子供は、光をお日様に返すわけです。
つまり「自分の力でものを見ている」という考えから「お日様がものを見させてくれる」という考えに変えるわけです。そうすると不思議なことに自分の眼まなこが――この辺の言い方がどうとらえていいか分らないところですが――光を出してくるという。そして自分の眼の光は観音の光のようになる、という。自分の眼は光を出していないと考えを改めたとたんに自分の眼から光が出るようになり、ものを見る力が観音のようになる。
つまり捨ててしまうとかえって得るものがある。それを捨てずに自分のものだと思っていると、決して得ることはできない。つまり自分の力は捨てなければならない。
さっきの例に戻すと、善悪にこだわっていて自分の善だけを押し通すようではダメということです。自分の善は行わなければならないが、行ったらそれを捨てる。そうすると自分が善だと思っている以上のものが返っているということでしょうね。
ここまでで「あさきたとえ」です。そしてこの喩えが示していたものが次からの文です。
「帰命の義」、帰命無量寿如来の帰命ですね。「しらざるときのいのち」――いのち――寿――ですね。無量寿如来というときの寿いのちは皆さん阿弥陀さんの寿と思うでしょう。もう一つ自分の寿というものがある。たぶん皆さんは帰命無量寿如来と称える時には自分の寿と関係なしの阿弥陀さんの寿ということで称えていると思う。自分の寿は人生八〇年からそこいらあると思っている。そうして「しらざるときのいのち」は自分の寿命とは違う「阿弥陀の御いのち」なのかなと思って読むと、「いとけなきときはしらず」――ということは、ここで言っているいのちは自分の寿命のことを言っているのか。「すこしこざかしく自力になりて、「わがいのち」とおもいたらんおり」――これは自分の寿命だな、俺が俺の寿と思っているいのちですね。そういう自分に善知識(仏教をきちんと教えてくれる人)が言うのです。「お前が俺の寿と思っている寿は実は阿弥陀さんの寿なのだぞ」と教えてくれる。
ということは、俺の寿と思っていたものは実は帰命無量寿如来の寿だったわけです。
「帰命無量寿覚しつれば」――これはちょっと言い方が一般的ではないですが、覚は如来と同じ意味ですからこれは帰命無量寿如来と同じです。
だから如来のと自分のとで分けていた二つの寿が実は同じだぞということになった。もうすぐ死ぬかもしれない自分の寿は実は無量寿だった。
昔から安心決定抄のこのあたりの文章が気になっていて、読むたびに納得できないものが残った。そんな立派なことを言われても、俺はそんなこと感じていないという白々しい気持ちが残る。しかし無視できない。なぜかというと白々しい気持ちの中に驚きと飛躍もあるからです。ようやくこの年になって、その辺を皆さんになんとか説明しなければならない、というくらいの気持ちまでは進みました。
難しい言い回しではないのですが、言っている中身が難しい。言い方は分るのだけれども何かしっくりこないものが残るでしょう。そのしっくりこないものを心の中で転がしてみる。