真宗大谷派 西照寺

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現代からたどる大谷派史3「同朋会運動と西照寺」


2015年6月20日 同朋の会

 現代から振り返って大谷派を説明していますが、今日の話題は戦前戦後の大谷派の状況と、それに絡めて西照寺の歴史をお話しします。
 
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 こんな表をまた作りました。最初の回で作った表に似ています。もう一度明治時代前後からの本山の様子からお話ししなければなりません。

1864(元治1) 本山焼失(蛤御門の変)
 幕末の内乱で本山が火災に遭い焼失します。江戸時代に三回火災で焼失しているので四回目の焼失です。東本願寺ではなく「火出し本願寺」とあだ名を付けられた。この時代の東本願寺は徳川家と繋がっていました。幕末ではどちらかというと幕府側でした。幕府に莫大な献金をしていました。西本願寺も東本願寺も最大級の巨大な教団でしたので、時の政権と密接な複雑な関係を持っていました。

1868(明治1) 幕府・新政府への莫大な献金、北海道開拓の出費により借金財政
 幕府に献金しつつ、もし幕府が負けた場合のことも考えて新政府側にもかなりの献金をしました。おそらく東と西が献金しなければ明治新政府の設立は危うかったのではないかと思います。
明治3年頃に、東本願寺が新政府から北海道開拓を請け負って行います。この時の法主の厳如の息子の現如が責任者となり200人程を引き連れて秋田に行きそこから北海道に渡った。1年余り滞在し、大規模な道路工事を行ったりした。そうして北海道布教の拠点を作った。現在北海道は真宗が多い地域ですがその基盤はこのとき作られたのです。こうしてお金が流出していく状況の中で本山の再建も行わなければならない。結果として本山はものすごい借金経営になっていきます。

1885(明治18) 相続講設立
 そして相続講という制度が作られます。これは全国の門徒の男に2円、女に1円の上納金を要求するというものです。現在でもこの制度は生きていて、本山はあくまでも志として自主的に出して頂くものだという態度ですが、事実上の税金です。
 皆さんから毎年12000円の会費を頂いていますがそのうちの3000円以上が本山への上納金です。これは門徒1戸当たりの割り当てが毎年来ます。このような形で宗派を維持するという基礎が、この時作られたました。現代もこの税金のことを相続講と言っています。みなさんにすれば西照寺の年会費も税金のようなものでしょうし、こういった家元制度はどこでも同じような仕組だと思います。逆に言うと、江戸時代までは相続講がなかったので、経営的には色々不安定なところがあったと思います。布施の本来の立場からするとどうなのかと思うところがあるのですが、現実としてこういう仕組がないと動けない。

1895(明治28) 本山再建
 日清戦争が終った年に本山が再建されました。再建は大変な犠牲を払って行われました。本山に行かれた方はご存知でしょうが、材木を運び出す橇とか女の人の髪の毛で作った毛綱とか展示してあります。そういうものが形の上では門徒の懇志として出されたということになっていますが、当時の状況を考えると、事実上は強制だったと思います。毛綱は54本作られたそうです。これは相当強いものだったようです。麻で作った綱で本山の柱になるような大木を引くと結構切れたそうですが、毛綱は切れなかったそうです。建設中の殉職者も多く100人を超えたということです。こうして建てられたのが現在の本山です。そうして借金がますます嵩みました。
 その借金を返すためにまた全国の末寺・門徒に上納金を要求する。あえて言えば金を取るだけの宗派になってしまった。すると「金を取るだけで教えはどこに行ったのか」という疑問が湧いてくる。「親鸞聖人への信心がある証しとして金を出してくれ」と法主を頂点とする宗派の中枢は頼んできます。この人達もただ要求ばかりでなくそれなりに努力はしていた。法主は資金の勧進のために色々な地方に草鞋履きの徒歩で出向き頭を下げたと言われます。当時の人々はそういう姿に接すると感激して無理を重ねて寄進したと思う。こんな雰囲気で宗派が何とか維持されていた。しかしこんな無理はいつまでも続けられるものではありません。借金が増える乱脈経営の中で金集めだけに労力を費やされしまう。金を出す人に対する教えはどこへいったのか。明治の激動期の中で教えが世の中の動きに全く対応できないものとなった。

1896(明治29) 清沢満之の改革運動
 その教えを時代に対応させて、人々の自覚を図らなければならない、ということで清沢が改革運動を起します。しかし自覚するということは、法主が持つと言われていた門徒の信心の正邪を判定する権力を否定することになります。そういう自覚を持つのはとても良いことですが、しかし法主の権威の上に作られてきた宗門維持の体制にとっては面倒なことになります。つまり現代の政治と同じようなことです。法主を立てる人は保守派、自分で考える人は改革派、といった分類になります。
 清沢の改革はその初めてのものでした。この運動は大谷派の全国の末寺に広まる勢いがありましたが、1年で潰されました。しかし潰されはしましたが、この時提言された改革案の多くは現代の宗門で実現しています。清沢は改革運動から手を引いた後、亡くなるまでの三,四年間は「精神主義」という言い方で現代人に自覚を促す真宗の教えを伝える活動を行うようになりました。

 さてしかし、宗門の実権は保守派が握っています。その方針は時の政府の政策に協力しながら宗門の権勢を拡大していくというものでした。政府が戦争をすればそれに加担する姿勢で外地に出て布教活動をしました。貧民救済とか教育とかも行ったのですが日本帝国の拡大政策の枠内でのことでした。これが第二次大戦で敗戦するまで続きます。
 敗戦を迎えて後、大谷派もそれなりに反省し改革を行うようになります。その辺を難しくないように喋ります。1950年頃まで、本山のあの巨大な建物は手入れがあまりされていなかったようで廊下や手摺りも埃だらけだったそうです。その本山を清掃しようという奉仕活動が始まります。今の本山は塵一つなく廊下や手摺りは磨き上げられていますが、それはこの時の奉仕活動が続いていて全国から来た門徒が掃除しているからです。これは自分達の本山だという意識を作り上げることでは上手くいったと思います。そのような熱心な門徒が自覚して真宗の教えを聞いていく活動をしよう。また門徒が宗門の政策に関われるようにしようということで組織の改革も行われるようになりました。
これが

1962(昭和37) 同朋会運動
同朋会運動と言われるようになり現在まで続くことになります。 清沢達がやろうとした改革が実現してきました。今は本山に宗議会というものがあってその中に選挙で選ばれた議員がいます。その議員には坊さんの議員と門徒さんの議員がおり、宗派の政策を決定します。
 しかしこういう仕組ができる前までは法主に権力が集中していました。その権力が議会に移ることになるので、法主を頂点とする保守派と改革派に分かれ争いが起こりました。この当時の法主は闡如でしたが自分の権力が剥奪される動きが面白くない。そこで議会を無視して自分の跡継ぎとして息子を指名してしまいました。これが

1969(昭和44) 開申事件(お東騒動)
です。ここから法主と議会の間で財産や権限をめぐる紛争が起き現在まで尾を引く問題となります。当時お東騒動としてなんというみっともない宗派だと世間で騒がれました。一応、議会側が勝つ形で騒動は段々鎮静化していきます。

1981(昭和51) 新宗憲発布・浅草本願寺の離脱(1988年 浄土真宗東本願寺派)
 そして、この年宗憲――宗派の憲法――が議会主導の下で発布されます。この宗憲で法主は廃止され権力を持たない象徴的な「門首」に変えられます。すると法主だった闡如さんはそんな大谷派には居たくないということで東本願寺を大谷派から独立させようという突飛な行動に出ます。この辺のごたごたは非常に分かりにくいのですがまあ裁判合戦と思ってください。そして闡如の長男で浅草本願寺の住職を務めていた光紹は父の動きに応じて大谷派を離脱してしまい「浄土真宗東本願寺派」という新しい宗派を作ってしまいました。ちょっと普通の人には理解できないような面倒な話です。現在大谷派は8800ヶ寺ぐらいで浄土真宗東本願寺派に移った寺は約300ヶ寺です。
 そういうことで段々収まるべき所に収まって現在に至ります。因みに闡如の長男は離脱して浄土真宗東本願寺派になりましたが、大谷派の現門首は淨如 という方で闡如の三男です。



 同朋会運動は1962年に始まって今に至っています。新しく西照寺の門徒になる人には会則の説明をしますが、門徒になるということは同朋会に入ることですよと言います。そのとき同朋会という言葉を初めて聞く人がほとんどですが、その同朋会のいわれはここまでお話ししてきた歴史から来ているのです。さてそういう宗派の中にあって西照寺はどんな歴史を歩んできたのかという話を残りの時間でします。年表の左側に西照寺の来歴を記しました。

1900(明治33)年、西照寺建立。この前の年に廃寺になっていた「西照寺」という寺号をお金を出して買いました。当時の明治政府は仏教を制限していて寺の新設は認めなかった。だから寺を新しく作ろうとする場合は、廃寺の寺号を買うしかなかった。その時寺号の権利と一緒に来たものが本尊の木像と絵像四幅です。ですから本堂の本尊と掛軸四幅は江戸時代からのものです。そうしてこの場所に何とかお寺を建ててもらった。そのときの門徒数は16戸でした。

それから41年後の
1941(昭和16)年の開戦の年、庫裡を新築しました。
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それが写真の中央部分の建物です。

1952(昭和27)年、本堂を移築しています。本堂は石段を正面にする位置で堀の側に建っていたそうです。それを現在の位置に引っ張って移動しました。昔はそういう建物を移動させる人がいたのですね。

1963(昭和38)年、本堂を新築します。それが現在のこの本堂です。そして内陣と外陣を隔てる丸柱などは、前の本堂のものを使っているようです。とにかくお金が無くて材料も買えなかったので古い本堂の再利用できるものは全部使ったようです。杉の角柱などは門徒さんの山から切り出したものを使った。材料がないので手抜きをせざるを得ない部分もあった。

1989(平成1)年会館増築(建築はこの2年くらい前に完了しています)。それから4年ほど経ったものがこの写真です。墓所の半分はまだ畑です。

 さてこの時まで、西照寺は葬式法事、お盆のお参り、報恩講の他に何かやっていたかというと、何もしていませんでした。私は当時はサラリーマンをしながら坊主としては父の手伝いをしていましたが、内心は坊主の仕事が嫌で(笑)、しぶしぶやっていました。父も学校教員を定年まで勤めたわけですが、食えるかどうか――私はこういう言い方を最近は好まないのですが――というところでは、兼業しないと成り立たない小さな寺でした。しかし兼業していると給料取りの仕事が忙しいものですから「寺なんて」という意識になり、寺の仕事を避けるようになる。父から手伝いを頼まれると迷惑顔で従っていた。兼業というものはなかなか難しい問題をはらみます。昔は結構大きなお寺でも兼業をしている坊さんが多かった。そういう時代でもあったのでしょう。つまり寺というものは米や薪や野菜を頂いてはいたが現金は現在ほど動かなかったと思います。そしてよその寺も葬式法事以外のことはしていない寺が多かったと思います。それが

1996(平成8)の親鸞教室から変わり始めます。親鸞教室とはどういうものかというと、組内のある寺を決めて一年間、毎月勉強会を開くのです。その企画は仙台組で立てて講師を外から呼んでスタッフとして組内の若い坊さん達が来て手伝う。そういう講座を西照寺でやりませんかと持ちかけられました。それを受けることになり、七北田の淨満寺さんも参加することになった。
画像
その時の写真がこれです。淨満寺の門徒さん達も一緒だったので結構詰め込みでした。知っている顔がいっぱいあると思いますがみんな若い。こういった集まりは西照寺では初めてでみんな結構熱心に参加されました。ですから西照寺建立から95年間はこういったことはせずに過ぎて初めて教えを伝えるという行事を開いたともいえる。そして1年間の仕上げとして本山で合宿して終了というものでした。
 これが現在まで続く西照寺の勉強会のきっかけとなりました。親鸞教室が終った時、役員会で元の西照寺に戻るのかという話になり、月例会を続けようとなりました。ですから、私は同朋会運動には結構批判的な言い方もするのですが、この親鸞教室がなかったら今の同朋の会もなかったでしょう。ですからこの親鸞教室には感謝しています。

 さて、年表を見てみると、1962年に本山で同朋会運動が起されます。それがこの西照寺という寺まで波及してくるのに何年かかったかというと34年です。それだけ時間がかかるということです。
そして同朋の会を始めて現在まで19年経っている。2000年以降の動きは西照寺の百十数年の歴史の中ではずいぶん慌ただしく今に至ります。
 同朋会運動の一つの形として今日の会合を開いているのですが、この同朋会運動も色々問題が出てきてそろそろ時代遅れかな、と思っています。
さて『真宗の教えと宗門の歩み』には次の文章が載っています。

かえりみれば、戦時中に私たちの宗門は、明治以来繰り返されてきた戦争を「聖戦」と称し、アジアの国々への侵略と植民地化を国の繁栄と発展のための正しい政策であるとして、積極的に日本の帝国主義の一翼を担い、多くの真宗門徒を戦場に送り出すという罪業を重ねてきました。 (133ページ)

 これ、朝日新聞とかが大谷派を批判する文章だとしてもおかしくない内容ですが、大谷派の中の人が書いているものです。ここまで自分を批判する宗派はなかなかないと思います。ただし言っただけで終ってしまうのが我が宗派の体質でもあります。こうした反省を通して具体的にどう動くのかというと、その動きが起きない。

 平成3年の写真の時から比べれば西照寺も立派になったものです。墓所は全部埋まって増設もした。しかし西照寺が変わった以上に世の中の動きは急だと思います。家族関係が変化し死者とか死というものに対する考えも変化している。その中で寺はどう活動していくべきかを色々考えています。この一,二ヶ月色々あって家族の中でも議論しているのですが、自分の宗派だけに閉じこもっていてはダメだ、ということは言えます。よその宗派とも付き合ってみるべきだし、外の世界との関わりを考えながら寺を運営していかなければならない時代に入ったと思います。そういうことで先ほど同朋会運動も終りかなと言いましたが、宗派の中だけで盛り上げようとしても無理な時代になったと思います。

 

2015/07/08 公開

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