真宗大谷派 西照寺

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遺骨の落ち着き場所


2014年5月17日 同朋の会

 案内には「葬送のやり方を考える」と書きましたが、これについては問題が複雑にからみあっているので自分の頭の中を整理するのに大変でした。そうして思ったことは私達坊主は学者じゃないということです。
 どういうことかというと、たとえば宗教学の先生が葬式のやり方を研究しようということなら、葬式を学問の対象として冷静に研究できるわけです。そういう人の書いた本などはいっぱいあります。ところが、寺にいる坊主は、葬式を冷静に見る立場も必要ですが、また葬式に関わって生計を立てている当事者でもあります。だから葬式を客観的に冷静に話そうとしても、自分が関わっていることに踏み込んでしまい、そこにお金がからんでくると自分の頭の中を整理することが大変になります。偉そうなことを言ったとしても、では自分がお布施を頂く時、言ったことと矛盾していないかとか、そういうしりごみが湧いて扱いづらい。しかし自分の気持ちも率直に言いながら進めていこうと思います。まずお渡しした三つの資料を見ていきます。
 最初の資料はインターネット有料テレビのデモクラTVという放送から取りました。私は普通のテレビや新聞が報道しない情報を得るためにこの放送を見るようになりました。その中の番組で「ウッチーのデモくらジオ」というものがあります。内田誠さんというジャーナリストが二時間話す番組ですが、4月4日の放送の最後のほうで次のような内容を内田さんが話しました。

(インターネット有料テレビ デモクラTV ウッチーのデモくらジオ 4月4日から 内田誠氏の話)
今日の朝日新聞の夕刊に散骨に関する記事がトップに出ていました。「葬送の自由を進める会」というNPOがあって朝日新聞元記者の安田さんという方が会長をしておられました。
この会でわが家も父母二人を散骨しました。その散骨が最近かなり広がっているようです。これを海に流すときに葬式を重要な収入源としている宗教団体の方からおしかりを受けます。骨の形のまま流してしまうと、それを拾ったらどうするのだと言われる。人骨を拾うことになるというクレームを付けられて、何がはじまったかというと流す前に骨を砕くのです。
この作業がなかなかしびれる作業で、親子の縁を確認しつつ断ち切るという重要な儀式になっているのではないかと思ったことがありました。

うちでは朝日新聞と日経新聞を取っているのですが、二つ目の資料は朝日新聞5月13日全国版に載った記事です。

自分らしく終活ツアー
 自分らしい送られ方を自分の目で見て考えたい。そんな要望にこたえ、海洋散骨体験や樹木葬墓地巡りなどの「終活ツアー」が注目されている。
 海洋散骨に取り組む「ブルーオーシャンセレモニー」(東京)が2月末、東京湾で開いた体験クルーズでは、市民や葬祭関連業者、NPOメンバーら14人を、村田ますみ社長(40)らが案内した。水溶性の紙袋に入った塩を遺骨に見立てて、船から順に流し、手向けた花びらが風や潮の流れで「花の道」を作った。
「風が気持ちいい。死んだあとも暗い土の中より自由で広い海がいい」と笑ったのは静岡県三島市の安原康仁さん(56)。3年前に同年代の知人や親類が亡くなり自分の死を考えるようになった。葬儀の時に知らせてほしい知人や流してほしい曲などを記し、友人に託している。海洋散骨への思いを書いた村田さんの著書に共感した。「実際に流してみて、自分の中に散骨のイメージができた。仕事やお金、常識、家族といった、いろんなものから自由になれる気がした」
 この日は東京・晴海からお台場近くを通り、羽田空港沖で模擬散骨を体験する約2時間半のコースで6千円(飲み物付き)。昨年始めて4回目で問い合わせも多いという。
 村田さんは昨年、同業者らと日本海洋散骨協会を作り普及に取り組む。「墓を守る子どもがいないことや、『死後は自然にかえりたい』など価値観の多様化で、ここ数年関心が高まっている」と話す。
 旅行会社「クラブツーリズム」(東京)は今年1月から自然葬をテーマに霊園を巡る「終活ツアー」を始めた。エンディングノートの書き方、身辺整理術などを学ぶ「大人の終活講座」を2年前に開講したところ、延べ3500人が受講する人気講座に。「さらに具体的に埋葬について考えたい」「最近の墓地を見てみたい」という受講者の要望に応えた。
 1回目は、都内近郊の樹木葬墓地やガーデニング霊園など4カ所をバスで回った。弁当つき7980円で、約20人が参加。反響があったため、8月までに計6回開催する。ブルーオーシャンセレモニーの海洋散骨体験や機械式の納骨堂の見学を組み込んだツアーも設けた。こちらは9980円で、今月31日の1回目は定員20人がほぽ埋まり、6、7、9月にも計画している。
(中略)
 首都圏を中心に日帰り旅行を企画する「ぽけかる倶楽部」(東京)も昨夏から、家族葬を行えるホテルの見学や、写真館での遺影撮影、法要料理の試食などのツアーを設けている。 
 永代供養してくれる墓を、生前に購入する人のための事前見学会も関心を集めている。東福寺塔頭「即宗院」(京都)。カシなどの大木に囲まれた樹木葬墓地で4月に開かれた合同供養祭には、遺族のほか、自分の墓地を購入した人や見学者ら約50人が参列。杉井玄慎住職の読経や法話の後、お茶を飲みながらのおしゃべりに花が咲いた。
 兵庫県芦屋市の杉崎宗弘さん(77)、紀子さん(72)夫婦は,2012年11月に購入した。供養祭は3回目。「子に迷惑をかけられないので墓はいらないと思っていた。こんな自然に包まれるんだと思うと心が落ち着く」と宗弘さん。千葉県流山市から来た小倉利明さん(66)は「死んだ後は土に戻りたい」と樹木葬に決め2年前に購入。供養祭には欠かさず参加する。「向こうでも仲良くしましょうと話すのも楽しいものです」
(後略)

次が最後の資料です。日経新聞にこの「赤坂浄苑」の広告が一面を使って出ていました。ここのホームページから絵を切り貼りしました。
 建物が墓地というものですね。墓石が動いて窓に表示されるという最近都会で流行りの形ですね。この宣伝を見てみると

自由 宗教宗旨宗派不問。
安心 継承者がいなくても、永代に亘り供養。
立体駐車場に似た仕組みの屋内のお墓です。参拝スペースにある、読み取り機にカードをかざすと1分ほどで「○○家」と刻まれた墓石が現われます。この墓石の裏に、骨つぼが納められています。
画像 画像 画像

 私はこういう仕掛けものを見るとどうしてもマンガ的にみてしまうのですが、それなりに考えた結果なのでしょう。このような墓所を求める人は、おそらく跡継ぎがいない人が主流でしょう。跡継ぎがいる人は少し高くても普通の墓所を求めると思います。

 これらの話題の中に「葬送の自由」というキーワードが出てきました。その中にビジネスが組み込まれている。
 そこで、葬送するということに自由はあるのかないのか、ということを考えます。自分の縁者が亡くなって葬送しなければならなくなったとき、その遺体を自由に葬送できるのでしょうか、また自由とはどのような自由なのでしょうか。
 「自由に葬送する」という言葉はとても魅力的です。世間のしがらみからも離れて自分の思い通りにする。この言い方に対して我々真宗の坊主は結構好意的です。なぜなら親鸞は次のように言ったと伝えられているからです。

「某(それがし)親鸞、閉眼せば賀茂河に入れて魚にあたうべし」

かっこいいですね。死んだら何もすることはない、魚の餌にしてくれと。こんなふうに自分も死ねたらと思います。これは親鸞の曾孫にあたる覚如が書いた改邪抄(がいじゃしょう)という書物にある言葉です。親鸞が実際にこの言葉を言ったかどうかは定かではありません。しかし親鸞の性格からするとありうる話です。現代の我々の立場からすると、この言葉は金やしがらみから離れたとても自然な言い方として、共感を覚える人も多いかと思います。今風に言えば魚に食わせることで「自然に還る」。親鸞は自分自身の葬送でそれを時代に先駆けて実践しようとしていたようにも見えます。
 ところが現代の「遺体を自然に還す」という感覚と親鸞の時代の「川に流して魚の餌にする」という感覚は実は違うはずです。親鸞の当時は死体を川や山に捨てるということは当たり前で、そうせざるをえない状況があったのです。死者が出たときにきちんと埋葬できる人はある程度富裕な層に限られていました。伝染病、飢饉、戦によって大量に出た死体は放置せざるをえず、その放置場所として、河原や野山があったのです。そういう時代での親鸞の発言は別に格好いいことではなくごく当たり前のことを言ったとも言えます。
 
 さて、それを分かった上で、それでも自分が死んだ時、死体を親鸞の言葉のように処理したいと思ったとします。私もこういう考えは嫌いではありません。
 しかし、現代の日本において親鸞の言葉に共感し死体を川に流せば、死体遺棄罪というものに問われ三年以下の懲役になります。
 さて、死体を勝手に放置できないのであれば、許可された土地、すなわち土葬できる墓地はないのでしょうか。そこであれば「自然に還す」ことができそうです。現代はほぼ全ての遺体が火葬になってしまいました。しかし、五十年くらい前までは土葬はある程度一般的だったようです。そういう時代以前から続いている墓地に問い合わせをすれば、土葬は可能かもしれません。
 ただし、そういうところも土葬を認めるといっても例外的に認める特殊なことでしょう。費用も火葬した遺骨を埋葬するよりもおそらく多く掛かり、特に衛生上の問題で埋葬に関して制約条件も厳しいでしょう。そしてそんな対応のできる墓地は規模の大きなしっかり管理されたところに限られると思います。地区で管理しているような共同墓地は昔は土葬があったでしょうが、今そんなことをしたいと言ったら管理者は驚いて断わるところがほどんどでしょう。寺院墓地で土葬できるところも聞いたことがありません。西照寺墓地はもちろん土葬お断りです。何とか土葬をしようとすると金銭的にも手間的にも火葬よりもかなり掛かり「不自由」な思いを味わうことでしょう。
 そういうことで、遺体を葬るとき事実上火葬にしかできない国に私達は暮らしているということがわかります。それは事実上火葬しか選べない「不自由」な国に住んでいるということでもあるし、火葬ができる恵まれた国に住んでいるということでもあります。

 その選択の自由なく火葬にした遺骨を「自由に葬る」とか「自然に還す」とか言っても、私はそこに何か嘘っぽい自己満足のようなものを感じてしまうのです。皆さんはどうでしょうか。私は散骨とか樹木葬とかを嫌いではなかったのですが何か引っかかるものを感じていました。今回まとめてみてその引っかかりがようやくわかったわけです。最初に言ったように葬送に関わる当事者ですから、寺の墓所が売れなくなるから引っかかりがあるのか、とも思ったのですが(笑)、そうではなかった。
 さて、とりあえずその嘘っぽさに目をつぶって火葬にして遺骨となってしまったものの対応を考えましょう。遺骨をどうするか。衛生上は高熱で焼却してあるのでもう問題がないわけです。しかしそれを単なる焼却灰として扱えるかというと、それはとてもできないという人がほとんどでしょう。ではなぜ単なる焼却灰として扱えないのか。そこに理屈の答えは出せません。しかし理屈でない答えはこうです。それが自分に深く関わってきた人の姿を変えたものだから。それは木を燃やした灰とは違って特別な灰なのです。そして特別なものだからこそその灰の落ち着き場所をどうしたらよいかと、心を砕くわけです。
 落ち着き場所は大部分は従来の墓地ですが、最近は樹木葬や海への散骨という形も出てきているということでしょう。
 お金が掛かるということでは、従来の墓所と樹木葬や散骨は大差なくどんぐりの背比べではないかと私は思っています。ではなぜ、樹木葬や海への散骨をする人が現われているのか。ここに従来の墓地への納骨より「自由」な葬送をしたいから、という理由付けがなされるようですが、私はその動機をあからさまに言えばつぎのようなことだと思っています。

 一つは自分の子孫が続かず、家系を保つことができないという現代社会が作り出した家族の問題です。
 もう一つは大都市圏では費用高騰のため従来の墓地を確保することが限られた富裕層にしかできない事態になってしまっており、墓を持てなくなった層の需要の受け口になっているということです。
 ですから、墓に葬ることに比べて樹木葬や散骨は自由でしがらみを断ち切ったかのような印象を与えますが、私はそれはうわべだけのことで、本質は墓に葬ることと変わらないと考えています。


※後記  今回は皆さんの意見も活発に出て盛り上がったのですが、文章にしようとすると、まとめきれない難しい内容でした。例で引いた記事について私の好き嫌いが無意識に働いてしまったのかもしれません。ここでこれらの記事への私の気持ちを述べておきます。

・散骨について
 庭や田圃や畑に人知れず撒く、あるいは埋めるのであれば共感する。川や海に運んで撒くのもまあいいが、音楽や花などを使った芝居がかった儀式は御免被りたい。
 樹木葬は?・・・そういう特別な役割を押し付けられた樹がかわいそう。

・立体駐車場式墓所について
 こうした機械仕掛けで表向きを取り繕うことには嫌悪感を覚える。単なる整理棚の方がはるかに好ましい。

 ここまで書いて気が付きました。今回、例で引いている記事は遺骨になってしまった後の行き先についての話題だったということを。では遺体から遺骨になるまで―――つまり葬式については今回の記事からは具体的なことがわかりません。おそらく「無宗教」の人でも何等かの儀式を行わないではいられないでしょう。そうしてその儀式は、仏教的な色の付いたものにならざるをえないでしょう。そこに微妙で混乱する要因を抱え込むことになります。

2014/06/19 公開

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