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本願
2015年12月19日 同朋の会
法蔵菩薩因位時 | 法蔵菩薩の因位の時、 |
在世自在王佛所 | 世自在王佛の所にましまして |
覩見諸佛淨土因 | 諸仏の浄土の因、 |
国土人天之善悪 | 国土人天の善悪を覩見して、 |
建立無上殊勝願 | 無上殊勝の願を建立し、 |
超発希有大弘誓 | 希有の大弘誓を超発せり。 |
五劫思惟之摂受 | 五劫、これを思惟して摂受す。 |
・ | ・ |
・ | ・ |
如来所以興出世 | 如来、世に出興したまうゆえは、 |
唯説弥陀本願海 | ただ弥陀本願海を説かんとなり |
今お渡しした資料は、勤行集3ページの正信偈の3行目から5ページ1行目までと、少し飛んで8ページの1,2行目です。本願の話をしたいと考えて正信偈の本願に関わる部分を取り出してみました。この説明に入る前に少し雑談します。
昨日、役員のお一人が40センチほどのとれたてのカレイを持って来てくれました。ありがたかったのですがさばかなければならない(一同笑)。実はうちの家族は魚をさばいたり料理することがあまり得意ではない。何年か前にも相馬の親戚から大きなカレイが送られてきたことがありました。その時は困ったのですが自分でさばくしかないと思い、インターネットで五枚におろすやり方を調べておろしました。仙台では年越しにナメタガレイの煮物を食べる習慣がありますが、うちではその習慣はありませんでした。
さてはじめてカレイを五枚におろしたときは大変でした。魚というものは固いものだと思った。鱗を落してから包丁を入れるのですがゴムのように固くて弾力がある。水揚げしてすぐの魚で新鮮です。新鮮だということはちょっと前まで生きていたということです。ということは死んだばかりのものです。段々こんな変な言い方になってくる(笑)。死んだばかりのものに刃物をいれるというのはなんて大変なことだろうと思いました。段々坊主臭い話になってきます。
普通は魚屋さんにいって加工された切り身を料理の材料として買ってくる。ところが今回のように姿形があって直前まで生きていたものに刃物を入れるのは大変なことだなと思わされます。そうして五枚におろすと、やはり全部食べてあげないと申し訳ないな、という気分になる。会館の台所でおろしたのですがなまぐさい臭いも結構残る。そういう臭いからも我々は普通は離れて生活している、などということも思わされる。
魚の話題からいきなり飛びます。皆さん、高遠菜穂子さんという方を覚えているでしょうか。2004年のイラク戦争の時に日本人人質事件で男性二人とともに監禁された人です。事件後はほとんどマスコミで話題になることはなかったと思うのですが、高遠さんは事件後もイラク支援のボランティアを続けておられたのです。イラクの隣のヨルダンに部屋を借りていてそこを拠点にしてイラクに入っているということです。最近、イスラム国などの問題に関係して、また高遠さんを見かけるようになっていました。
その高遠さんの講演会が東北別院で11月30日に開かれました。これはどうしてそうなったかというと、二本松市に眞行寺という寺がありその住職と高遠さんが知合いでした。二本松は原発事故で汚染されているのですが、眞行寺は幼稚園も経営しているので、何とか除染して運営しようと頑張っています。高遠さんは福島のボランティアにも来られていて眞行寺の住職と知り合った。その関係で高遠さんを東北別院に呼ぶことができたのです。10人少々の仲間内に声を掛けた集まりでしたが、私も行ってきました。
とても貴重な話でしたが凄まじい内容でした。写真を映しながらイラクやシリアの情勢の説明をしてもらい、爆撃で手足がちぎれた人や火傷を負った人などの言葉にできないような写真が沢山出てきました。今現に違う土地でそういうことが行われていると思うと愕然とします。
イスラム国がイラクとシリアにまたがって大きな影響を及ぼすようになってしまいましたが、そのためにイラク国内でも300万人以上の難民が出てその一部がヨーロッパに押し寄せている。その事情を2時間ばかり聞かせてもらいました。高遠さんは一人で支援活動を行っておられる。いや、女とは強いものだと思いました。今年の初めに後藤さんという方の首切り事件がありました。あれは特別な凶悪な事件だと思っていたのですが、高遠さんの話では日常的に首切りが行われているそうです。様々な勢力が敵対して戦争しているのですが、何万人と殺されている。米軍も同じく虐殺を行っている。ニュースで敵対する勢力の指導者を殺したといったことが流れました。それがカメラ付のミサイルを誘導して、さもその人だけを殺して周りには影響を与えなかったといった報道が多いですが、実際は全く違ったのだそうです。実際は容疑者一人を殺すために、その潜んでいる地域全体を壊滅させるのだそうです。だから無関係な一般住民が何百人・何千人と殺されてしまう。そうして死体が沢山出る。米軍は死体を入れるための黒いゴム引きのような袋を大量に用意していて、意図的に殺した関係無い人々の死体をそれに入れる。それが山となって積まれ処分するということになる。そういうことを知ると坊主の立場としては無力感を覚えます。「俺たちはいったい何をしているのだろうか」と。坊主としてもそうですが、この時代に共に生きている我々はいったい何をしているのか。
佐藤 その袋に入れられた人達は家族のもとに返されるのですか。
後から返すと言われるのだそうです。
佐藤 自分の家族だと分かるの?
分かる場合、分からない場合があるそうです。それが米軍ばかりではなく、今はイラクの政府が自国民を毎日虐殺している。ちょっと、聞いたことを全部は言えないくらい凄まじい話です。
村本 フセインが倒されたとき、国民を虐殺する独裁者がいなくなってよかったな思ったが、その後からISが生まれたりした。シリアもそうでしょう。かえって独裁者がいたほうがよかった?
結果的にはフセインの時代の方が平和だったそうです。今日は政治的な話をするつもりはないのであまりそちらには踏み込みません。
さて、この話題が先ほどのカレイの話とどう関係するのかということです(笑)。私は魚ですら扱うのに苦労した。まして死んだ人間を扱うのは本当に大変なことだろう。一人の遺体ですら大変なのにそれが何百・何千とある。ちょっと想像を絶します。しかし平気で死体として扱うようなことをやらかしてしまう。そういう現実に対して私達の教えというものは本当に力を持っているのだろうか、と弱気になります。そんな気分で、話す内容がまとまらないまま今日を迎えました。しかし本願とは何かをもう一度話してみます。
法蔵菩薩の因位の時、
世自在王佛の所にましまして
諸仏の浄土の因、
国土人天の善悪を覩見して、
無上殊勝の願を建立し、
希有の大弘誓を超発せり。
五劫、これを思惟して摂受す。
阿弥陀仏という仏さんは仏になる前は法蔵菩薩といいました。その菩薩の時を因位という。その菩薩が修行して覚りを得て仏になる。それを因位に対して果位という。その時法蔵という名前から阿弥陀という名前に変わった。この人はどれだけのものだったのか。法蔵菩薩だったときとは無限の昔です。そのとき菩薩は覚りを求めるために、既に覚りを得た仏を師匠としてついた。その仏が世自在王佛という人です。そして仏は無数にいた。それを諸佛といいます。そのそれぞれの仏が治める場所を浄土といいます。それぞれの仏が仏になる前にはその自分の住む世界の中で苦しみ修行している。だから仏と仏のいる世界は切り離せません。それを国土ともいう。そのそれぞれの国土の善悪を法蔵は見尽くした。全てを見尽くした法蔵は、自分が仏となる時にはそれらの諸佛の浄土よりもっと上の、最高の浄土を実現しようという誓願を立てた。それより上の誓願はありえないので無上殊勝の願です。その誓願が満足するとき、全ての争いや苦しみにあるものを救うというものです。その誓願を達成するために、五劫の間考え抜いたという。一劫という時間がすでに無限の時間ですので無限を五倍したところで、やはり無限なのでほとんど意味がない表現なのですが。そうしてその誓願を実現する方法をすべて練り上げ、準備を整えた。そしてその方法を実行して阿弥陀仏となったというわけです。
如来、世に出興したまうゆえは、
ただ弥陀本願海を説かんとなり
仏を如来ともいいます。ここでの如来は阿弥陀仏ではなくて釈迦如来、お釈迦様を指しています。お釈迦様は2500年前にインドに生れて覚りを得られた歴史上の人物です。その実在したお釈迦様を開祖として仏教が始まりました。そして親鸞さんに言わせるとお釈迦様がこの世に出られて如来となられた理由は、阿弥陀仏の誓願、すなわち本願を説くためだったというのです。これが親鸞さんのお釈迦様に対する評価です。
こういうお釈迦様に対する評価は宗派によって違います。仏教の開祖としてのお釈迦様は一人ですが、そこから様々な弟子筋が分れて色々な説を立てるようになった。
そして様々なお経が作られました。阿弥陀仏の誓願は無量寿経というお経に書いてあるのですが、他のお経を信奉する宗派では親鸞さんのような解釈はしない。宗派が分れている分だけ、それぞれのお釈迦様の評価のしかたがあるわけです。そのどれが良いか悪いかということは言えない。まあ、私達の宗派は親鸞の考えに立って仏教をとらえているわけです。
さて、無上殊勝の願――全ての人の苦しみを取り除き、全ての人を迎え入れるという願を達成した人として阿弥陀仏がいるわけです。神話的なたとえ話と言えばそれまでのことですが、しかしそういうものがあると言ってくる。私がさきほど無力感を感じるといったのは、全ての者を救うという阿弥陀があってなぜイラクのような悲惨なことが起きているのかということです。
村本 救おうとしても救えないでしょう。自分がそういう気持ちにならなければ救われない。私の友達が病気で苦しんでいるが、何と言って元気づけていいかわからない。自分がいくら勉強してもその人の助けにはならないのだとつくづく思う。本人自身がつらいながらも求める心を起こして、求めない限り仏教的には救えないと思う。
はい、答えとしてそうならざるをえないと思います。後半の話でその辺を問題にしたいと思います。少し休みましょう。
〈休憩〉
脈絡がないような話が続きますが最後は繋がって欲しいと思っています。今お渡しした紙は村本さんが今日持ってきてくださったものです。村本さん、ちょっと説明して下さい。
村本 この前、門徒会で本山に研修に行ったのですが、その時に私達を指導してくれた教導さんからもらった資料です。中井ハルさんという人が71歳の時にこの手紙を書いて、たぶん仏壇の中にずっと入れてあった。中井さんはこれを書いた5年後に脳梗塞で倒れ、その後10年間寝たきりで亡くなりました。その後、家族が仏壇の引出を開けたらこの手紙が出てきたそうです。私はこんな短い中に子供に感謝したり孫にも教えたり全てが入っていて良い文章だと思ったので持って来ました。
ちょっと読んでみましょうか。上手な文章ではないので読みにくいところがありますので修正を入れながら読みます。
富吉さん、俊子さん、長いあいだお世話になってほんとうに有難うね。
夫婦なかよくくらしてね。
お陰様とお念佛様をわすれないでね。
雅樹ちゃん、英範ちゃん、人に可愛がられる人になってね。かけがえのない親様を大切にして上げてね。
おたがいに自分の体は自分で気をつけてね。
おおぜいの兄弟をよろしくたのみます。
それでは皆さん有難うね。
南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏 有難う
平成二年 母より
親様というのは仏様つまり阿弥陀仏を表わす言葉ですね。何のことはない文章とも言えますが、わざわざこういうことを書くというのがすごいなと思いました。この人は自分と世界というものをきちんととらえているのでしょうね。みんな仲良くしてねと当たり前のことを言っている。そしてみんな仲良くしないからイスラム国のようなものが出来ている。この人はそうではない世界を願っているし、それをきっちり掴んでおられる。それを言葉に表わそうとすると南無阿弥陀仏とか親様という言い方でしか示せないのでしょう。
休憩の時に雑談でキリスト教やイスラム教の争いや評価の話が出ましたが、ある宗教が良くて別の宗教が悪いといった話ではないと思います。そして仏教はそれらの争いに巻き込まれていないからいいんだという話でもない。親鸞が正信偈で指している阿弥陀仏は浄土真宗という宗派の中にだけあるものを言っているのではなく、世の中にこのような言い方でしか表せないような「働き」というようなものです。苦しんでいる人達と一緒に居る自分が無力感を感じながら生きている、人の苦しみを知るということはその人達に関わっているということです。そうした一人一人が全世界を持っている。中井ハルさんの場合もこの手紙で全世界を表わしてる。手紙の中では自分の縁者だけを挙げているが、当然その外側まで見ていますね。その全体を南無阿弥陀仏と言っておられる。
結局、このような気持ちになることが殺し合いから免れる唯一の道だと思います。
村本 最近の「子供に迷惑をかけるから墓はいらない」といったような考え方はこの手紙にはないですね。
そう思います。この人の場合、そういうことは全く問題になっていませんね。
吉田 この前テレビで墓じまいをしてすっきりしました。と言う人がいた。結構な80歳近い人なのですが。私は先祖を大切にしない考えはすっきりしない。
その人はどういう意味で墓じまいと言ったのですか。
吉田 自分の子供に迷惑をかけたくないので、墓じまいをした。墓にあったお骨は散骨したようです。 ある人から聞いたのですが、自分が死んだら散骨してくれという人がいて亡くなった。子供達は本人の意志を尊重し散骨するつもりでいたが、孫が僕のお爺ちゃんの墓参りはどこに行けばいいのと聞いたという。長男はその言葉で散骨なんてとんでもないと気づいたそうです。兄弟達に相談して、墓を建てることにした。そして今お墓参りをしています。だから子供に迷惑を掛けたくない、面倒くさい、といった理由で墓を建てないような考えの人が多くなると変な世の中になるのかしら。
私もずっとそのことを考えています。今日はあっちこっちに話が飛びましたが今日の話題と関係があると思いますか。
吉田 関係あると思う。
私もそう思います。しかし自分の頭の中でまだ理屈をちゃんとつけられないのではっきりした話ができない。
村本 生まれて何十年も苦労して子供を育てて、そして死ぬ。それでお骨も無いお墓も無いということでは生きた証しが無い。あまりにも自分を軽んじていると思う。
そう思います。先ほどの戦争の話をすると、死体を物として扱う。そして今の話題の墓はいらないという人は、物としてのお骨もいらないことにしてしまう。この辺が何とも理屈の付けられないものがあるのですが、何かがつながっているような気がする。戦争を起こして人々を苦しみに陥れるということの原因には憎しみなどがもちろんあると思うのですが、人間をどう考えるのか、ということも大きいと思う。結局物として考えているから、あんな悲惨なことになってしまうのでないか。戦争と墓はいらないという人の考えとは全く別の問題のようにも思われます。その上散骨などというと、知識人がやるようなかっこいいイメージがある。私もそういう考えに共感する面があったのですが、最近、何かおかしいと思うようになった。
吉田 絆が希薄になっていて、例えば遠く離れた親と年に一回くらいしか会わない。そうなると情が薄くなってしまう。
村本 私の父は大連で召集されてすぐ敗戦になってシベリアに連れて行かれて死んだ。私は父を覚えていないが、母はその後再婚して離婚したので遺族としての権利がない。父が死んだ事情を役所に聞くこともできなかった。子の私は遺骨収集の話題がたまたま新聞にのったので、DNA鑑定をして欲しいと今年厚生省に電話を掛けた。父が死んで埋められた場所は分かっていました。そうしたら調べてくれて、その場所は日本人墓地だったが地元の業者が産業廃棄物を積んでしまっていて遺骨収集ができない状態だ、収集できるようになったらお知らせしますという。そして亡くなった状況を知りたいかというので、知りたいと言ったら、ソ連が父を捕まえた時のロシア語と日本語で書かれた身上調書を送ってきてくれた。
そういう思いが根っこにないと世の中狂ってしまうのではないかと思う。法蔵菩薩・阿弥陀仏というものは、我々が生きている全世界の全ての繋がりの根本を例えて指し示しているという感じがします。そこに気づかない者は、正しい行いをしているつもりで、取り返しのつかない間違いを犯してしまう。それが無明と言われるものでないかと思います。