真宗大谷派 西照寺

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2017年3月20日 春彼岸会法話「痛みと平生業成」


1 突然の痛み
 最近の私は年を取ることと病気の話しかしていないようです。(一同笑)しょうがないと思いつつ、今日もしつこく身体と仏教の話をさせて頂きます。
 同朋の会でも喋っていますので、またかと思われる人がいらっしゃると思いますが、聞いてください。一月の同朋の会の後に私は風邪を引きまして、その悪化のしかたが今までになく早かったという話をしました。経験したことのない悪化のしかただったので、慌てて医者に行った。インフルエンザでないただの風邪だったのですが、それ故に不気味で、風邪でこんな風になったことないのにと思いつつ、治って一息ついた。そうしたら、痛みが首にきて次に歯にきて歯を抜いた歯茎にきた。そういうことを話しました。二,三日前に61歳になりました。身体が中年から老年に移る時の変化が現れているのかと思うのですが、また別のことが起きました。
 今日が月曜ですから・・・土曜日のことです。私はピアノと声楽のレッスンを受けています。土曜日はレッスンの日でした。別棟にピアノが置いてあり、先生に来てもらっています。声楽のレッスンは今回はとても調子がよかった。声を出していると咳き込むことがあるのですが、それもなく、声の出し方が良くなったと誉められていい気になっていた。
 レッスンは一時半頃に終り、その後に中山吉成にある「自立の家」という障害者の福祉施設に行きました。私はここの評議員をしていてこの日は二時半から評議会があったのです。一時間半ばかり会議をして、終って車に乗ったとき、背中が痛いなと思った。筋肉がつったような感じです。それが車を運転している間にどんどん悪くなる。家に着いたときは首が曲がらず腕も思うように動かなくなっていた。夜になると、息ができない。息をすると痛いのです。なんで声楽の話をしたかというと、その時は全く問題なく調子良く声が出せたのに、わずか数時間で息ができず声が出せなくなったことを言いたかったからです。
 そして翌日の日曜には法事が入っていた。なんで俺はこんな風になるのだろうなあと嫌気がさしたのですが、土曜の夜は湿布薬を胸と背中と首に貼ってもらって寝ました。翌朝は手はまだ痛くて動かせないが、声は出るだろうくらいには回復しました。そして息子と二人で法事を勤めました。息子には「俺、声が突然出なくなるかもしれないからな」と言っておきましたが、なんとかこなしました。法事が終って昼寝をしてまた少し良くなり、昨晩寝て今朝起きたら腕も動くようになっていた。(一同笑)
 ですから馬鹿みたいな話なのです。お聞きの皆さんにはそんなことでなんで一々騒ぐのかという程度だと思います。ところが本人は痛みの度合いがすごいものだから、大変なのです。単につったのではなくどこかにガンがあるからではないかなどと、また考えてしまう。心安まらずです。
 そういうことでずっと悩んでいるというか考えています。ここで偉そうな坊主みたいな話をしている。しかし痛み一つでどうしようもなくなる。これはいったい何なのかというのがこの頃の私の課題です。痛み一つで自分の得た仏教の経験知識が嘘だったというつもりはないのですが、しかし痛みが来た時はそっちの方が強い。その時は仏教の経験とか覚りとかどこかに吹っ飛んでいってしまう。その都度、情けないと思う。(笑)  この問題が解決できていないので、さらけ出しています。皆さんはこういう場所でいい話を聞けば痛みなどに負けないような心持ちと身体になるのではないかという幻想を抱いていらっしゃるかもしれません。それが幻想なのか本当に痛みに負けないようになるのか私は分らない。

2 蓮如の病気
 さて、痛みや病気に対して先人はどうしたのかという話題を聖典から拾いました。蓮如が八十四歳の時に書かれた御文おふみ、4帖目十三通から引きました。

「それ秋さり春さり、すでに当年は明応第七、孟夏中旬ごろになりぬれば、予が年齢つもりて八十四歳ぞかし。しかるに当年にかぎりて、ことのほか病気におかさるるあいだ、耳目・手足・身体こころやすからざるあいだ、これしかしながら業病のいたりなり。または往生極楽の先相なりと覚悟せしむるところなり。これによりて法然聖人の御詞おんことばにいわく「浄土をねがう行人は、病患びょうげんをえて、ひとえにこれをたのしむ」とこそおおせられたり。しかれども、あながちに病患をよろこぶこころ、さらにもって、おこらず。あさましき身なり。はずべし、かなしむべきものか。さりながら予が安心あんじんの一途いちづ、一念発起いちねんほっき平生業成へいぜいごうじょうの宗旨においては、いま一定いちじょうのあいだ、仏恩報尽ぶっとんほうじんの称名は、行住座臥にわすれざること間断けんだんなし。」

調べてみたら蓮如はこのとき医者に診てもらっています。この当時、医者に診てもらうということは相当な病気をしたのでしょう。
 ここで「業病」と言っています。単なる病ではなく業病です。「業病」は下手をすると差別用語になります。つまりその人の前世に悪いことをした結果として今の病を得ているということで。しかしここで使っている意味は差別的なことではなくて、自分の身を省みたときに、結果として病気を引き受けているのは自分の因果であると納得していることです。
 因果は因縁とも言いますが、自分が生まれてからのものだけではない。自分が生まれたということそのことは、他の人とは違う唯一の特別な環境にあるわけです。そして他の人はかからないような病気の原因も生まれた時には持っている。こういう考え方は今の社会でも当たり前ですね。その人の体質とかは自分が選べるものではありませんし、病気が発病したときは自分の身が引き受けざるをえない。確定はできないのだけれども、結果として引き受けざるをえない生まれる前からの因というものがある。その因果を引き受けざるを得ないというとき、それは業になります。だから業病とは自分が引き受ける病です。
 蓮如は自分の病を業病と引き受けると同時に「往生極楽の先相なりと覚悟せしむるところなり」と言っている。往生極楽という喜ばしいことの前触れであるという。ちょっとキザな言い方ですね。病気で身体が苦しいのにそれが喜びの前触れだというのですから。つまり病気を往生極楽の因としてとらえている。皆さんに聞きたいのですが、身体が痛いときにこんなこと思いますかね。蓮如の手紙でのサービス文句かと思ってしまいます。私はこんな風には書けないですね。
 「これによりて法然聖人の御詞にいわく、浄土をねがう行人は、病患をえて、ひとえにこれをたのしむ」
浄土を願っている人は自分の病気を楽しむというのですから、こんなことを言える人がいれば是非お目に掛かりたいです。これも皆さんのご意見をお聞きしたいところです。
 「しかれども、あながちに病患をよろこぶこころ、さらにもって、おこらず。あさましき身なり。」
法然の言葉を引きながら蓮如は正直です。自分は法然の言葉のように病気を喜ぶ心は起こらないという。そういう気持ちになれない自分が浅ましいという。これは共感します。
 「はずべし、かなしむべきものか。」
しかし、痛いということが恥ずかしく、悲しむべきことなのかというと、そこまで言うかなという感じはあります。
 「さりながら予が安心の一途」
ここから話題が変わってきます。自分が信心を獲た浄土の真宗では
 「一念発起平生業成の宗旨においては」
一念発起とは阿弥陀仏の本願を信じて南無阿弥陀仏と称えるという気持ちが起きる、これが信心を獲るということですが、それは平生業成です。
 つまり普通に生活している毎日の中で、信心を獲るということが起きる。それが起きた時人生が変わる。業成は業が達成されるということですが、この業は業病の業とは違って、阿弥陀仏の本願を信じて極楽に往生するという業です。極楽に行ったこともないのに行くことが決まっているという大変な自信を持った言葉です。ですからこの業はとても積極的な意味合いです。
 「いま一定のあいだ」
つまり病気になっている今です。その時でも平生業成は変わっていないという。
 「仏恩報尽の称名は、行住座臥にわすれざること間断なし。」
阿弥陀仏の恩に報いるために念仏を申すということは、起きて活動しているときも、寝ているときも忘れるということはない。すごいですね。

3 私の感想
 私は若いときは、こんな言い方は単なる決まり文句として言っているのだろうという気持ちがあったのですが、だんたん本当に言っているのかなと思うようになりました。
 身体が痛くてどうしようもない時にそれで精一杯でほかに気持ちが向くゆとりなどないということは事実です。しかしまたそんな自分が生きているこの世界に対する阿弥陀仏の力を、関連させて考える気持ちもある。
 私は職業上そういう言葉の中にどっぷり浸かっています。若い時はお勉強で知識として入っていた。また若い時は基本的に病気になりにくいし、もし病気になったとしても回復が早いからダメージの受け方が少ない。しかし年を取って身体の自由が利かなくなると、痛いこと一つを取っても経験のしかたが違ってくる。そのときに知識として仕入れていた阿弥陀仏というものが本当なのか嘘なのかということを何遍も考えるようになる。そうするとあながちに嘘とは言えないなと、考えがしみ通るように変わってくる。だからここで引いた後半の蓮如さんの偉そうな言い方も分らないではないな、と感じる。
 先ほど、痛みが強いと教えなどはどこかに吹っ飛んでしまうと言いました。しかし同時に痛みを受けている自分が阿弥陀仏とどう関わっているのか、ということを心のどこかで考えている。それがここで言っている「一定」なのかな。つまり信心を得たら暇なしにナンマンダブと称えるようなイメージがありますが、それとは違う。

4 阿弥陀の力と自分の心
 お経に一生の間人殺しとか強盗とか悪業を犯し続けた人が救われる教えは阿弥陀仏の本願だけだというものがあります。その人が反省もしないで行ってきた悪業の積み重ねの記憶が、ようやく死ぬ間際になってこの人を攻め苦しめる。そしてその苦しみを何とかして欲しいと坊さんに頼む。すると坊さんは、あなたは心が乱れてどうしようもないだろうから、阿弥陀仏の本願を考えろといっても難しいだろうから、阿弥陀仏の名前を一声称えろ、そうすれば、罪は消えて極楽に行けるというのです。このイメージが結構広まっていると思う。
 そこから阿弥陀仏の名前を一声称えて助かるのならどんな悪いことをしてもいいという逆立ちした発想も出てくる。これは自分が犯した行為に対する反省がないのでまともな考えではありません。
 また死ぬ間際に反省した極悪人が阿弥陀仏を一声称えれば助かるという例は、阿弥陀仏にそれだけの力があるという重要な一面を表わしてはいるのですが、これを上に引いた蓮如さんの文章とか、自分の身体の痛みの状況にあてはめてしまうと変なことになります。つまり自分が病気で苦しんでいる時にその痛みを無視して、注意をそらしてナンマンダブを称えればいいのだ、という風に思いがちですがそんなことではない。
 私が言いたいのは自分の考えそのものが阿弥陀と切っても切れないものになっているということです。痛いのはどうしようもない。気持ちも萎えますが、そんな情けない自分というものが、阿弥陀仏が救うというのは本当なのかもしれないと、どこかで考えている。この辺を言葉にするのが難しい。その人の経験からくる「感じ」というようなものです。
 
5 極楽に往生すること
 ありがたい話にできなくて申し訳ないのですが、こういう話が無駄かというと無駄でもないような気がする。Kさんいかがでしょうか。

  Kさん 私は住職のような痛みはあまり経験したことがなく、なぜかというと身体が丈夫だからだろうが、自分なりに朝晩体操したりしていることもあると思う。住職の話はそれなりに意味があると思う。たぶん皆さんも自分の家系なりの病気があるという思いがあるでしょう。私の家系は耳に障害がある。それが因果かどうか分りませんが、家系ごとに業があるということは認めます。自分なりに耳の訓練などもやっています。住職が言われたような病気はあまり感じていない。これからかもしれませんが。あといくつまで生きられるか分りませんが、自分なりに基本となる足腰を鍛えて注意していきたい。

まあ、それぞれですね。

  Hさん 天国の方にぼちぼち誘われているのではないですか。(一同笑)

私は天国には行きませんよ(笑)極楽には行くかもしれませんが。

  Hさん 覚悟の期間を与えられて連れて行かれるんじゃないですか。

皆さんそういうイメージを持っておられますね。最近私は同朋の会で強調していることですが、極楽に行った人は阿弥陀仏と同じ仏になります。すごいでしょう、すごいと思いませんか。(一同笑)

  Hさん 私の友達もガンで苦しんでいるときに、先生がもうすぐ楽になるんだよと仰ったそうでそれからすぐに亡くなった。そういうこともあるから、あの世に行くまでの間、少し苦しみがあるのではないか。

今のお話で重要なことがあります。
 ガンで苦しんでいる時、痛い時に、私がその立場だったら真宗の教えを聞いてきた自分を省みて、こんな教えは何の役にも立たなかったと思うのか、あるいは痛くて大変なのだけれども、役に立っているのかなと思うのか、どちらなのだろうということ。
 さっきも言った通り、若い時だったら役に立たないと思ったでしょうが、最近は役に立つのではないかと思っています。病気の痛みは教えでは取り除けません。しかし痛みを和らげるとは別のところでその人の心境に働いていると思っています。
 それから行く準備を向こうからしてくれているのではないか、と言われましたが、行ったらどうなるかということです。極楽に行ったら痛み苦しみからは解放される。その世界に行った自分は、この世界とサヨナラすると思っていますか。極楽往生という言い方は行ったら行きっきりの一方通行の印象を与える。
 ところがお経には行きっきりではないと書いてある。極楽に行って仏になるということは、自分の覚りを完成させるということですが、同時に仏として義務が発生する。それは一切衆生を救わなければならないということです。ということはどうなりますか。Hさんが極楽に行って仏になった時、阿弥陀さんから言われる。「お前は仏になったのだから一切衆生を救いなさい」と。救うためにはどうしたらいいですか――もう一遍この苦しみの世界に衆生として生まれて他の衆生を救わなければならない。

  Hさん もう一回生まれ変わるということですか。

そういう言い方もお経にはあります。矛盾しているでしょう。

6 六道輪廻の生まれ変わり、極楽往生の生まれ変わり
 ちょっとだけこの前の同朋の会で喋れなかったことを言います。六道輪廻という生まれ変わり方があります。地獄・餓鬼・畜生・修羅・人にん・天の六つ。地獄は一番ひどいところ。餓鬼は欲望に責め苛まれる世界。畜生は人間が支配してその命を自由に奪うことのできるあり方。修羅は常に争いの中にあるあり方。人は我々人間の世界。天は人間より上位のあり方。現実にあるのは人と畜生で他の四つは想像上の世界です。
 そこで我々は今ありがたいことに人にいます。しかし人として生きている間の業によって次の生のどこに行くかが決まります。悪業――人殺しや強盗などを意識して行おこなった場合は地獄に行きます。どの生に生まれてもそこで生きている間の業の善し悪しによって次の生の場所が決まり、六道の中をぐるぐると永遠に回るというのが輪廻です。つまり生まれて死ぬということは一回限りのことではなく、永遠に続くという恐ろしい考え方です。
 仏教はこの六道輪廻から抜け出すことができないのか、とお釈迦様が問いを起すところに始まった。そしてお釈迦様は抜け出したと仰った。さらにこのぐるぐる回る生死の世界には還らないと仰った。それをお釈迦様は六道の人という世界に生きていながら仰った。それを覚りという。
 だからお釈迦様は覚りを得たその時から、人にありながら六道の世界にはいないということになった。ではどこにいるのか――どこにもおらず、どこにでもいる――この辺が仏教の煙に巻くような言い方になります。言葉にならないことを言葉で表わしている。
 この「どこにもおらず、どこにでもいる」を色々な宗派が色々な言い方で表わしている。我々の宗派ではそれを「極楽に行く」という。極楽と天は似ていますが、天に生まれても途方もない時間を生きた後死ぬという寿命がある。極楽には六道と同じような生死はない。
 人から仏になるということでは人からの生まれ変わりで極楽に行くということなのだけれども、六道をぐるぐる回る生まれ変わり方ではない。その生まれ変わり方は「無生むしょうの生しょう」――生まれない生まれ、です。また煙に巻く表現です。こうなると何をバカなことを言っているんだ、という感想を持たれる方もいるでしょう。
 矛盾しているのです。生まれないのだけれども生まれる。だから極楽は有るのだけれども無いのです。その上で取りあえず有るという言い方だと、私達は極楽に生まれて仏になりますよ、でも仏になった人は輪廻の世界の苦しみの衆生を救わなければいけませんよ、となります。
 いずれ我々がイメージするような生まれ変わりとはちょっと違った奥が深い世界です。そして我々はそういうことを膚で感じると思うのです。
 さっき言われたガンで苦しんでいる人は、自分がもうすぐこの世を去らなければならないということを感じるでしょう。そうすると残していく家族とか縁者のことを心配する。つまり自分の死後と家族が生きるこの世界の両方の苦しみを解決しなければならない。だから極楽に行っただけでは済まない。行ったら必ず還って来なければならないと考えるでしょう。
 ということで最後は面倒な哲学的な話になりましたが、皆さんに考える題材を提供できたとしたら嬉しいです。  

2017/04/13

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