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2017年11月26日 報恩講法話「原発事故後六年八ヶ月」



                             二本松市 眞行寺 住職 佐々木 道範

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 皆さんこんにちは。福島県二本松市の眞行寺の住職をしている佐々木です。二本松では11月に提灯祭りというお祭りがあります。そこで三日間、前後合せると一週間くらい飲み続けていました。朝から晩まで日本酒を振る舞われて飲み続けたら痛風になってしまいました。(一同笑)
申し訳ないですが坐ってお話させていただきます。

 2011年3月11日に東京電力福島第一原発事故が起きて、それに伴って放射能が降ってきて、その放射能からどうしたら子供達を守れるのかを考え続けています。答えは全然わからないのです。ですが、僕にできることはなにかあるだろうという思いで6年8ヶ月経ちました。
 NPO法人を設立して子供達を放射能から守ろうという活動をしています。思い付く限りのことをしてみようということで活動しています。食べ物飲み物にどれくらい放射能が入っているかとか、子供達の身体の中にどれくらい放射能が入っているか計ったりしています。今は子供達が遊べる場所がだいぶ増えましたが、原発事故当初は外で遊ぶことができなかったので、放射能が少ない地域に子供達を連れて行って遊ばせるという保養活動などもしています。あとは「除染」というのですかね、生まれてはじめて聞いた言葉でしたが除染もしています。

 爆発当時、雪が降っていたので雪と一緒に放射能が降ってきた。その場所が高線量の場所になってホットスポットと言うそうです。そういう場所の土を削ったり木を切ったり屋根を洗ったりという除染活動をしています。NPOで活動しているというと偉そうに聞えるかも知れませんが、僕の中ではずっと思いは一つで、僕にも大切な家族がいます。愛する嫁さんと可愛い子供達、実は子供が6人います。去年6番目が生まれました。二年前までは大学・高校・中学・小学・幼稚園でしたが。その家族を守るということです。
 原発事故が起きて先ず僕が感じたのは、この国は福島の子供達を守らないんだなということです。今でもそうだと思います。無かったことに、終ったことにして次に進もうとしています。再稼働が全国ではじまりますが本当に再稼働していいのかなと僕は思っています。もし原発事故が起きたらどうなるのか、何万もの人が故郷を奪われ、帰られない場所ができ、食べられない作物になり、魚の漁ができない場所になる。そういう原発事故が起きたらどうなるのかということは、きちんと伝えていかなければならないと思います。
 テレビとか新聞とかでは明るいニュースばかりで、暗いニュースはなかなか流れない。もちろん明るいニュースも事実ですが、故郷に帰れなかったり食べ物が食べられなかったりということも事実です。両方をニュースとして流して欲しいのだけれども、見る方も明るいニュースを求めているから、視聴率につながらないということで、暗いニュースは流れないのでしょう。

1 守りたいもの

 僕が6年8ヶ月ずっと思っていることは家族を守りたいということと、妻には良い旦那と思われたい、子供達には良い父ちゃんと思われたいということです。一番嫌なのは子供達が大きくなった時に「原発事故が起きた時、父ちゃん何していたの」と責められるようなことはしたくないと思って、僕にできることは何かを考え続けています。たまたま幼稚園も経営しているので幼稚園の子供達も守らなければならなかった。幼稚園児が健やかに育っていく環境を作らなければならないのですが、原点は家族と幸せに暮らしたいということです。笑顔で笑い合って暮らしたいが、降ってきた放射能を無かったことにはできないので、それを洗ったり計ったりしないと大切な家族と笑い合うことができないので、NPO活動をしているだけです。

2 違和感

 震災の時、僕の町も震度6強で本堂は壁や天井が落ちて、阿弥陀さんもひっくり返りました。寺の裏山は墓地なのですが、半分くらいのお墓が倒れました。二本松市の市営住宅も全壊しました。
   近所の家が潰れた人達とか余震が怖くて眠れないという人達が、寺に集まってきて3月11日の夜から30人位、寺の会館で共同生活になりました。寺にはテレビが一つしかなく、電気はたまたま大丈夫でした。テレビを点けっぱなしにして、緊急地震速報が放送されると、みんなで外に出る。そんな生活を3日くらいしていたら、3月14日のお昼前に、福島中央テレビが流していた映像だったと思うのですが、原発の3号機の建屋が吹っ飛んでキノコ雲が上がっていく映像が流れました。
 しかしその映像が何十秒かで消されてしまったのです。そればかりでなく自衛隊が撮っていた爆発前の映像に戻された。当時、電気が通じている地域があまり無かったので、その映像を視た人は少なかったと思います。テレビを見ていた僕も含めた30人は「エーッ!」となりました。「今、原発爆発したよね」でもすぐ爆発前の映像に変わった。何か変だなと思いました。その前から東京電力や日本政府が「ただちに健康には影響が無い」と言い続けていたこともすごく気持ち悪くて、この日本語はいったいどういう意味なのだろうかと思っていた。
 原発から二本松市までは直線で約50km離れています。福島に原発があることは分っていましたが東京の電気を作っているとは思わなかった。原発の知識も無かったし、まさか放射能が飛んでくるなんて思いもしなかったのですが、東京電力や日本政府の奇妙な説明や、原発が爆発した映像を爆発前の映像に戻したということから変だなと思い始めた。

3 それぞれの選択

 寺にきていた人の中には小さい子供もいたので、みんなで避難しようかという話が出たり、テレビで大丈夫だと言っているのだから、避難なんかしたくないという話が出たりしました。そして取りあえず避難しよう、大丈夫だったら帰ってくればいいということになりました。ガソリンがなくてみんなでかき集め、どこに避難をするかも分らなかったのですが、新潟に東本願寺の三条別院という所があり、連絡したら、受け入れてくれるということで、取りあえず子供とお母さんを乗せて行きました。今思うと定員オーバーで違法ですがワゴン車2台で避難してもらった。今は避難させてよかったなと思います。なぜかというと3月15日昼過ぎに二本松に放射能が降りました。そのことは文部科学省はSPEEDYというシステムで予測したデータを持っていたので、政府も東電も分っていたのです。   しかし僕たちには知らされていなかったので、ほとんどの人達はその日も普通に生活していたと思います。その中で危機感を持った人だけが避難した。しかし心の底から避難して良かったとも思えないです。ほとんどの人達は政府の説明を信じて残っていたし、何とも心からは喜べない。しかし放射能が降ってきたときそれを吸い込まずにいた子供が一人でも居たということは、よかったなと思いたいです。しかし避難しなかった人達も沢山います。

 後からみんな「騙されてきたんでねえか」と言い出してきます。僕の町が一番最初に米が食べられなくなりました。当時の放射能の基準値は米1kgあたり500ベクレル(現在の5倍の基準)ですが、結構高い放射能が検出されて米が食べられなくなり、野菜も食べられなくなりました。うちの門徒は農家が多いのですが、後になって騙されていたのかなとみんなが言うような状況でした。  そんな中で僕はお父さん達と残っていて、何かできることがあるのでないかと話をしていた。でも飲んだくれていましたね「俺たちも被曝したのかな、でも子供達を避難させたからいいべ」と。そして、除染で土を削ったりということが始まりました。それがNPOになります。そして今でも活動しています。思い出さないと喋れないのだけれど、思い出してしまうと何かそわそわしてしまいます。

 そんな中で幼稚園も再開しなければならなくなりました。子供達にはマスクをしてもらって外には出さない。だいぶストレスをかけてしまったなと思います。ストレスで爪をかじる子、円形脱毛になる子がいたりして申し訳なかったと思いますが、過去は取り戻せないですね。
 だからもしどこかの原発が爆発することがある時は、福島を検証して参考にして欲しいと思います。幼稚園の子供達の笑顔が僕の力になっていました。当時はがむしゃらに動いていたのでよく分らなかったのですが。この真宗聖典という本、坊さんの教科書のようなものですが、これを開くことも全くできず、放射能や原発の本ばかり読んでいました。最近は住職ですので少しは開くようになりましたが。

4 国とメディア

 僕が一番びっくりしたのは、この国はきちんと情報を出してくれないのだな、福島の子供達を守ろうとしないのだなということでした。それならば僕が大切な人達を守るしかないんだな。
 震災と原発事故が起きて今まで当たり前だと思っていた価値観がひっくり返されました。テレビは嘘を吐く。僕はNHKから民放まで全部のテレビ局のニュースに出たことがあります。南相馬市の赤ちゃんの尿から放射能が出たので、調べてくれということでうちのNPOの測定室で計りました。赤ちゃんの尿に出るということは、お母さんのおっぱいか粉ミルクです。そこで色々な会社の粉ミルクを計ってみました。そうしたらある会社の粉ミルクから放射能が出てきました。
 寺の坊さんが突き止めたということで、全部のテレビ局が取材にきました。次の日の朝のニュースに出ました。そうしたら僕が言ったことが全然取り上げられていない。僕はその放射能が出た粉ミルクの会社にデータを見せて、放射能が入っているから回収して下さいと言ったのですが、聞く耳持たなかった。取材の時に共同通信の記者がいて、その会社に言ってくれたので48万缶を回収することになった。テレビ局はその会社の隠蔽体質をニュースにしたかったようで、そういう報道になってしまった。
 僕は取材に対して原発事故が起きなかったら、この会社の粉ミルクに放射能が入るはずがないのだから、会社が隠そうとしたことはもちろん良くないが、粉ミルクに放射能が入ったのは原発事故が起きたからだ、だから、この会社も原発事故の被害者ではないかと言った。会社を叩くような報道だと、原発事故が原因だということが見えなくなってしまうと話したのですが、報道された映像では僕が映っているのですが、前後に言った言葉が無くなっていたりして、僕が喋った内容と全く違っていた。テレビってこういうことをするんだと、びっくりしました。
 それまでは僕はNHKが言うことは正義だと思っていた。まさかテレビが嘘つくはずがないと思っていたが、テレビやマスコミは都合良く嘘をつくのだなとこのとき感じました。震災前までは日本は素敵な国だと思っていましたし、北朝鮮などはひどい国だとも思っていた。しかし日本でも都合の悪いことは隠すし、本当に苦しんでいる人達の方には目が向かない国なのだと思いました。だから僕ができることは僕がやろうと活動しています。

5 願い

 活動していても悩みます。本当にこんなことをやっていていいのか、何で坊さんがこんなことをやらなければならないのかとか。しかしさっき言ったように子供達の笑顔で元気になります。幼稚園児の笑顔は美しくて素敵です。
 もう一つびっくりしたことがあります。震災の年の7月に七夕の発表会をしたとき、子供達が短冊に願い事を書いた。普通だったら幼稚園児の願い事などかわいいものです。うちの娘は「カエルになりたい」と書いたことがありました。そういうかわいらしい願いを普通は書くのですが、震災の年の願い事には「マスクを取りたい」「外で遊びたい」「原発なくなれ」「放射能なくなれ」と書いてあった。放射能も原発も子供達は分りません。しかし原発事故が起きて放射能が降って、バイキンみたいなものがついているから外で遊べない、花を摘めない、虫をつかめない、ということは子供達なりに分っていた。その願い事を見た時にびっくりして、申し訳ない、情けないと思いました。そんな願いを子供達に書かせてしまった責任がある、その願いを叶えてあげたいという思いが僕の力になっています。今はもうそんな願いは書きませんが。

6 小児甲状腺ガン

6年8ヶ月経って福島も変わってきました。野菜はだいぶ食べられるようになりました。山はまだ除染されていないので、山のものは食べられません。川魚も基準値を超えて食べられないものがたくさんある。除染が進むにつれて子供達が遊べる場所は少しずつ増えてきています。
 悪いニュースもあります。震災の年から、福島の18歳以下の子供30万人の小児甲状腺癌の検査がされています。3ヶ月毎にデータが更新されますが、ちょっと前のデータでは196人が小児甲状腺癌になって手術をしています。うちの幼稚園児も一人甲状腺癌で手術しました。震災前までは100万人に1人か2人の病気だと言われていました。ということは30万人ではゼロか1人くらいでしょう。しかし今の福島の子供達は196人で現在はもっと増えていると思います。
 放射能を吸い込んだら甲状腺癌になるということは、チェルノブイリの経験で世界中が分っていることです。チェルノブイリの子供達は放射能汚染された牛乳を飲んで甲状腺癌になっています。だから日本でも分っていた事実です。そして子供達の甲状腺を守る安定ヨウ素剤という薬もあったのです。ただ配布しませんでした。いわき市の三春町の一部では配布しましたが。
 僕は県の災害対策本部に行ってうちの幼稚園児分の安定ヨウ素剤をくれと言ったら、国のゴーサインが出ないから配れないと言われました。それじゃあ、福島の子供達は誰も甲状腺癌にならないのですね、と言って僕は帰りました。その結果、現在196名の子供が甲状腺癌になっている。最近は原発再稼働するということで、そういう地域には安定ヨウ素剤を配布することが義務づけられています。しかし、当時の福島では配らなかった。今も、200人近い子供が癌になっても原発との因果関係は無いという言い方をしています。最近は因果関係を調べるという言い方に変わってきていますが。これも嫌なことですが事実です。きちんと報道してもらいたいと思います。  震災後の心筋梗塞の死亡率は福島県が男女とも全国1位になりました。そして未だに故郷に帰れない人達が何万人もいます。今年の3月に避難区域がだいぶ解除されました。ニュースになっていますのでご存知の方も多いでしょう。しかしあのニュースだと解除になったというだけで、そこに人が住んでいるのかというと、原発に近ければ近いほど人は住んでいません。
 このあいだ浪江町というところが解除になったので、車で行ってみましたが、見えた人間は二人だけでした。僕の言葉ではうまく表現できないのですが、人が住んでいない町や村は気持ち悪いですね。皆さん、機会があったら原発事故が起きた場所に足を運んで頂けたらと思います。
 国は解除しましたから、はい帰ってくださいと言いますが、そう簡単に帰ることはできないです。田畑は除染していないのでどうやって食っていくのか、病院もない、お店もない、その中でどうやって暮らしたらいいのか。こういうことを言うと暗くなってしまうので申し訳ないのですが、知ってほしいのです。これを知らないと人間はアホだから同じ過ちを繰り返すでしょう。千年に一度の地震だったというけれど、もし千年に一度の地震が別の所に来たら、そこでまた福島と同じことが起こり、故郷を奪われる人がでます。そういう意味で福島の現状を知ってもらうことは大切だなと思います。

7 痛み

 少し前に復興大臣が「あっち(東北・福島)でよかった」という発言をしましたが、ちょっとびっくりしました。東北でよかったんですって。でもあの方が仰るような、人間の本質のところに、あっちの方でよかったという意識はあるのかなということは、僕も少しは感じます。もし事故が福島でなく女川で起きていたら、福島でなくてよかったと僕も思ったかもしれない。
 でもあのニュースを見て思ったのは、僕は今なら絶対に口には出さないだろうなということです。福島の人達だったら絶対言わないだろう。なぜかというと、踏んづけられたからです。踏んづけられると痛いのです。痛みを知るということはとても大切なことです。未だに避難先でいじめに遭ったりする子供がいますが、僕も妻と子供達を新潟に避難させたので新潟に行ったり来たりしましたが、福島ナンバーお断りだったり、新幹線で隣の人からどちらからと聞かれて、福島ですと言うと、その人はいなくなってしまった。
 色々ありましたが人間はそういう側面も持っているのだと思います。わからないもの、怖いもの、危険だなと思うものを、自分から遠ざけたいという気持ちが人間の根っこにあると思います。僕も当事者だから踏んづけられましたが、当事者でなければそういう人達を踏んづけて生きてきたのだろうと思います。だから福島で原発事故が起きなかったら、僕もあっちの方でよかったと言ったかもしれない。でも踏んづけられて痛みを知ったので今は絶対に言いません。

 いじめの問題もちょこちょこニュースになって気がかりではあります。ある子供は「津波で沢山の人が死んだから、僕はいじめられても絶対に死なない」と言ったといいます。しかし人間の歴史を見るといじめは無くならないし、人殺しもなくならないし、戦争もなくならない。どうしても人間は同じ過ちを繰り返していくのでしょう。生命が見えづらい社会になっていて、携帯電話をいじれば何でも情報が得られる。人と人とがきちんと向き合って生きていく社会ではなくなってきているので、生命が見えづらい。

8 いのちの視点

 僕は一応住職なので、坊さんぽいことも言おうと思います。震災後、親鸞聖人の言葉で素敵だな、かっこいいなと僕の心に突き刺さったことが何回かあります。こう見えて寺の長男ですので、小さい頃から親鸞の言葉に接してきました。でもそれは知識として入っていただけでしたが、少しづつ親鸞の言葉が僕の中で輝き出す場面がありました。

 原発事故で思ったのは学者さんには二通りあるということです。原発推進派は安全だと言い、原発反対派jは危険だというのです。同じ放射能を学んでいる学者がテレビで正反対のことを言う。福島に生きている僕たちはどちらを信じればいいのかというと、その人の印象しかない。この人の方が生命の視点で喋っているな、この人は経済の視点で喋っているなとか。聞く者一人一人が学者の意見を選び取るしかない。学者は危険だ、安全だと言い切ってしまう。真実はその真ん中あたりかなと僕は思っています。放射能は危険です。広島・長崎でも分るとおり生命を蝕むものです。年間100ミリシーベルトを浴びたら1000人に5人は癌で死ぬのが放射能です。でもどこまで下げれば安全かということは分らないので、ほんとうは分らないとも言える。放射能を癌の治療にも使うでしょう。癌細胞を殺すのも放射能です。それが良いか悪いか僕は分らない。僕は危険だと考えていますが、時間とともに安全だという学者さんも増えてきました。

 親鸞聖人の素敵な言葉に「善悪の二つ総じてもて存知せず」があります。何が善いことなのか悪いことなのか知らんというのです。かっこいいなと思います。そいういう大人はなかなかいないですよ。特にお坊さんはね、知った風に喋るでしょう。大人になればなるほど「分らない」と言えなくなってくる。親鸞は「知らん」と言い切っている。親鸞は念仏が真実だから世の中の善悪は知らんということなのでしょうが、そういう社会のとらえ方は素敵だなと思います。たまに学者さんでも「知らない」という人がいます。知らないけれども生命の視点から考えるべきだと言う。そういう学者の話は聞いてみようと思ったりします。

 もう一つ親鸞の言葉で心に残るものは「親鸞は父母の孝養のために念仏したことは一度もない」という。父ちゃん母ちゃんのために念仏したことは無いと言い切っている。なぜかというと総ての生命は父母兄弟だからだという。そういう生命の視点はすごく大事だなと震災後は特に思います。
   ちょっと前にアメリカのトランプ大統領がシリアに59発のミサイルを撃ちました。目標の基地に着弾したのは26発でした。変じゃないですか。59発撃って26発命中したんでしょう。33発は消えたのですか。違うでしょう。基地ではないどこかに落ちたのでしょう。普通に生活している人達のところに33発は落ちたのです。しかしニュースでは悪い奴のところに59発撃って26発命中したと言い、33発のことは言わない。親鸞聖人が言っている生命の世界は33発が落ちたところまでイメージできる世界なのかなと思う。シリアにだって一所懸命、作物を作って家族を愛している人達が居るはずです。そういう所に33発のミサイルが落ちている。震災後はこういうことを聞くと胸が痛んだりします。震災前は世界の裏側で子供が死のうが胸が痛んだりしたことはなかった。

 皆さんアンパンマンは知っていますか。幼稚園ではアンパンマンの歌をしょっちゅう流しています。アンパンマンの作者やなせたかしさんは何年か前に亡くなりました。震災で体育館などに避難して電気がなくてラジオしかない時に一番リクエストが多かったのが、アンパンマンのマーチです。僕もやなせたかしさんが亡くなったことをNHKスペシャルで流していたのを見て知ったのですが。それは大人達が子供達を元気づけるためにリクエストしたそうです。しかしそれを聞いたら大人達が元気になったそうです。歌詞が結構素敵なのです。
 やなせたかしさんは戦争を経験してひもじい人にパンを分け与えるアンパンマンを創った。やなせさんの弟さんは特攻隊で亡くなっています。やなせさんが最初のアンパンマンのマーチを書いたときは戦闘的な柔らかでない文句が書かれていたのですが、手を入れて今の歌詞になった。その一節に「そうだ、うれしいんだ、生きるよろこび、たとえ胸の傷が痛んでも」とあります。胸の傷が痛んだら嫌じゃないですか。胸が痛むようなことからは目をそらしたいし向き合いたくない。でもやなせさんはそれが生きる喜びだという。親鸞聖人の生命の世界とやなせさんが言っていることは繋がっていると思う。震災前まではどこで誰が死のうが僕とは関係ない人達で、僕の胸が痛んだりしなかった。震災後はこの間のミサイルのことや、熊本の地震でも胸が痛んだりします。苦しいのですがそういうことが生きることなのだなと。

9 地獄から見えたやさしい光

 ちょっとだけうれしかったことも喋ります。家族を守りたいと言っている割には全然守れていなくて、うちの子供達のおしっこから放射能が出てしまいました。子供達に対してかっこいい親父でありたいと思うけど、全然かっこよくない。ださい僕がいます。それも事実です。
 六年間必死に除染してきましたが、間に合いません。原発事故前の福島には戻らないのです。僕が生きられるのはせいぜいあと何十年ですが、放射能が弱まるにはとても長い時間がかかります。セシウムは30年で半分になります。毎年、うちの竹林の筍を計っていますが、今年の筍も食べられなかった。300ベクレルくらいあります。今の食品の基準値が100ベクレルですから食べられません。30年で半分になるということは、30年後に150ベクレルになるということです。だから30年後でもまだ食べられない。60年経つとさらに半分の75ベクレルになって食べられるようになる。セシウムは30年で半分になりますが、他の色々な放射性物質があります。2万4千年で半分になるものとか。原発の放射性廃棄物は10万年管理しなければなりません。放射能はそれだけ長い間、人間を殺す力を持ち続けます。
 だから僕が生きている時間と放射能が弱まっていく時間が全然違う。もう間に合いません。最初は子供達の負担が少しでも軽くなるようにして、福島を渡したいと思ったのですが。
 しかし間に合わないなと分ったときに僕は明るくなりました。ちょっと笑えるようになってきた。震災直後は全然笑えませんでした。今でも本気で笑えているか分らないですが、放射能の時間と僕の時間が絶対的に違っていて、間に合わない現実を受け容れた時にすごく楽になった。あきらめるのではなく、だからやれることがあるのだと。その現実を受け容れることはすごく悲しかったのですが、僕の子供達にこういうものを残していくのかとか。悲しみの底のところに願いがあったのだと思っています。それを浄土真宗では本願と言っているのかと思います。

 親鸞聖人は「地獄に落ちても後悔しない」とも言っています。僕は地獄のど真ん中でも生きる方法があるのだなと思いました。地獄のど真ん中を僕が受け容れたときはじめて気付かせてくれる願いがあるのだな、有り難いと思います。  その生命の願いは僕を信じているのですね。現実、悲しみを受け止める勇気というか。願いに力があります。親鸞聖人も本願力と言います。本願パワー。僕に生きる勇気を与え続け僕を信じ続ける願いがある。もちろんみなさん一人一人の生命にも願いが懸けられている。どんな状況でも善いこともあるが苦しいこともある。苦しいことの割合が多い気がしますが、何があっても自分一人分の人生の責任をきちんと背負っていく力が本願パワーだと思います。生命に懸けられている願いが力になって、どんな状況だろうと一人分の苦しみ・悲しみ・楽しみ、一人分の人生を背負える力が生命にはある。それを本願力というのだと思います。

 ちょっと坊主っぽいことを喋ったのでそろそろ終ります。原発事故以降、確信していることがあります。福島の人は踏んづけられたから嫌な思いをしたが痛みを知った。それは嫌なことだけれども人生で大事なことで、子供達が素敵な大人になると確信を持っています。
 うちの5番目は震災の時1歳でした。新潟で歩けるようになったのですが僕はこの子と遊べる時間が全然なかった。最近やっと時間ができましたがもう小学生になりました。妻は何ヶ月か避難して戻ってきましたが、週末になると子供達を放射能のない場所に連れて行って遊ばせた。夏休み冬休みは遠くへ連れて行って遊ばせた。子供はそんなの嫌じゃないですか。目の前の外で走り回りたいのに。だいぶ子供達にストレスをかけてしまいました。
 子供達は自分の生命を守ろうとしていた大人達にどこかで気付くと思います。それは親だけではなくて、全国の色々なところで子供達を受け入れた大人達がいた。そういう事実は子供達の生きる力になるだろうと思います。だから子供達はつらい思いをしたのだが、なんで父ちゃんは遊んでくれなかったのか、なんで母ちゃんはあんなことをしていたのか、ということをどこかで気付いた時に素敵な大人になるだろうなと確信しています。生命を大切にする優しい素敵な人間になるだろうと。

 こんな話を聞かされて楽しくもなかったと思いますが、真宗ぽいかもしれませんが、皆さん方がここに足を運んだこともたぶん本願パワーです。どんな形で現れるかわかりませんが。皆さんが選んでここに来たのでしょう。ということはご先祖様達がいて色々な人の背中を見てここに来ているのだと思います。僕も僕の生き方で子供達に「父ちゃんダセぇ」と言われないようにしたいと思います。
 今回は報恩講ということで親鸞聖人のご法事ですが、親鸞聖人が笑顔になる今があると思います。皆さんの亡くなったご先祖が笑顔になる今の生き方、これから生まれてくる人達が光り輝くような皆さんの今がここにあるのだろうと思います。僕は南無阿弥陀仏は感覚とか生き方になっていくと思います。それは皆さんの本願パワーが皆さんの生き方の背中を見ている人に、繋がっていくことだと思います。こんなに人が集まってすごいですね。数の多い少ないではないですが。つまらない話でしたが、こちらのご住職に頼まれて僕としては一所懸命喋ったつもりです。6年8ヶ月の思いは沢山あるのですが、ぴったりする言葉を見つけることがすごく難しかったです。あまり伝わらなかったかもしれません。1時間喋って反省しています。僕の言ったことだけが福島ではないです。一人一人の福島がありますから。僕は死ぬまで放射能と向き合っていきたいと思っています。皆さんもいきいきと生きてください。南無阿弥陀仏です。ありがとうございました。
 

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