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2015年9月23日 秋彼岸会法話「自然というは、はじめてはからわざるこころなり」
石段の脇の掲示板にこの句を書いて張っておきました。そうしたらうちの家族がこれはどんな意味かと聞かれたそうです。また、この句をみなさん、ちゃんと読めないようなのです。これは親鸞聖人のことば(親鸞83歳の著作『尊号真像銘文(そんごうしんぞうめいもん)』に出てくることば)で、我々坊主は日常的に接しているので読めてあたり前という感覚になっています。だからどう読むのかと聞かれると、これ読めないの?とちょっと驚いてしまいます。そういうことで今日はこの句について説明しようと思います。
先ず、この「自然」をどう読むと思いますか。普通は「しぜん」ですね。しかしここでは「じねん」です。
そこから皆さんはわからないでしょうね。それに続くかなは昔の字で書いてあるのでどこで切っていいのかわからないということもあると思います。ちょっと読んでみます。
「自然(じねん)というは、はじめて、はからわざる、こころなり。」
親鸞聖人は「自然」という言葉がとても好きでいろいろなところで使っています。親鸞は長生きした方でした。1173年から1262年、90歳の生涯でした。
1173年はまだ平安時代です。1181年、9歳の時に出家得度します。そして比叡山に登りました。この1181年という年は源平の合戦が起きた年でした。そういう激動の時代です。親鸞の家柄はどういうものだったかというと日野氏という下級貴族でした。しかし日野氏は学者の系統で漢籍に長けた人が出ていたようです。貴族と聞くと私達は領地の荘園から年貢が上がってきて都で悠々と暮らし蹴鞠でもして遊んでいるようなイメージを持ちますが、実際はそんな甘いものではなく貴族といえども非常に厳しい生活を強いられていたようです。
日野家は貴族でも下流で財力なかったようです。貴族の子の親鸞がなぜ9歳で出家したかというと、おそらく口減らしです。出家するということは寺で衣食を保証してもらうことです。9歳で仏法に志を懐いたなどという理由はあるはずがないのです。そのようにせざるをえない家がおそらくたくさんあった。源平の合戦が行われていたこの年はまた飢饉の年でもありました。京都の町中に餓死者が溢れていた。日野家でも親鸞を手元に置いて育てることができない境遇だったのでしょう。
さてこの句に戻ります。私は親鸞が「自然」という言葉を使うときのその使い方が好きで、この句は2ヶ月ほど前に書いて張り出しました。先ほど言ったように現代語では「しぜん」と読み親鸞は「じねん」という。では「しぜん」と「じねん」は同じなのか違うのか。
現代語の「しぜん」は自然環境を指しますね。いま稲刈り真っ最中で、今日も忙しくて来れないという方が結構いらっしゃいました。自然環境の場合、人間は自然の一部だけれども自然とは別でもあり主(あるじ)として自然を支配する。だから農家にとっての自然とは田んぼがある自然で、今その中で実りの季節で稲刈りをしている。自然は恵みをもたらしますが、またこの前の豪雨のように大変な猛威も振るう。だからできるだけ自然の猛威を押えて我々に都合の良いところだけを引き出そうとする。しかしそう思い通りにはならない。だから私達の自然というものに対する接し方は、自分達が扱えるものとして、なんとか扱おうとするのですが、ときどきしっぺ返し――別にこちらを怨んでやっているのではないのでしょうが――を受けます。しかしその自然がないと食うに困る。この句の自然をそういう自然だと思って読むとちょっとおかしくなります。
「自然というは、はじめて、はからわざる、こころなり。」
「はからう」とは「計らう」です。善いとか悪いとか分別してものごとを決めたり、いろいろ計画して行動したりすることです。つまり私達が毎日していることです。予定を立ててそれを実行してその結果が出る。つまり毎日の生活は「はからう」ことです。「はからう」というとちょっと印象が悪いかもしれませんが。私達は生まれたとたんに計らう生活をしています。赤ん坊ははからいなどないではないかと思うかもしれませんが、腹が減ったら乳を求めて泣きます。それは自分の要求を通すためにはからっていることです。そうしなければ生きていけません。つまりはからうとは生きているということです。 ところが親鸞の文は「はじめて、はからわざる、こころなり」――変ですね。いったい何を言いたいのだろう。
そこで親鸞の時代の自然(しぜん)はどうだったのだろう、ということを調べてみます。
養和の飢饉(養和元年 1181年)
先ほど言った親鸞9歳の時の飢饉です。鴨長明の方丈記などに記録があります。飢饉の原因は旱魃による農作物の収穫の激減でした。京都を含めた西日本一帯が飢饉となりました。大量の餓死者がでて二年間世の中が飢渇した。飢饉ばかりか大風・洪水も起こった。京都の街中の死者は四万人以上だったそうです。当時、死んだ人をまともに葬ることができるのはごく一部の階級でした。現代のように火葬することができるのは一握りの富裕層だったし、土葬ができるのも限られた階層の人達でした。一般的には死体捨て場になっている野原や山に死体を運んでそこに野ざらしにされた。しかしこの飢饉の時にはそれもできなくて、死体は死んだ場所にそのまま放置された。街中の道や河原に死体が散乱した。日が経つにつれ腐り異臭を放った。そのような状況の中で源平の合戦が行われていたのです。
親鸞はこのような光景を目の当たりにし臭いも嗅いだことでしょう。9歳であれば十分記憶力はしっかりしている年頃ですので、頭にこびりついたと思います。そのような中で口減らしのために出家させられ親と別れなければならなかった。このような体験を親鸞は書いてはいませんが、一生残ったことでしょう。それが親鸞のその後の精神形成に決定的な影響を与えたと思います。幼くして親と別れなければならなかったというつらい経験も合せて。
しかし当時はそんな形でも生き延びることができれば、幸せな部類だったでしょう。そのような境遇でない庶民は食うものもなく餓死せざるをえなかった。これが当時の自然(しぜん)の状況でした。
そうしてはじまった親鸞の比叡山での坊さんとしての生活は29歳まで続きます。その後、比叡山のやり方では覚れない、自分の求める仏教は得られないと思い切って、比叡山を下りて法然上人の弟子になった。そして法然に従って阿弥陀仏の本願というものを信じ、南無阿弥陀仏を称える生活をしていくことになる。比叡山にいた間は出家者ですので世間とは離れた生活です。つまり出家とは家に居てはいけない、すなわち結婚してはいけないのです。世間と隔離した聖なる環境で修行するのが本来の坊さんの姿です。しかしそのやり方ではもう無理だという自覚で親鸞は比叡山を離れ、法然の教えに納得して阿弥陀仏の本願を信ずるところに道を見出した。
阿弥陀仏の本願とは、お釈迦様の教えが出家した人のためだけにあるものではなく、全人類のためにあるということを明らかにしたものでした。つまり出家しない人・普通の生活をする人でもお釈迦様の教えを覚れるというのです。親鸞は本願を信じた後、その普通の生活を実践してしまった、つまり結婚してしまったのです。
出家者が結婚して家庭を持つことは破戒といって重罪です。それを敢えて実行してしまった。結婚といっても現代のような一夫一婦制ではなく当時は通い婚です。親鸞は二回結婚しているようなのですが、一回目は関白まで勤めた高級貴族の九条兼実の娘と結婚したということになっています。子供もできたようです。その後、法然の念仏の教えが広まり勢力を拡大しました。これに対して比叡山などの旧来の仏教勢力は危機感を持ち、法然の教団の弾圧を朝廷にはたらきかけます。弾圧は行われ四人が死罪となり法然は土佐、親鸞は越後に流罪となりました。親鸞は越後に流されたときに、家族を連れていったかというと、そうではないようです。そして越後でまた結婚しています。この二番目の奥さんは恵信といい地元の豪族の娘だったようです。恵信との間にも何人か子供がいます。五年後、流罪を解かれますが京都には戻らずに信濃から常陸に移り住みます。この転居の時には家族で動いています。
さて親鸞が66歳で信濃の国に居た頃にまた飢饉が起きます。
寛喜の飢饉(寛喜2年 1230年から寛喜3年1231年)
これは鎌倉時代最大の飢饉と言われています。だから養和の飢饉よりもっとひどい。
現代の日付に直して言いますが、寛喜元年の7月の終りに現在の岐阜県大垣市や埼玉県入間市のあたりで雪が降った。その後も長雨と冷夏で9月には霜が降りた。つまり夏が冬のような寒さになった。9月20日頃大洪水、その後暴風雨の襲来、その後強い冷え込み。これで農作物は壊滅的な打撃を受けた。いっぽうその年の冬は極端な暖冬になった。夏冬が逆転したようになった。翌年には種籾にまで手を付けざるをえずそれが作付けできない状況に繋がり、悪循環となった。人口の3分の1が餓死したというものでした。
親鸞はこの寛喜3年に寝込みました。おそらくインフルエンザのようなものだったと思います。高熱を出して飲食を受け付けず寝ていた。そうして四日目の明け方、症状が落ち着いてきた頃に目を開いて今の言葉にすると「ああ、やっぱりな」と言ったそうです。それを聞いて奥さんは驚き「何がやっぱりなのか」と聞いた。すると親鸞は次のようなことを喋り始めた。
ずっと夢を見ていた。夢の中で無量寿経を読んでいた。経文の一字一句が金色に輝いて目の前を流れていった。しかし自分はなぜこのような夢を見るのだろうかと考えていた、と。
こういう夢を見てしまう原因は想像がつきます。周りは飢饉の真っ最中です。そして9歳の時の経験のトラウマもある。そうなると今現に世間で起きている苦しみを何とか救いたいという強い気持ちがあったと思うのです。であれば、それを実現させるために仏に祈願する、そのためにお経を読むという動機です。このような祈祷としてお経は当時は当たり前のものでしたし、今でも他宗では行います。その動機が意識の底にあって、親鸞の夢の中に出てきたのだと思います。
しかし親鸞は目が覚めているときは祈祷のためにお経を唱えようとは思っていないのです。そういうことをしなくても南無阿弥陀仏一つで救われるという教えに帰依して何十年も経っていたのですから。だから、夢から覚めて、自分の心の底に祈祷をして仏に頼んで世の中を救いたいという気持ちがまだあったのか、と反省している。
そしてその反省の中で、二十年ほど前にやはり三部経を千部読もうとしたことがあったことを思い出した。それは自分が世のため人のために善かれと真剣に思って始めたのだが、途中でそんな行に頼らなくても弥陀の本願があるではないか、それに自分は帰依したのではないかと気づいた。そして読むのを止めた。その、世のため人のために真剣に何かをしようとすることを自力(じりき)というのですが、その自力の気持ちが残っていたことを、親鸞は夢を見てはっと思った。そういう自分の心の根っこがさらけ出されたので、目を覚まして「ああ、やっぱりな」と言った。
ちょっとゴチャゴチャしてわかりにくい話ですが、そんなことを親鸞が亡くなった後に奥さんの恵信が娘宛の手紙の中に書いています。
そういうわけで親鸞の生きた時代の自然(しぜん)は非常に厳しいものでした。当時の平均寿命は30歳そこそこだったようですが、その時代に90年も生きるということは大変な長寿だったでしょう。しかし人より長く生きるということはそれだけ世の中の悲惨さを見なければいけないという苦しみの中に置かれていたことでもあります。だから親鸞にとっての自然(しぜん)環境は現代の私達の場合以上に過酷で暴力的で希望のないものだったと思います。
現代は異常気象といいますが、最近の私達の会話では毎年異常気象なのだから、もうこれが当たり前だという話題になりますよね。今回の洪水も50年に一度とか言っていますが、しかし四年前の大震災から考えても、地震・洪水・土砂崩れ・暴風、毎年ものすごいことが起こっています。これが普通の気象になったのだと思います。そうすると寛喜の飢饉の状況と似ていますね。親鸞の時代から900年近く経っていますが同じような暴力的な自然の時代に入っているのかなという気もします。
まとめに入ります。親鸞の句の自然(じねん)はそういう自然(しぜん)のことを言っているのではない。自然(しぜん)に対してはからって、それを何とか鎮めようと真剣に経を読んで祈祷する。それは悪いことではないけれども、そんなことが通じる相手でもない。しかし自分は周りに死人が満ちあふれるような時代に生きざるをえない。しかし親鸞は自殺もせず90歳まで生きた。そして亡くなる7年前に
「自然(じねん)というは、はじめて、はからわざる、こころなり。」
という句を書いた。そのように自分が生きてきた世界、そしてこれからも続くであろう世界、その世界を無条件に「ああ、そうだな」と受け取ることのできる自分が書いている。無条件に受け取るから「はからわない」のです。それははからわないと自分が決めたのではなくて、自分というものは必ずはからうのです、しかしまたそうではない自分があるのだよ、という声が同時にある。
わかります?(笑)。ここにきて私の小難しい言い方で混乱していますが。
自分というものはどうしようもないものなのです。自然環境に対しては好き勝手なことをやろうとし、じたばたしたあげく絶望する。善いことをしようとするほどそこから離れていく。
善いことをしようとするのは貴いことだけれども、それだけでは及ばないのだと思う自分があります。その自分は実は自分ではないのです。その自分でない自分が実は「はからわない自分」です。
そこに気づくと「はじめて、はからわざる、こころなり」。
それは何かというと阿弥陀仏です。
つまり今現に苦しんで生きている自分があるのですが、でも生きているではないか、と肯定する自分がある。これを生かしてもらっていると言ってもいいです。うちの宗派は生かされているという言い方をしますが。苦しいことつらいこと沢山経験したけれども、生かしてもらっている自分がある。そこに「はからわざる」自分があるとわかる。そのときそれを「自分」とは言わず自然(じねん)と言う。
この句は言葉で表わしながらその言葉を越えるものがにじみ出てくる。だから味わいがあり、私も筆で書いて張ってみたくなったりするわけです。
2015/09/23