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心と体と物
西照寺のお盆は、ご門徒宅へのお参りの期間である。訪問するお宅は
仙台と近隣の町に散在しているため、車での移動にならざるをえず
巡回する戸数は一日20軒が限度である。
運転し目的のお宅に到着し、仏壇の前で勤行、その後ちょっと世間話などをして、車に
戻り次のお宅に向かうということを繰り返す。
我が愛車(潰れた英国メーカーの13年物)は冷房の利きがよろしくない。
今年のお盆は、日本列島中が連日過去最高気温更新の真っ最中にぶつかって
しまった。
法衣(綿の襦袢の上に間衣という黒い上着を着る。この時期は当然夏用のセット。)
着用で、熱い車に乗り込み窓を開け熱気を逃がしつつ冷房を入れ、窓を閉め
やっとぬるい空気が吹き出す頃には次のお宅に到着である。
車を降りお参りを済ませ、また車に戻ると灼熱の車内と化している。
この繰り返しであった。
そうしてお盆が過ぎ一段落すると体には疲労が蓄積されており、回復する頃は
もう8月下旬である。暑い日差しが照りつけても秋の気配は色濃い。
そんなある日、庫裡で書類の整理をしていた時のことである。
ふと仏壇を見ると、奥の棚の埃が目に付いた。
「薄汚れているな」
これまでの私であれば女房か父母に「仏壇掃除しておいて」と言いつけて済ませて
いたのであるが、このときはすぐに体を動かし掃除を始めた。
仏壇の荘厳(ショウゴンと発音する。飾り付け。)は寺の本堂の荘厳を模倣した
もので、そのミニチュア版である。荘厳の什器類は、花瓶、香炉、燭台、机等で
本堂内の什器はそれらが実際の用途に使われる日常道具であるが、仏壇の場合は
ミニチュア版であるため、それぞれの用途に使うには骨が折れる。花瓶に花を活ける
にしても、せいぜい1、2輪である。燭台に蝋燭を点すにしても、誕生ケーキの
蝋燭よりも小さいものを用意しなければならない。使い勝手など論外である。
いきおい、仏壇の外に日常用の花瓶、蝋燭、香炉等を別に用意し、そちらを使う
ことになる。
かくして、仏壇の中は誰も手を触れないオママゴトのセットとなり、埃が堆積
していく。
寺の庫裡の仏壇とても、ちょっと油断するとこうなってしまう。
これらのミニチュアセットは大部分が単に置いてあるだけなので、取り外しは
簡単である。ちゃんと掃除しやすいようにできている。ただし、元に戻す場合の
配置を心得ずに取り外すと、後で間の抜けたことになるが。

さて、什器類を取り外し、畳に置いていると、隣の茶の間にいた母が珍しいものを
見てしまったという口調で声をかけてきた。
「昨日の夢見でも悪かったのか」
声をかけられた本人としても、これまでやったことのないようなことを、いきなり
はじめたのだから、こんな言われ方も無理もないと妙に納得している。
知らぬ間に次のように答えていた。
「汚れっぱなしにしていてはいかん。仏壇は心の窓だからな。」
母は私の口からこんな言葉を聞いてよほど驚いたのだろう
「ホー、お父ちゃん聞いたか、今の言葉。」
と、隣に座っている父に声をかけている。
喋った私自身も自分の言葉を聞いて驚いた。少し前の自分であれば、こんな言葉は
まるで仏具屋のキャッチコピーだなと、皮肉に笑って片付けるのがオチであった。
そして驚きつつ、己の心の変化を己の言葉や体によって気づかされることもあるのだ
なと思う。齢50を過ぎて。

什器類を撤去した仏壇内部の漆の表面や、金箔張りの彫刻に付いた埃を丁寧に掃除する。 次に什器類の汚れを取り、使わない物は付属の戸棚にしまう。什器は行事や儀式の 内容によって色々な組み合わせをする。特別な時しか使わない物は、整理してしまっ ておくのである。 そして、什器を元の配置に戻し、全体を整えて作業完了。

親鸞は「浄土真宗」という言葉を仏教そのもの、あるいは仏教の核心という意味で
使われているのであるが、この「浄」とは清浄の浄である。また浄化の浄である。
そして浄の意味は第一に「汚れを取り除く」ことである。
仏教で清浄という言葉を使う場合は心を清浄にすること、すなわち心の汚れを除去する
ことを意味する。では心の汚れとは何か、それは様々な欲望や怒り、そねみ、ねたみである・・・
という風に説明が展開する。
我々坊主分は若い時から仏教を勉強し、その内容を少なくとも頭では理解する。
しかし頭でわかることと心でわかることは違う。頭でわかって事足れり、という
姿勢には傲慢さ(仏教用語では驕慢という。おごり、たかぶり。)を呼び込む。
それはまさしく心の汚れであり、その汚れの作用は長い期間に渡って心の自由を拘束する
ところにある。しかし本人はその拘束に気づかない。
何故このようなことが書けるかというと、私自身が暫くこの拘束の中に有り、またそこからの
解放を経験したからである。心でわかるということは、頭でわかっていることを自分の
個人的な体験としてとらえなおす、ということであろう。
つまり「身にしみる」という体験である。
仏壇の作りは、あえて掃除をさせるためにママゴトセットのようになっているの
だろうか。そして仏壇という「物」を己の「体」を使って掃除をし、その行為において
己の「心」の汚れに気づき、心に汚れを溜めないあり方に努めさせよう、という意図が
隠されているのだろうか。
そんなことを考えさせる出来事だった。
2007/08/30 星 研良
※写真は後から作業の過程を再現して撮った。