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往って還る
2016年4月16日 同朋の会
今日は皆さんのご意見を聞きながら話を進めたいと思っています。まとまりがつかない可能性があるのですがお付き合いください。今日の話題について色々準備をしていたら、熊本の地震が起きました。東日本大震災のとき、私はダメージを受けて立ち直るのに5年かかりました。精神的に安定して日常生活をこなせるようになったのはようやく今年です。そうしたらこの地震です。今日は何人くらい集まるだろうかと思っていたら、結構お出で頂いてありがたいです。
さて今回の地震のようなことが起きると、このように集まって話し合うということ自体がとても恵まれた状況だと思わされます。5年前は本堂とこの中の間は増改築工事中で、隣の部屋に本尊を仮安置していました。地震の時、本尊はひっくり返らないで立っていました。さすが佛さんだと思いました。しかしお参り用の香炉などがひっくり返り、灰が散乱しました。停電で暗い中それらを整理したことを思い出します。あの時と同じような事態が九州で進行している最中に、皆さんと佛さんの話題をはじめようとしている。
今日の話題は正信偈の一節です。
往還回向由他力
画に描くとこうなります。
娑婆世界はこの世、我々が生まれて死ぬ世界です。対して淨土はこの世ではありません。この世ではないからあの世です。あるいは彼の世界。この世からあの世に行くことを「往」といいます。午前中お葬式をしてきましたが、喪主が「亡くなった母はあの世に行った」と言っておられました。つまり自分の母は淨土に行ったのだろうという口ぶりで仰っていた。行き先としては地獄というものもあるのですが、自分の親の葬式で地獄に行ったという口ぶりで話す人はいない。そして、往くのとは反対の向きがある。往った者が還るという。そういうはたらきがあるという。そこを今日は問題にします。
葬式という儀式では淨土を想定して中身が組立てられています。亡くなった方は往生したという。彼の土にいくことを往生というわけです。昔の私だとちょっと皮肉な言い方で「皆さんはこれをどこまで信じられますか」と聞いたものです。何が問題だったかというと彼の土にいって見てきた人はいないでしょうということでした。しかし年を取ったらこんな言い方はあまりしなくなりました。そして皆さんに今聞くとすれば「亡くなった人は淨土に往ったと思いますか?」です。
しかし、そんな質問をされても、言葉にできるようなことではないだろうとも思います。自分が行ったことはもちろんないし、亡くなった人が行ったかどうかを確認できることでもない。しかし「往ってない」とは言えないという気持ちではないかなと思います。
Sさん「私は往っているお佛さんと、往っていないお佛さんがいると常に思っている。往っているお佛さんは、生きている者に対して何もしない。往っていないお佛さんは生きている者の供養が足りないから往けない。また生きている者に頼んでくる。だから住職に供養のお経を上げてもらって往ってもらうようにする。と常に考えているがだめでしょうか。」
いや、いいと思いますよ。
Sさん「夜、寝られない時に何回忌だなとか数えて常に頭に入っている。そうやって生きてきた。おかしいかね。」
いや、正直なところだと思います。昔の私であればそれを理屈で説明しようとして、理屈が付かないことが理屈だ、といった屁理屈を言ったりしましたが、最近は違う言い方をしなければならないと思っています。
Sさん「住職は、遺体に向った時にいやな感じを受けることはないですか。」
ないです。
Sさん「やっぱりお経をとなえるからかな。」
どうなのかな。本筋から外れますが面白い話題だから喋ります。逆にSさんはそういうことがあるのですか。
Sさん「ない時もあるし、とてもいやな時もある。そういうことはないの?」
こちらは無条件で受ける仕事でやっているから分け隔てはしない。
Sさん「亡くなった人のところに行く時は南無阿弥陀仏を称えていくの?」
その人の穢れが自分に降りかからないように呪文として称えるかということですね。
Sさん「そうそう」
そういうことはしないです。うちの宗派は塩も使わない。そういうものの必要性を感じない。たぶん家族もないと思う。しかし皆さんの中には住職から塩を使わないと言われた時、本当は使いたいのだけれども、住職がいる時だけ塩を隠すという人もいるかもしれない。しかし私の気持ちとしてはそういった裏表はないです。Sさんの場合だと遺体に触るとどうなりますか。
Sさん「前に死装束で草鞋を履かせたり、小遣い銭を踵のところに挟んだりすると言ったが、そういうことをした後は皆で清める。」
ああ、やっぱり清めるんだ。それをしないと気持ち悪いですか?
Sさん「いやだよね。塩で清めて石鹸つけて洗いたい。」
Mさん「自分の子供や夫や親だったら洗わない。」
Sさん「昔は今みたいに何でもやってくれる葬儀屋さんなんかいなかったから、亡くなった家族の衣類などは洗って北向きに干した。」
一昨日、枕経に行ったときの私の動きを喋ります。枕経の前に私は亡くなった方の頭に触るようにしています。その後お勤めをします。これは実は「お剃刀(かみそり)」という儀式があって、これは本来はその人が生きている時、法名を受ける場合、剃刀を頭に当てる作法があります。その形を真似て枕経の時は剃刀を頭に当てる、と教科書には書いてあるのですが、私はそこまでしないで頭に手を触らせてもらいます。その後、手を洗うことはしません。「清める」という作法もありません。
ただSさんが仰っていることは少し昔の話で、それは現在とはちょっと事情が違う面もあると思います。現在は遺体の扱いを清潔に行える。ところがドライアイスがなかったような時代は、夏に一日二日遺体を置いておくとそれだけて大変な状況になる。だから衛生上、殺菌をしなければならないとき、塩を使ったのではないか。塩の使い方は本来はそういうものだったと思う。しかし現在はそういうことをしなくても衛生上は問題無い。しかし、だから塩を使う必要はないというところまでは割り切れない人は多いと思う。
話を本筋に戻します。葬式では亡くなった人をこの娑婆世界から浄土に往生した佛として扱う。どの宗派でもこのパターンで葬式をします。もっと言えば他の宗教もだいたいこのパターンを取る。淨土が天国になったりと言葉は変わります、そしてそれらが同じものを指しているわけではないのですが、パターンとしては似ている。この世界ではない目に見えない世界があって、その世界は幸せに行けるところだ、そういうところがあるはずだ、という感覚が我々にはある。だから「往く」ことについてはまあ頷ける。
問題は「還る」ことです。往った人が還ってくる。往還回向「回向」とは向うということです。だから往くことを往相回向、還ることを還相回向という。さて皆さんのところには還ってきていますか?(一同笑)。
Sさん「私は死んだ人に憑かれやすい。だからお墓参りに行って、よその墓でまだ誰も墓参りに来ていないな、などと口に出すとすぐ憑かれる。だから口に出さないようにしている。自分の事を忘れられていたのによく思い出してくれたと憑かれて、お祓いをしてもらったことがある。」
その場合、 Sさんへの「還り方」は大変ですね。祓ってもらうようでは(笑)。幸せな世界に行った人の還り方ではないようですね。多分その人は淨土に往った人ではないですね。(一同笑)
Sさん「自分から見てもそう思う、成佛できないのかと。」
今日はそこまで話すととてもまとまらないので、淨土に往った人の還り方に絞ります。つまり幸せな往き方をした人が還ってきたことがありますか。
Fさん「夢とか見るのはどうなんですか」
夢もあります。親鸞も夢についてよく書いています。親鸞が他の人の夢に現れたりもしている。光や勢至菩薩、観音菩薩の形を取って現れる。私も是非そういう夢に遇ってみたいのですがまだ見た事ないです。
Mさん「幸せな往き方をした人はあまりいないのでは。自分の夫の場合、会社勤めを頑張って家族を育ててくれたけど病気で悔しくて死んだ。だから私は幸せな往き方ではないと思う。」
はい、この言い方はあまりにも簡単ではあるのです。なぜ幸せな往き方と言ったかというと、淨土は苦がない世界だからです。苦があるから娑婆世界と言う。この世界で苦でないものはない。だからこの世界での終り方で苦でない形はほとんど無い。苦しんで死ぬのが当たり前。しかし淨土は一切の苦しみがない。
Mさん「苦の世界で亡くなるということは幸せの世界に往くのかしら。」
Sさん「死んでから、お前はこっちへ行けと言われて決まる。」
Sさんの分り方と私の分り方では同じではないと思うのですが、同じ部分もあると思う。つまり、この世界だけでは完全ではないのです。この苦しみの世界だけだとすると、どうしようもない部分が残る。例えばこの前の震災で我々は痛めつけられ、二万人が亡くなった。この亡くなった人達の心や悔やみをどうしてくれるのか。今回、また熊本です。この世界がこのままではいけないだろうとみんな思っている。そして自分達が納得できるためには苦でないものがなければならない。
Sさん「住職さんは拝んで供養してあげることができるけれど、私達は南無阿弥陀仏と言って手を合せるしかない。」
それでいいのです。阿弥陀仏は自分の名を称える者を救うと言っていますから。
〈休憩〉
では続けます。さて、往った人は還るという。なぜ還るかというと我々を助けに還ってくる。
だからさっきの私の質問「皆さんのところに還ってきたことがありますか」は「皆さんは亡くなった人に助けてもらったことがありますか」となります。親鸞さんに言わせると還るのは我々を助けることが目的です。その助けられ方が、病気を治してくれるとか、困っている時にお金が降ってくるとか、そういうことがあるようなないような。
親鸞の書かれた和讃のひとつです。
安楽浄土にいたるひと
五濁悪世にかえりては
釈迦牟尼仏のごとくにて
利益衆生はきわもなし
淨土に往った人は五濁悪世――この苦の世界にかえってきて、釈迦牟尼仏――お釈迦様のように衆生に利益を与える――つまり衆生を助け救ってくれる。このような還り方です。苦から救ってくれるのです。別にお土産を持ってきてくれるわけではない。亡くなった方がこのような還り方をしていますか?
私は何となくこのような還り方があるかな、と思っています。目に見えず触れもせず聞えもしないのですが。
Sさん「そういうことは住職さんしか分からないのではないですか」
いや、そんな偉そうな話ではないです。皆さんもたぶんそういうことがあると思うのですが。例えば法事ですが「法事はしなければならない」という言い方もあるのですが、理屈が付けられないが皆さん行われます。そのあたりに私は還ってきていると思います。どうでしょうか。私の父の三回忌も11月に勤めますが、これってやっぱり還ってきているのではないか、という感じがします。
去年から万灯会を始めましたが、魂が帰ってくるという言い方にはやはり抵抗がある。還るというのは魂とは違う。しかし亡くなった人との関わりを万灯会のような形で表わしたいというのは自然な気持ちだと思う。よその寺の万灯会に初めて行った時、これはいいものだと思った。しかしそれまで自分で言ってきた理屈と気持ちが合わないのです。理屈を合せるために悩んでいたところもあったのですが、イベントとしてやるのでいいのではないかと思ってやってみた。そういうことが大切な感じがするが言葉にできない。雰囲気と言ってもいいです。それを我々が味わうことができると、苦の世界で毎日じたばたしている中で、追い詰められている気持ちから離れることができるのでないか。
Mさん「往った人の世界などなく生きている現実しかないと思ってしまうと、残された私達の方がかわいそうになる。私のために還ってきていると思うということが大事。だからお盆なども生きている私のための行事。」
Yさん「それを昔の人はあまり理屈を言わずに、亡くなって1年経ったら一周忌はやるものだ、ということで躾けられた。何でと理由を聞くと怒られた。」
そうなると家族の力関係で年寄りから頭を押さえつけられた反発が残る。
Yさん「私はそういう躾けをすんなりと受入れて育ったが、夫は父が三男だったこともあり、そんな家庭ではなかった。だから私に今日は貴方のお母さんの当たり日よ、と言われてはじめて気が付く。」
なるほど。私の場合、寺に生まれ育ったわけですが、子供の時はこの環境が嫌で嫌でたまらなかった(笑)。これを納得して受入れるために理屈を付けようとした。ところが最初から理屈は付かない問題なわけです。
なぜこんなに嫌いになったのかを反省すると、我々の世代というものが問題だった面がある。高度経済成長を経験した世代です。この世代はこの世だけで十分だと思ってしまった。この世で豊かになり幸せになり平和になればよいと思ってしまった。私の子供時代の1960年代はすっかり上り調子の世相でした。人の死は考えても自分の死など考えもしなかった。大切なのはこの世の平和であり幸せでした。そういう考えが徹底的に打ちのめされたのが5年前の震災でした。そして、そういう厳しい苦の世界を救ってくれているのかな、と疑いの眼差しを、往った人に向けるわけです。(笑)
しかし、たぶん救ってくれているのでないか。昔の私だったら救ってくれていないのでないかと言ったと思いますが、最近は救ってくれていると思う。
厳しい苦しみを受けてもそれに打ち負かされないような気持ちが持てるようになっている。5年前よりはこの気持ちは強くなっていると思います。それは5年前に亡くなった二万人の方々が還ってきたとも言える。偉そうな言い方ですがそんな感じがします。
救うとはどういうことか。阿弥陀仏の一番の特徴は救うということですが、法蔵菩薩の時に衆生を救うという心を起こした、それを「悲願」といいます。また「大悲」ともいう。「弥陀の大悲」とか決まり文句になっていますが、「悲」が付くのですね。つまり「救う心」とは衆生の世界を悲しんでいるのです。阿弥陀仏が「極楽浄土」という苦のない世界を実現したのであれば、苦でなく楽でもいいではないですか。つまり「楽願」でもいいと思いませんか。屁理屈ですが。そういう言い方があってもいいと思うのにそうではなく「悲願」なのです。我々の苦しみの世界を悲しんでくれている。
だから救われるということは、楽しみを与えてくれることではなく苦しみを和らげてくれるといった方がいいでしょうね。あるいは苦しみに負けないようにさせてくれる。そうなればこちらも気持ちのゆとりができて世の中のとらえ方が少し変わってくる。そういう気持ちになれた時は、還ってきていると考えていいのではないか。
そのようなものを与えてくれる目に見えない世界がないと、この世界だけでは決して完結しないし、どこかで大変な間違いを起こしてしまう。そういう危険性をも知らせてくれている方々がいる世界が淨土だと思う。
だから淨土は証拠は出せないがあると思う。淨土というものを考えないとき、この世界自体がおかしくなってしまう。小難しいですかね。
Sさん「そんなことないよ。」
今の一言で勇気を得て言いますと、だから理屈でなくても大丈夫なのです。浄土真宗とはそういう宗教かなと思います。
ところが世の中にはその見えない世界を違うとらえ方をする宗教もある。極端な例ですが、自爆テロをする人達は洗脳されていると思うのですが、この世界で自爆することによって天国に行けると思っている。そうだとすると、その天国は今まで言ってきた淨土とは違うのです。なぜ違うかというと、この天国は往きっぱなしになってしまうのです。この世界に多くの苦を振りまいて自分は、はいさよならです。
ところが淨土の場合、先ほどの和讃にあるとおり、往った人はこの世界に還ってくる。往きっぱなしだったら、極楽ですから幸せです。別に還ってこなくたっていい。しかしそうなると我々と全然関係ないものとなってしまう。ところが必ず還ってくる。つまり淨土は苦の中に現に生きている私達のためにある。