真宗大谷派 西照寺

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大乗を心得る(その2) 念仏の心境


2019年2月9日 東北別院市民講座(エルパーク仙台)、16日 同朋の会

[市民講座チラシの概要]
親鸞は、阿弥陀仏の本願を喜ぶ人は大乗仏教の頂点を行く人である、という意味のことを書いています。ではその人の心境は具体的にどのようなものでしょうか。また現代の私達の生活に現れる矛盾を含んだ問題に、どれだけの解決を与えてくれるのでしょうか。私の例を出しながら皆さんと話し合いたいと思います。

 先月の続きでお話させて頂きます。前回の感想アンケートまとめが担当の仲村さんから届きました。拝読してとても参考になりました。やはり死を皆さん切実に感じていることがわかりました。喋り甲斐があったなと思います。またしかし難しかったという感想もありました。さらにお手紙まで頂きました。それを踏まえて今日話をしますが、自分の死をどう考えるかの糸口になってくれれば、とても嬉しいです。

 前回のタイトルは「空と浄土」でしたが、浄土まで進めなくて、空の解釈で終りました。ちょっと言い足りない部分があったのでそこから始めます。前回の話で、ペンを例に取って「このペンはさっき机に置いたペンと同じですか、違いますか」となぞなぞのような話をしましたが、そんなことを聞いても面白くないですよね。諸行無常、物事は全て変わる、そして生死するということの教科書的説明を聞いても、そんなことが俺に何の関係があるのか、という感想だと思います。全てのものが変わる、全てのものが生まれ滅びていく、どこにも確かなものがない、という理屈が、自分に何の関係があるのか。

 前回は般若心経の「色即是空 空即是色」を諸行無常に関連させて喋りました。この色即是空が自分にどう関係するのでしょうか。前回も言った通り、私達は皆、自分は自分だと思っています。そして自分はいつも同じだと思っています。1年前の自分も2年前の自分も自分だと思っている。日常生活の中で2年前に同じ事をやったなとか、その時の俺はどうだったのかというと今の俺と同じです。失敗した自分、成功した自分というものがあったとして、その自分は今の自分と同じです。それに対し無常という考え方は1年前の自分、2年前の自分は今の自分と同じではないんだよ言ってくるのですが、皆さん実感はありますか。今、あると頷かれた方がおられますが、それはかなりの変化を感じる経験があったからではないかと思います。私の場合で言うと、1年前の自分と今の自分が違うのだということが切実には感じられません。

 もうすぐ63になりますが45歳くらいから老眼になっていました。意地で裸眼で通しています。老眼鏡は持っているのですが。老眼鏡を作った時はこれはいい物だと、一日中掛けっぱなしで本を読んだり書き物したりパソコンで仕事をしたりしました。そうすると夜には眼が潰れそうになる。これはたまらないと思い裸眼で頑張るようになりました。そういうやせ我慢をして今に至ります。ところが老眼はどんどん進んでいます。少し前に、お勤めで失敗しました。お勤め用の小さい本があるのですが、2年前くらいにはそれがちゃんと見えていた。今回もそれを使ったら全く見えないのです。その時は自分に対して驚きました。裸眼で頑張って見えるつもりだったのですが、見えない。しかし老眼鏡を掛けようとはしないのです。2年前より老眼が進んだということが身にしみて分かるのですが、それでも老眼鏡を掛けたくない。それを認めたくない、というか忘れてしまう。そして自分は見えるのだという意識にまた戻ってしまう。

 たとえの出し方として、あまりはっきりしないかもしれませんが、何事につけ、自分はこういうものだという自己評価をどうも持っている。そういうことが、自分の健康とか精神的な事とかについても、変わらないしこれからも同じものとして自分がある、と思ってしまっている。それを諸行無常ということで自分を反省しても、頭では認めますが心の底の底では認めていない。そのあたりを紐解ければ皆さんのヒントになるのかなと思います。
 空、無常に戻ります。色即是空という言い方は割と綺麗でセンスがいいですね。誰でも受け容れやすい。ところが、諸行無常はちょっと重いですね。諸行の行は前回言った通り、行いという意味もありますが、色(しき)、つまりものごとがそのようにあるということ、私がある、皆さんがある、そういうことを色というのですが、それが移りゆくものであるということを行という言葉で表わしている。諸行無常の一番重い問題が死です。
 私というものは変わらないということが思いの根っこにある。それがあると死は認められない。私が変わらないということはずっと生きていることですから。だから長生きするのは善いことになります。今の世の中、長生きすることのマイナス面が露わになっていますが、それは別の問題です。死を認めない立場からは長生きするのは善いことになる。しかし死は客観的な意味であるでしょう。だから変わらない自分があるから死への不安は必ずつきまとう。変わらない自分が、変わる自分なのだということを、本当に自分は自分だというところで納得できたら、死への不安はなくなりますよ。ところがそうはならない。お釈迦様が生きておられた時のインドでは、変わらない自分と死への不安というものどう説明したかというと、輪廻(りんね)という考え方で説明した。ここに来ている皆さんならご存知でしょうが一応説明します。

  ┌欲界─六道――地獄、餓鬼、畜生、阿修羅、人、天
三界┼色界
  └無色界

世界は三界で表わされ欲界、色界、無色界があります。欲界の中に六道が含まれます。我々現代人にはこれがおとぎ話としか見えないという問題がありますが。インド仏教での生き物の世界、生き物のあり方のとらえ方はこのようなものです。

 これに対して現代での世界観はどうなるでしょうか。人間と動物がいて人間が支配する自然界がある。そして宇宙がある。宇宙は時間によって変わっていくというイメージでしょうか。この人間は技術と科学を使う人間です。技術と科学が経済活動と分かちがたく結びついている。その技術・科学・経済で強大になった人間の力が世界をとらえている。そして日常生活はその強大な力で埋め尽くされている。しかしその人間が死ぬ時のことは一切考えていない。いや葬儀屋さんはいると言えるかもしれませんが、葬儀屋さんも自動車販売などと同じ現代の活動の一つでしかない。人の死を扱うから違うとも言えそうですが、しかし車などと同じように形としてものとしての遺体を扱うサービスです。これは別に葬儀屋さんを馬鹿にしているのではありません。そういう現代特有の限界があるということです。

 これに対して、三界はおとぎ話的な面はありますが、しかし実は欲界の中に今言った現代の世界観はほぼ含まれています。だから三界は現代の世界観以上のものを表わしてる。
色界は色即是空の色とは意味が違います。色界は精神集中したときの状態を表わします。坐禅などで心を集中して、いわばある種の悟りの境地に自分の心境がなったとき、一時的ですが物質的な世界から離れます。時間からも離れます。坐禅を組んで何時間も動かない、傍から見ると生きているのかと疑うような状況でも、本人は坐禅を解くと何時間も坐っていたという意識がない。こういう話を聞くでしょう。我々もできればそういう経験をしてみたいという魅力がある。それはそれで、欲界という物質的な欲にまみれた世界よりはレベルが上なのです。そういう状態を憧れますね。

さらに無色界は、精神集中をするという形さえ超えた精神の経験世界といったものです。自分で経験したことが無いので教科書の受け売りで喋っています。常人には計り知れない精神世界です。
 そしてこの欲界、色界、無色界の三界は輪廻の世界です。つまり、すごくレベルの高い精神集中をする(色界)、さらにその集中することすら忘れるレベル(無色界)に達したとします。しかし、そのままの状態を死ぬまで維持するわけにはいかないから、必ずその状態から醒める。坐禅した人は生死を飛び越えられるかというと、醒めてしまえば、坐禅した時間分、死に近づいていることを認識せざるをえない。日常生活に戻れば、何時間も坐禅していれば腹が減るという現実がある。ご飯も食べなければいけない。ウンコもしなければいけない。そういう欲界の生活に縛られている。坐禅で悟ったと思ったとしても、日常生活に戻れば「変わらない私」がまた出てくる。そうするとやはり死ぬのが怖い。それに答えを与えるという助け船をだしているのがこの輪廻です。人に生まれることは六道の中で上から2番目に恵まれた状態です。その上の天は神様のようなものですが、日本の八百万の神とはちょっと違いますが、人間よりも程度の上の生き物です。目に見えないけれども。

 変わらない私、変わりたくない私が死んだとしたら、「私はいったいどこに行くのだろう」と思ってしまいます。輪廻では、善い行いをすれば上級の生へ悪い行いをすれば下級の生に生まれ変わります。科学技術文明に染まった現代人はそんなおとぎ話が信じられるかとなりますが、そう決めつけて捨て去るわけにもいかない何かがあります。

 話を脱線しますが、この一ヶ月でえらいことが起きましたね。いちばんショックだったのは子殺しの事件です。昨年もありましたが今回はまた凄まじい。あまりにもひどすぎて、私はニュースを追う気がしないのです。見たくない。しかし見えて聞えてきてしまうありさまを考えると、六道がおとぎ話とは言えないと感じます。源信の往生要集には、悪事の種類によってどんな地獄に行くかということが細かに書いてあります。それに従えば子を殺した父親は当然地獄行きでしょう。殺された子は、苦しみながら死んでいった子はどこに行くのだろうか、考えさせられます。殺した方も殺された方も「変わらない自分」にしがみついている。それはしがみつくことが悪いということではないですよ。我々は生きているのだからしがみつかざるを得ない。子供は特に自己保存本能で。そういうところからこの六道を見てみると、おとぎ話と済ませるわけにはいかないように思える。しかし六道が本当にあるかというと、自分が死んだ後のことですから、確かめようがありません。しかし往生要集の説明に納得したとすると、自分は今の生の行いに応じて六道のどこかに行くということになります。変わらない自分が身体を捨てて――それを魂と言ってもいいです――魂が残って違う生き方の世界に行かざるをえないという考え方。

 皆さんどうですか、これは楽しいですか、面白いですか。我々人間が六道で生まれ変わってもよいと思えるのは、今と同レベルの人かその上の天でしょう。人より下の四道には行きたくないでしょう。しかしこの点数評価制度は上に上がるのが非常に難しく、下に落ちるのは簡単です。人から天に行くなど奇跡のような話です。ちょっと悪いことをすれば下に落ちてしまう。すると自分の一生を反省して行き先を考えると、どう考えても下に落ちざるをえない。これは恐ろしいことです。だからそんなおとぎ話など信じたくないということもある。ただこの六道の考え方は人間の業の深さをよく考えて作ったなと感心させられます。下に落ちれば恐ろしいことですが、とにかく行き先は示してくれる。しかし、さらに恐ろしいことはその生まれ変わりが永遠に続くのです。人から天に生まれるのは非常に難しい、畜生に落ちるのは簡単です。

 また脱線します。豚コレラが大変ですね。うちの門徒で県職員の女性がいるのですが、その方は研究職で野菜の研究とか農家の指導をしておられる。その方からすごいことを聞かされました。今回の豚コレラもそうですが鳥インフルエンザで鶏を処分する話でした。処分と言いますがつまり虐殺するわけです。その仕事に人手が足りなくなると、県職員は職種にかかわらず駆り出される可能性があるのだそうです。最初は直接関わりのある畜産関係の職員、それで足りなくなると、農作物関係、それでも足りないと事務職というように。程度問題ですが鶏を殺すぐらいならまだいいとは言えませんが――それでも北海道あたりで自殺した職員がいたそうです――豚を殺さなければならないとしたら・・・、そんなつもりで県職員になったのではないのだろうに。殺す方も大変だし殺される方はもっと大変です。畜生に生まれるとはそういうことです。自分の意志に関係なく人間に自分の生を利用され、殺されて一生を終る。

 本題に戻ります。輪廻ではその生まれ変わりが永遠に続きます。なぜかというと「変わらない私」が続くからです。これは恐ろしいことです。できればそういう苦しみの生と死を止めにしたい。しかしそれはできないという仕組になっています。

 ですから輪廻が、変わらない私が変わらないままだったらどうなるかということの一つの説明にはなりました。しかしそれは楽しくもなければ、解放されるものでもない。そこでお釈迦様は輪廻からの解脱を目指された。結局、輪廻は薄暗いあまり行きたくないあり方です。閉じ込められ感もある。皆さん、こういった仏教の講座やら寺の勉強会や本などで、輪廻のことを勉強されますね。特に浄土真宗の勉強会では「輪廻を越えて浄土に往生する」と言う。

 前回も言いましたが「浄土に往生する」とはいったい何なのか。六道を見ると生まれ変わりでいいところは天でしょう。天でも何万年も生きた後に死ぬのですが。では浄土は天と同じところにあるのか。往生を死んでから行くと取れば人よりももっといいところになるので、天と同じになってしまう。しかし浄土の往生は輪廻を切断するのです。輪廻の生まれ変わりは永遠にその中を回る。しかし浄土の往生はその輪を切ってそこから抜け出す。その抜け出したところが浄土ですよと言う。そんな都合のいいことができるかということです。これには交換条件があります。「変わらない自分」を捨てなさい。変わらない自分にしがみついているから輪廻をぐるぐる回る。それを捨てたら輪廻は切れる。と言われても、死ぬのが怖い自分――変わらない自分はそんなことができるわけないだろうと思ってしまう。難しいのです。

うちの宗派はこの辺のことをきちんと整理しないまま、信心があれば浄土に往生する、といった言い方をする。まあ、うちの宗派は往生をはっきりと出さないような狡い傾向があるのですが。

 さて輪廻をもう少し考えます。輪廻は永遠に続くと言いました。この永遠をどう思われますか。我々は時間というものは永遠ではないから分かるのです。私は62歳でもうすぐ63になる、というのは毎年誕生日が来て勘定できるからです。でも永遠って何ですか。時間が無限に続く。この62年間の怠惰で情けなくて失敗ばかりしている自分の経験をずーっと引き延ばして・・・。60で死ぬよりは80で死んだほうがいいと思います。80になったら100ぐらいまで生きたい、100になったら120まで生きたいと、たぶんなるのでしょうね。その失敗ばかりしてあまり楽しくもなかったことの積み重ねが時間でしょう。それを半分は捨てたいのだがしかし離れられない。そういう時間をどんどん延長していって、60が80になり100になるくらいまでは想像がつくけれども、輪廻はそれが永遠に続いてぐるぐる廻るということですか。そんなこと誰も経験したことない。
我々は自分が生きている時間しか経験できません。原発事故で放射能汚染されて放射性物質をあと100万年保管しなければならないという。それを誰が責任を取るのかといった議論がまことしやかに為されます。私もそういう議論は好きですが。しかし誰も経験したことのない時間の長さをまことしやかに言っている。しかしその時間を頭では考えられる。1万年先とは言わないが高度経済成長期には未来は明るいと思っていた。それが浅はかなあぶくみたいなものだったとはこの十年位であからさまになりましたが。そういう時間っていったい何なのでしょう。
 永遠というものは分からないのだけれども何となく頭で考えてしまう。それに輪廻を重ね合わせると大変なことだと思ってしまう。自分はそういう輪廻の中で悪いところに行きたくないし、既に死んでしまった自分の連れ合いや親や子供はいったいどこに行っているのだろうかという思いも起きる。それが私達の心を苦しめる。

 永遠というのはどうもくせ者なのです。永遠の幸せとかそんなものあるわけがない。輪廻からすれば永遠とは苦しみなのです。だから、輪廻を断つということは永遠も断つということです。永遠という考えに取り憑かれるのを止めなければならない。

<10分休憩>

 仏教の目的は輪廻を切ることだと言いました。ではどうしたら切れるのでしょうか。死んだらどうなるのか、地獄に行く可能性が高いな、という不安。もし天に生まれられたとしてもそこでも終りはある。天に生まれたらそこでの終りをなくしてしまいたい。なぜそういうことを思うかというと、変わらない自分があると思っているからです。その自分にしがみついている自分があるからです。ということは変わらない自分が問題です。その自分にしがみつく自分を止めるしかない。

どうしてそう思えるかというと、私の経験では、しがみついていることが嫌になるのです。自分は自分だと思っていることに疲れてくる。そしてそんな自分を手放してしまおうという心境になった。その心境になれるかどうかです。それを悟りと言ってもいいですよ。こう言うとすごく偉そうに聞えますが。悟りなんてそんなに簡単に得られるものでないと思われるかもしれない。まして、ここに立っている、見知らぬ寺の住職なんかに得られるものかと疑われるかもしれない(笑)。しかし、そうではないのです、人間に生まれた以上この能力がある。
 ただ、今の世の中は、しがみつくのを止めるのが難しくはあります。科学技術文明の経済生活をしていますから、生きるためには給料取りをしなければならない。自分の人生の多くの時間をそこに費やさなければならない。すると自分の考えがその中に染まります。自分にしがみつくのを止めるということに気付くことが難しい世の中です。しかし仏教の立場では自分にしがみつくのを止めることができるのが、人間の素晴らしい能力だと言うのです。

 そして、たまたま自分にしがみつくのを止めることができたとします。すると輪廻をぐるぐる回るという考えも手放すことになります。輪廻は認めるが自分はその輪廻とはもう関わらない。輪廻を断ち切ると言ったのですが、実はその輪が薄れて消えていく感じです。自分にしがみつく人には輪廻は確実にある世界なのですが、しがみつくのを止めてしまった者には輪廻は薄れて消えていく。それとともに永遠も消えて行きます。善きにしろ悪しきにしろ永遠に続くのかと思っていた、その思い自体が消える。

 ということで死の不安の解決は、その死の不安の気持ちが無くなることで解決する。死の不安への答えは出ないのです。輪廻の世界を越えて、変わらない自分が飛び出るという解決ではなく、その問題自体が消えるという解決のしかたです。他の亡くなった人が死んでどこにいったのかという問題もそこで解決する。死んだ人がどこに行ったのかという行き先の答えは出ません。 そのようにしがみつくのを止めることが、空であり諸行無常が分かるということです。

 変わらない自分にしがみつくのを止めた自分とは何なのだろう。今まで言葉を出しませんでしたが「変わらない自分」を仏教用語では「我(が)」といいます。その我にしがみつくのを止めたものは誰ですか、自分でしょう。またなぞなぞみたいになってきました。「変わらない自分」、「しがみつくのを止めた自分」、どちらも自分です。ここから真宗ぽい話になってきます。

 「しがみつくのを止めた自分」は自分だけど自分じゃないのです。取りあえずそれを「心」としておきます。自分の心が執着しない心に変わるということだが、そうすると死後が問題ではなくなる。永遠も問題ではなくなる。逆に言うと死後も永遠も自在に扱うことができるようになる。凄く大それた言い方です。そのとき輪廻も永遠も、暗い自分の問題ではなくなります。しかし無関係になってしまったのかというとそうではなく、自分がもう一度そこに踏み込んで、変わらない自分にしがみついている他の無数の人達を助けてあげる心を起す。それを菩提心という。
菩薩という言葉がありますが菩薩は菩提心を起した者です。菩薩は自らは悟りを求め、つまりしがみつくのを止めることです、そしてまだしがみついている人達の手をほどいてあげる、他の人達を助ける。そういう心になった自分です。そんな偉そうなことがお前みたいな人間にできるかと思うでしょう(笑)。私も思いましたよ。この結論に至った時には何で俺はこんな大それたことを考えられるのかと。

 なぜだったか、この心は自分の心と思っていたが、実は与えられた心だったからです。完全に自分の心なのです、しかし絶対に自分の62年間の経験からは出てこない。もらったとしか言いようがない。誰からもらったのか。永遠をも飲み込んで自在に扱えるものからもらったとしか言いようがない。
 現代の言い方で言えば、人間とは種(しゅ)でセックスして子が生まれて、その子が育って自意識が生まれて時間が経た結果がこの自分だとしか言いようがない。しかし仏教は心というものは違うという。自分の心なのに与えられたと分かる能力が人間にはあるという。与えることを他力という。私達の宗派の言い方だと「阿弥陀さんが与えてくれた心」「法蔵菩薩が作り上げてくれた心」という言い方になりますが。自分の心なのだがそれがはっきりした時にはよそから与えられたとしか思いようがない。

 先月お話した私の友人の日野岳唯照は70歳で突然死んで、こちらもがっくりきました。日常生活の変わらない自分の立場ではがっくりきます。しかしそこにはそれ以上の答えはありません。その後、頭を整理して、自分が勉強した成果をあてはめてみると、がっくりくること、悲しみはしょうがない。しかし日野岳唯照もたぶん認めたであろう自分だけれども自分ではない心は残っている、というよりも元からあった。阿弥陀から与えられた心であれば、永遠をも救っていくものとして飲み込んでいる。
それが浄土真宗の根本経典の大無量寿経に阿弥陀の興り――法蔵菩薩の物語として書いてある。五劫の昔に覚りを成就して世界を救ったという。もう救ってしまったのです。劫は無限の時間といっていい。その無限の永遠の昔に法蔵は阿弥陀となった。しかしその永遠はのしかかってくるものではなく、阿弥陀仏は永遠を手玉にとってしまっている。つまり別の言い方では永遠は無く、阿弥陀仏にとっては今しかない。阿弥陀仏の説法が聞えるのは今しかない。ということでお渡しした資料を見てください。

これより西方に、十万億の仏土を過ぎて、世界あり、名づけて極楽と曰う。その土に仏有(まし)ます、阿弥陀と号す。いま現に在まして法を説きたまう。(阿弥陀経)

お釈迦様が、阿弥陀仏は五劫の昔に成仏して極楽(浄土)を作り上げている、そして今、現に説法しているのだと言っている。「法を説きたまう」と現在進行形で言っている。これが意味ある文章と考えるならば、阿弥陀の説法が私達の耳に届いているということしかありません。十万億仏土の向こうにある、無限の彼方のところで阿弥陀仏が法を説いていて、そっちの世界の事だというのではないのです。その阿弥陀の説く法がこの世界に届いて私の耳に聞えているということです。
つまり阿弥陀は永遠を超えているわけです。さらに十万億の仏土――無限の彼方です。無限の彼方も人間は経験できない。最近のニュースでは宇宙の起源からの何百億光年の光が地球に届きましたとか言っているが、それだって大したことはない。たかが何百億年かかって届く距離ですから。無限の彼方はそれより先にあります。そこにいる阿弥陀の説法が、どういう訳か知らないが、今、私の耳に届いている。つまり阿弥陀は場所など問題にしないのです。あるいは場所にとらわれることをやめている。場所にとらわれるのは変わらない自分の特徴だからです。
 この与えられた心が、私共の宗派の伝統的な言い方では「阿弥陀から与えられた信心」です。また信心は菩提心です。親鸞の言う信心とは浄土真宗に限られたようなものに聞えるかもしれませんが、曹洞宗や真言宗とは違うと思われるかもしれませんが、指し示しているところは全く一緒です。宗派によって違うと考える方がおかしい。大乗ということでそれを話したかった。

 変わらない自分を捨てた心はどんな心境になるのでしょうか。資料の十善法語の一節を読んでみましょう。ほとんど知られていない文章です。著者は慈雲飲光(じうんおんこう)で江戸時代に悉曇学(しったんがく)というインドのサンスクリット語という文献を解読して文法を解明した学問がありましたが、その素晴らしい学者です。この方は真言宗ですから「阿弥陀仏から与えられた信心」というような言葉は使わないのだけれども、与えられた心の心境を書いてる。

『法華経』の中に「今、この三界は皆是れ我が有、其の中の衆生は悉く是れ我が子」と言う
ここで三界とは欲界、色界、無色界である。
男女の欲があり、飲食の欲があり、睡眠の欲がある世界を欲界と名付ける。
この欲を離れて、身心が精神集中(禅定)と相応する世界を色界と名付ける。
この心がその質礙(ぜつげ)〔物体が特定の場所を占めて他の物を入れないこと。色の特質。〕の色身を離れて、虚空と相応し、 寂静と相応する世界を無色界と名付ける。
これらの世界と衆生の住むところがあるということだ。
この三界は十善が完全に顕れる所で、大人〔覚者〕の心が所有する世界である。その中の衆生は実の我が子である。 存在としてそのままである。ただ我見への執われ(我相)を持つ者が自他の区別を作り上げ、自ら覚りに達しない。 妄想になびく者が妄想に蔽われて自ら覚りに達しないのみである。
この者がもし自ら、我見への執われ(我相)が、もとより空であることを知り、我が所有物への執われ(我所相) がもとより空であることを知り、存在の差別のあり方(法相)がもとより空であることを知れば、 今日から三界は我が所有する世界となる。そしてこの中の衆生は実に我が子となる。
・・・・
一般の人々は、我が手に取ることができず、我が眼に見ることのできないものは、我が所有物とは言えないと思っているだろうが、 手に取れるものばかりが我が物ということではない。眼に常に見ているものばかりが我が物ということではない。
大金持ちの家の主人も、常にその大金を懐に入れているわけではない。それらは使用人などにまかせている。そうでありながら、 一村一郡の主である。
天下を治め一万台の兵車(一天万乗)の主たる大君でも、所有する山海の広狭、土地の産物、人民百姓の田穀財宝の数まで悉く知っているわけではない。民百姓の田地財宝は民百姓の田地財宝としてそのまま我が所有である。
功臣や諸侯には一国、二国を与え、それをそれぞれの子孫末裔に相続させ治めさせておき、やはりそのままに我が所有の領土である。 これらの譬えで知れ。真に徳を開発(修行)する人は、梵天に昇って見なくとも、十八梵天には精神集中(靜慮)の楽を得させておいて、 そのままに我が所有であり我が子である。
無色界は見なくとも、また、自身が無色定を得なくとも、そこの衆生に深い禅定に入らせておき、そのままに我が所有、我が子である。
勇者は勇者、智者は智者のままに、たとえ自分の胆力や智慧は彼等に及ばなくとも、そのままにすべて我が所有であり、我が子である。 面白いことだ。
富貴の者は富貴のまま、我が所有であり我が子だ。貧賎な者は貧賎のまま、我が所有であり我が子だ。面白いことだ。

文章を書いている飲光さんの心がとても軽く自由闊達に書いていることが分かります。念仏する心境もこれと同じだと私は思います。このような心境にならない念仏は、阿弥陀から授かった心の念仏とは違うと私は思います。念仏している方はその辺を点検して頂きたい。

 南無阿弥陀仏と拝んだら自分の重苦しい心が救われるのではないかと期待して唱える念仏は、他力の念仏ではないと思います。私だっていつも念仏ができているわけではないです。情けない状況に落ち入っていることがほとんどです。しかしそういう状況から他力の念仏に取って返せるような、一応の道筋は得られたかなと思うだけです。
 しかしそういう他力の念仏の心境になれたとして、それが現代社会に生きる何の足しになるのでしょうか。世の中はどんどん悪くなるように見えるし、子殺しの話に戻せば、見たくもないものを見せつけられ、あの子は一体どうなるのだろうか、と心配する。それに対して私はもちろん無力です。だとしたら、他力の信心なんて単なる幻想ではないか。そういう弱気にもなります。

 しかしもう一度返します。くどくど解説してきて永遠とか無限とかいうところまで行きました。そしてそれを飲み込むということがあるのだと分かった。それがどうしてできたかというと、仏教の伝統が生きている寺に生まれた私が、伝統されたお経を読んで、これをどう理解したらいいかと自分の中で意味付けをしていった結果分かった。ということは、明らかに私が生まれる前から、真実の教えというものが、2500年という実際の仏教の歴史の中で続いてきたということです。
そうなるとまた突拍子もない事が出てきます。私は日野岳さんが代表を務める勉強会であるときこんな事を言いました。

「経が先か、生命が先か?」

経はお経です。つまり仏の教えです。普通、生命が先でしょう。我々が生まれるということに関してお経なんで関係ないでしょう。皆さんも色々な経験を経てここに来ていらっしゃるでしょうが、お経・お釈迦様の教えを知ったのは生まれてから後のことでしょう。だとしたら、お経なんて自分が人生を経てきたある期間の中での経験でしかないと、思うでしょう。
そしてそのお経の内容を勉強してなんとか自分も悟りたいと思う。それはきっかけとして大切ですが、その立場に止まるかぎり、しがみつく自分は離せませんね。だから一所懸命お経を勉強するのだが、悟れると書いてあるのに悟れないということになる。考えを改めなければいけません。生物的な自分の生命が先だと思っていた。違うのです。お経の方が先なのです。私がこの言葉を出した時に「星さん、アタマは大丈夫ですか」と言われました(笑)。しかし、お経が先だと考えなければ自分を手放す心にはなりませんね。真実というものが先なのです。その真実を言葉で表わしたものが、阿弥陀仏の物語です。それに気付くことができるのが人間の心です。だから人間に生まれることはとても尊いことだと言う。天に生まれるより尊い。天は暮らしがあまりにも楽すぎて真実を求める心が出てこない。人間の心だけが覚りを求める心を起す。
 私は生命よりつまりこの世界よりお経が先だという結論を出したとき、俺は気は確かかと思いましたが、しかしお経は阿弥陀仏の成り立ちを表わしている。よその宗派は阿弥陀仏を前面に出しません。しかし同じ所を示します。その阿弥陀仏の成り立ちはお経が先だという非常識な結論に至ったときにはじめて納得する。そのとき、世界の衆生を我が子と見ることができる。
 そういうことを私が思いつきで言っているかというと違います。ちゃんと親鸞さんが言っている。その証拠を出して終りとしましょう。『歎異抄』後序、有名な親鸞の言葉です。

弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人がためなりけり。

これを初めて読まれた時は凄い言葉だなと思われたでしょう。しかし、弥陀という大きなものがちっぽけな親鸞を救ってくれている、という風にとらえませんでしたか。しかし、これはそういう意味ではありません。親鸞の心が阿弥陀の心と一つになってしまっている。だから親鸞一人とは阿弥陀一人ということです。しかし、そう思うと同時にそんな偉そうなことは言えないなという反省で

されば、そくばくの業をもちける身にてありけるを、たすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ

自分の心だが自分からは起きるはずがないという反省です。

次です。

本願一乗は、頓極・頓速・円融・円満の教なれば、絶対不二の教、一実真如の道なりと、知るべし。
専が中の専なり、頓が中の頓なり、真の中の真なり、円の中の円なり、一乗一実は大誓願海なり。
第一希有の行なり。
金剛の真心は、無碍の信海なりと、知るべし。(『愚禿抄』 親鸞)

難しい言葉で言っていますが、親鸞が言う本願は宗派に関係ないということです。本願を信ずる心、つまり自分にしがみつくことを止める心は誰でも起すことができる。それを教えたのがお釈迦様でその心を起すことが大乗と言われる。後で言いますが本願一乗の一乗と大乗は同じです。
 その大乗の中でも阿弥陀仏の本願を説いた教えが一番だと言っている。それを宗派の解釈でやってしまうと真言宗では大日如来の方が上で阿弥陀仏は下だが真宗では阿弥陀仏の方が上だといった程度の低い言い争いになってしまう。しかし親鸞は如来とか仏の本質をついて書いている。だから親鸞が起した真宗の信心は真言宗の教えに従う人でも持っている可能性がありますし、曹洞宗の人でもありうる。現代にあてはめれば、キリスト教やイスラム教の人でも持っている可能性がある。そういうところでお互いを認め合わなければならない。現代はそういう時代ではないでしょうか。
次にいきます。親鸞が書いた『教行信証』の行巻からです。

「一乗海」と言うは、 「一乗」は大乗なり。

ここで一乗と大乗が同じだと言っています。

「大乗」は仏乗なり。

仏乗とは仏になるための教えです。

一乗を得るは、阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)を得るなり。

阿耨多羅三藐三菩提は無上正等菩提とも言って最高の覚りという意味です。

「阿耨菩提」はすなわちこれ涅槃界なり。

涅槃は覚りと同じです。

「涅槃界」はすなわちこれ究竟法身(くきょうほっしん)なり。

究竟法身は「いろもかたちもましまさず、こころもことばも絶えた」そういう無上の覚りです。

「究竟法身を得る」は、すなわち一乗を究竟するなり。

究竟とはかぎりなく極めていくということです。心も言葉もある我々の世界・生活を、心も言葉もない方向に向けていく。

如来に異なることましまさず

これが重要です。大日如来や阿弥陀如来といった別々の如来がたくさんいると経典には書いてありますが、その無数の如来の根本は一つということを言っている。

法身に異なることましまさず。

如来の身体を法身といいます。目に見えず、心にも思うことのできない身体。

「如来」はすなわち法身なり。
「一乗を究竟する」は、すなわちこれ無辺不断なり。

無辺不断は永遠や無限を飲み込んでいるということです。

・・・・
「一乗」はすなわち第一義乗なり。

第一義は最高の覚りです。

ただこれ誓願一仏乗なり。

ここでもう一度阿弥陀の教えに帰ります。仏乗すなわち大乗を阿弥陀の教えに返せば、誓願すなわち阿弥陀仏の本願になるんだよと言っている。

 飛ばして喋りました。難しい言葉が出てきましたが、いかがでしたか。皆さんのヒントになるものあればうれしいです。

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2017/09/23秋彼岸会法話「向こうから在る――阿弥陀経」 2017/09/27
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随想2 輪廻の検討 2018/03/20
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東北大学宗教学研究会「寺が直面する存亡の危機と妙光寺25年の試み」 2015/06/16
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