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2015年3月21日 春彼岸会法話「罰と業」
今回のご案内で去年の彼岸は雪が降ったと書きました。今年はどうなるかなと心配していたのですが、今日はここ数年来の久しぶりの春らしいお彼岸となってよかったなと思っています。天気がよいと皆さんの集まりも良くて去年の二倍くらいいらっしゃってます。
今日は「罰」という言葉を話題にします。「バツ」あるいは「バチ」ですね。「バチがあたる」という言い方がありますが、私はこの「バチ」を鐘を打ち鳴らす「ばち」に引っかけた言い方だと思っていたのですが、今回調べてみたら罰の読み方の一つだと分かりました。呉音(ごおん)といって中国の古い時代の読み方を伝えた発音だと「バチ」と言うようです。お経の発音の多くは呉音です。
さて、この罰という言葉が最近、私の頭に時々浮かびます。なぜだろうと考えてみて、思い合わさったものもあるし首を傾げるものもある。そしてどうしても震災の話を出してしまうのですが、まあ四年前にあのようなことを経験してしまったこの世の中が、避けて通れない問題だということで聞いて下さい。
四年前を思い起こして頂くと、地震から一ヶ月後くらいに東京都知事選挙がありました。石原慎太郎氏が再選されました。その後、彼が震災を「天罰だ」と言ったことを皆さん覚えておられますか?大変な話題になりました。私は石原氏が嫌いです(笑)。その人の発言でしたからムカッと来たのを覚えています。「なんであんたにそんな事を言われなければならないのだ」と。そしてそう思った人はかなりいたでしょう。マスコミも右翼的で口が軽い石原氏を叩きました。それから何日かしてさすがの石原氏も発言を撤回せざるをえなくなったようです。日本の政治家のいつもの情けないパターンです。失言をしては撤回する。このやり方もおかしくて、自分の本心が変わったわけでもないのに、謝れば許されるとする雰囲気を変だなと見ていましたが。しかしそういうポーズを取らなければならないくらい周りの反発が強かった。
津波の被害を受けたところはまだまだ瓦礫は片付いていなかったし、原発事故はとっくにメルトダウンしていたという事実が隠されていました。みんな避難していましたが少ししたら帰れるだろうと思っていた。そしておそらく被災した人達には「言えるものなら俺の目の前で言ってみろ」という気持ちがあったでしょう。そういう怒りはかなりの人々にあったと思います。
しかし、私は今にして冷静にあの時の気持ちを思い返すと、怒りを覚えたと同時にハッとしたことがあった。つまり自分もうすうす感じていたことをあの人の傍若無人さで、普通の人ならなかなか口にできないことを言ったのではないか、という面があったのではないか。そう感じた人は私ばかりではないと思うのですが、皆さんはどうだったでしょうか。
震災で混乱していたあの当時は、このように考えるゆとりはなくその時の感情だけでした。そしてだんだん落ち着いてきました。停電が回復しました。都市ガスの供給はずいぶんかかりましたね。大阪から助けにきてくれていました。うちはプロパンなので実害はありませんでしたが。私達の一生の中で初めて経験するさまざまな事態が起きて、震災前の状況に回復するまではどうしても日常生活に追われる。震災で初めて経験することで気づいたことや考えなければいけないことがその都度浮かぶのですが、食料やガソリンを確保しなければいけない、病人を風呂に入れるためになんとかしなければならない、そういったことに追いまくられて数ヶ月が過ぎたと思います。その中で、気づいたことや考えなければならないことが押し流されしまった。そして忘れていつの間にか日常生活が復旧してしまった。忘れたことすら忘れてしまった。
しかし日常生活が復旧してもなにかおかしいなという引っかかりが残っている。あのとき感じた問題をはっきりさせなければいけないという気持ちがずっとある。今年の3月11日の追悼法要で報告するために県内の津波被災地、山元町・女川町・雄勝町の三ヶ所に行ってきました。これらの場所には震災の年に行っていますので今回は二回目です。
その感想をもう一度言いますと、山元町は瓦礫は撤去されましたが、何もない空間が海岸から三キロぐらいの幅で南北に広がっています。その他に目立ったところは海岸に六メートルくらいの高さの防波堤ができました。これが見渡す限り続いています。東日本の海岸全てがこの風景になってしまうのかと思うと、そうせざるを得ないことなのでしょうががっくりしました。これが復興か?と首を傾げざるをえない。テレビは復興がいかにも進んでいるようなところだけを映す。しかし現場に行ってみると全く印象が違う。
次に女川町に行きました。こちらはものすごい変わりようで、四年前に見た地形が変わってしまっていました。白山神社や住宅があった小山は山ごと削り取られて、新しい道路が作られたりしている。変わっていないのは町立病院と中央部にある墓地の二ヶ所くらいでした。工事車両や重機などが何十台も動いている。しかし工事の活況はありますが生活感は全くありません。仮設住宅は他所と比べるとずいぶん立派なものが建っていて、人が入居しているのでしょうが人影がない。それは、みんな働きに出ているからそうなのかと思ったのですが、外からは計り知れない事情があると思います。
次に雄勝に行きました。リアス式海岸を縫う道路沿いには猫の額のような入り江があるのですが、そこにも工事は入っています。そういうところの仮設住宅は入りくんだ谷間にあるので陽差しがなかなか入らないように見えました。そういうところに暮らさざるをえないのは大変だろうなと思いました。雄勝町の状況は山元町とほとんど同じで、瓦礫は撤去され護岸工事も進んでいるようなのですが、人影がありません。これから人が住むのだろうか、と首をひねります。
そんな光景を目の当たりにして、ああ、四年経ってこれかと思いました。復興するのだろうか。人が帰ってくるのかな、と。
「何か罰が当ったのかな」とふと思ってしまいます。石原氏は日本人が欲深で傲慢だから罰が当ったと言ったのですが、そんな言い方にはとても賛成できません。しかし「罰が当ったか」という思いが顔を出す。
さて、仏教では「罰」という言葉をあまり使いません。ここに真宗聖典という本があります。我々坊主はこの内容には一通り目を通していて、基礎知識にしているものです。私はこの内容をパソコンで検索できるようにしています。「罰」という言葉で検索してみると五、六ヶ所くらいしかありません。では仏教には罰という考えがないのかというと、似ているのですがちょっと違う考えかたをします。それは「業(ごう)」という言葉で表わされるものです。この「業」もある程度日常用語になっていると思います。例えば「自業自得」。さて真宗聖典を「業」で検索すると、実にほとんどの文章に含まれていることがわかります。それくらい仏教用語としてはあたりまえのものです。しかし皆さんに「罰」と「業」のどちらが身近というとおそらく「罰」の方が身近だと思います。「業」はなにかよくわからないところがあると思います。
業の説明をしていきます。
「因果」
これもちょっと難しいですが日常語ですね。原因があって結果がある。それだけの話です。これにもう一つ漢字が入る場合があります。
「因縁果」
「因縁」という言い方もありますね。これらの言葉と「業」は実は同じことなのです。
私達の行いは必ず原因があります。私が今日ここで喋るということは、皆さんに彼岸会の案内を出したから喋らざるをえない、という原因を自ら作っている。その結果として今喋っている。これが因果です。そんなこと当たり前ですね。ものごとは必ず因があって果が起きる。
持ち上げた物を離したら落ちるといった物理法則や、人とケンカしたから殴られるといった人間関係や、贅沢や博打に走って借金し人の金に手を付け牢獄に入れられたとか、すべて因果です。
悪い例ばかりが出てきますが善い例も同じように因縁果です。例えばこの本堂が立派に改修できたという果は皆さんのご寄付という因があったからです。悪い例にしろ善い例にしろ因縁果です。縁とは間接的な原因です。例えば本堂の改修が四千万円の予算で皆さんにご寄付頂いたが、予算を超過して掛かることになってしまった。それを知った方々から追加で寄付を頂き完成に漕ぎつけた。この追加寄付が縁と言えるでしょう。(あまりうまい例えではありません。)
こんな例を説明されても自分が今生きていることと何の関係があるの?という疑問が出るかもしれません。仏教ではこの因縁果が自分の生涯全体にかかってきます。自分が今ここに居るということについてどんな因があるか、それはこの世に生れたからである、ではなぜ生まれたか、父母がいたからである、では父母はどうしてそのときそこに居たのか、ということになって、私の生まれたことを解明しようとすると生まれる前まで必ず遡らなければなりません。これはちょっと考えればお分かりのように無限の過去まで遡ることになります。仏教はそこまで含めて因果と言います。そして私が今ここに居るという結果は父母という因があって起こった。その父母という因は実は果でもあって父母が居たという結果をもたらした別の原因がある。このように因と果は一つのことについて必ず二重になっています。それが無限に続きます。
現代の医療や年金や健康保険などの社会の制度の見方では、自分が今ここに居るということの因をどこまで遡るかというと自分が生まれたというところまでです。しかし仏教はそこで止まらずに無限に遡る。だから恐ろしい話になる。そしてそんなこと分かるものか、と誰でも思ってしまう。
最近のマスコミの話題でいうとドイツのメルケル首相が日本に来て歴史認識を問題にしたことや従軍慰安婦の問題とか、実は私達それぞれが今ここにいる結果を自分の生まれる前に遡って問われている。そして自分の過去を無限に遡るなんてできない、できないのだが私達は「感じる」のですね。そう思いませんか。そして自分がここにいるということは過去を全て引き受けた結果なのだな、と思ったとき、因果の考え方は業になるのです。
自業自得は世間では「自業自得だからしょうがない」という使い方をしますが、本来は自分の業を受入れて納得したときに使う言葉です。
罰に戻ります。仏教は罰を与えるような眼に見えない大きな力、神といったものを否定はしませんが、それを我が身に降りかかってきたものの原因とする見方をしません。例えば借金で首が回らないという果を自業自得と考えたときは自分が引き受けることになる。それは罰ではなく業になります。普通はそれでいいです。自分が引き受けることができれば。
問題は震災のような大きな災難が起きたとき、それを自業自得と思えるかということです。震災に対するこのようなとらえ方はおそらく現在も話題になっていません。マスコミはもちろんそんな取り上げ方をしません。こんな話題は誰も恐くて手を付けられない。その反動でみんな自分に都合の良い方向を見て、復興だけを話題にする。その中で私達は人の事は忘れて自分に身近な因果だけを問題にするようになる。忘れてはならないとよく言われますが、たぶんそれは無理です。しかしそれでいいのか、ともう一度考える。そして本当に自分の業を引き受けきれるのか、と問いを起さざるをえない。引き受けきれないから、罰として考えて天やら神やらに原因を求めるのも納得いかない。罰でも業でもカバーしきれない問題に直面している。
業は自分が引き受けるものだと言いました。その自分は一人では生きていません。一人一人は他人と交換できないそれぞれの業を持っているのですが、その人達が一緒にいるということはそれぞれが縁で結ばれているということです。そういうことで世間としての業、社会としての業、国としての業といったものが出てきます。先ほどのメルケル首相が自分達はナチスのやった事を徹底的に反省したと話したことは、社会としての業というものをキリスト教的に問題にされたのではないかと思います。そのように私達の業を考えることができるようになれば、石原氏の発言もそんなに腹の立つものではなくなるのかもしれません。そうなれば少しは善い方向に向うのではと思うのですがいかがでしょうか。
結論を出さない話をしました。皆さんに問題を投げかける形で終りにします。
2015/03/21