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2020年9月22日 秋彼岸会法話「私が瞑想をはじめたわけ」(原稿)
皆さんご存じの通り、今年の六月末から瞑想会をはじめて三ヶ月になります。みなさんの中には住職は何で
こんなことを始めたのかという疑問を持たれた方もいらっしゃるでしょう。
また真宗はそもそもこのような行はしないのではないのか、瞑想などは自力ではないのか、
という疑問を持たれた方もいらっしゃるかもしれません。今日はそのあたりのいきさつを説明します。
まず、真宗の教えを改めて考えてみましょう。
親鸞は九歳で天台宗で出家得度して以来、比叡山延暦寺で悟り(覚り)を求める修行を続けてきたと思われます。
しかし二九歳の時に延暦寺の修行に限界を感じて比叡山を下ります。そして京都の町中にある六角堂に百日を期して
参籠したといわれます。
おそらく自分が延暦寺で二十年間修行したにもかかわらず悟りを得られなかったことについて、
その修行内容の何が間違いだったのか、また正しい道を得て悟りを得るためにはどうすればよいのか、
そういったことを誰にも邪魔されず集中して考えるために、参籠したのだと思います。その考える内容は、
二十年間学んだ仏教の知識の反省点検や、これから誰について学ぶべきか、師匠となるべき人の吟味などがあった
ことでしょう。そうやって一日一日、集中して考えながら問題を切り分け絞り込んでいくうちに、
自分がついて学ぶべき人物は法然だということがはっきりしてきたのでしょう。この結論が出たので親鸞は参籠を終え、
法然の門下となります。
おそらく、それまで集中して問題を追求していたおかげで、親鸞は法然の教えに敏感に反応し、ほどなくして
悟りを得たと思われます。私の考えでは親鸞は六角堂での参籠を終えた時点で、悟りに至る道程の九割方を既に
終えていたと思います。法然に会って教えを受けることは、最後の一押しのきっかけを得ることでした。
だから法然に会って間をおかずに悟ったのです。親鸞は悟りを得たことを「雑行を棄てて本願に帰す」と表しています。
さて、親鸞が得た悟り、「本願に帰す」についてです。本願とは阿弥陀仏の本願です。阿弥陀仏とは仏=つまり覚者で
覚った人です。大乗仏教では悟りを求める人は菩薩と言われます。菩薩は悟りを得ようという願いを必ず起こします。
その願いが強くなり、必ず成し遂げようという意志にまでなったとき、それは誓いとなります。誓いとなった願を
誓願というのです。これは必ず果たし遂げられなければなりません。
阿弥陀仏も仏となる前は法蔵という名の菩薩でした。法蔵が立てた誓願の要点は「自分が悟りを得て仏となるとき、
すべての衆生も必ず悟りに至らせる」というものでした。法蔵はこの誓願を十劫の昔に立てて達成し、
阿弥陀という仏になった、そして阿弥陀仏は今現にいるというのです。
しかし、これはおかしな話です。すべての衆生を悟らせる誓願を達成したというのなら、なぜその衆生の一人である、
今ここにいる私は悟っておらず、苦しんでいるのでしょうか。これが六角堂に籠もっていた親鸞を悩ませた問題だった
と思います。そうして毎日この問題を突き詰めている中で、答えが自然にうっすらと浮かび上がってきたことでしょう。
それは、今自分に起きている悟りを求める心は、自分が物心ついて以来、常に心の底に起きていたものでした。
それは自分の心の働きではあるのだが、そもそも自分が起こそうと思って起こしたものではない。
気付いた時には起きていて、自分はその力によって、これまで道を求める生涯を経てきたのだという発見です。
だから、悟りを求める心というものは自分の心でありながら、ある面、自分の心の外にあるものであり、
法則ともいえるものなのです。そこに気付いたとき、法蔵の誓願とは実はこの心の奥底の法則としての働きを
表したものであったか、と気付きます。法蔵の誓願が法則である以上、それは必ず、いわば自動的に成し遂げられ
なければなりません。つまり自分は悟りを必ず得るということがわかるのです。言葉で説明的に言っていますが、
このように知るということは、一瞬のできごとで、それまでの人生で経験したことのない、大きな心のあり方の
大転換であったはずです。後に親鸞はこの法則を指して、自分が起こせるものではないという面を強調して「他力」
というようになります。
私の考えでは、親鸞は六角堂参籠中にほとんどこの結論に達していたのだろうと思います。しかしゴールに至るもう
一押しの確信が持てなかったのでしょう。その一押しができる者は、親鸞より先に同じ結論に達していて、
それを言葉で示してくれる人だけです。その人を求めて親鸞は法然に目星をつけ、その門を叩いたと思うのです。
さて、私も今から二十数年前にこの結論を得て、心の大転換を経験しました。このとき私は人間としての生を
受けた目的を達成したと思いました。それ以降、折にふれてこのよりどころに立ち返ることで、様々な問題を何とか
乗り切ってきたと思います。しかし、日が経つにつれ、確固として得たと思った心の大転換の立場は、ぼやけて
そこに戻ることが難しい状況になってきました。これはどうしたことだろう、何とかしなければという焦りは
出るのですが戻りきれません。同時に住職としての仕事や心配事は段々と増える一方で、それにまぎれて日々を
送るという生活を何年も続けてしまいました。
そんな中で、昨年十月頃に釜石の寶樹寺の野嶋さんの勧めで、スマナサーラというスリランカの僧侶の本を
読む機会がありました。スリランカの仏教は上座部(テーラワーダ)といって、お釈迦様の直説を現代に至るまで
守っていると主張しているものです。スリランカ、ミャンマー、タイなどの国々に広まった巨大な一派です。
スマナサーラ氏は一九九〇年代から日本を活動の拠点とされ、精力的に上座部仏教を弘めてこられた方です。
とはいえ私は昨年十月まで上座部仏教に興味を持ったこともなく、スマナサーラ氏の本を読んだこともありませんでした。
しかし、読んでみて驚きました。その本は曹洞宗の坊さんとの対談本だったのですが、スマナサーラ氏の言葉と
曹洞宗の坊さんの言葉の印象が全く違うのです。スマナサーラ氏の言葉が私の心に入ってくる強さと深さは圧倒的でした。
それ以来、私は野嶋さんとメールのやり取りをしながら、スマナサーラ氏の本を読む毎日を送るようになりました。
約二ヶ月でスマナサーラ氏の主要な著作を読み終えた私は、スマナサーラ氏が教える悟りに至る修行方法、
つまり瞑想を試してみることにしました。開始したのは一月初旬です。瞑想の内容は、立つ・歩く・座るという
身体動作を、ある程度決まった形と心のあり方を保って行うもので、とりたてて面倒でも苦痛を与えるものでも
ありません。しかし、これをある程度長い時間続けることは最初のうちは結構大変でもあります。
最初は座るだけで三十分程度が限界でした。しかし、無理せず毎日続けていると、修行時間も段々と長くなり、
悟りに向かう心の姿勢がよりはっきりしてくることを感じるようになりました。
悟りとは一度得たと思ったらそれで終わり、というようなものではないのです。得たと思ってもそこに慢心して
止まってはならず、さらにそれを踏み越えていく心のあり方を開いていかなければならないものなのです。
思えば、私が二十年前に悟ったと思った後、心が停滞しぼやけてしまった原因はこの点がはっきりしていなかった
ためでした。さらに悪いことには、私達の大谷派では、日々怠らずに悟りに向かうという修行方法を開発して
きませんでした。たまたま「念仏する」という行の中にこの悟りに向かう修行方法を見出した人もあり、
その人は周囲からも尊ばれたのですが、しかしきちんと人に伝えられるまでのシステムに練り上げられることは
なかったのです。それは真宗の用語である自力・他力という言葉の意味を上っ面だけてとらえ
「悟るために修行するなど、自力だ」と否定し排除してしまう歪んだ考えが根深く広まっていたことにも
問題の一端があります。そしてこのように決めつける考え方は自力でも他力でもなく、怠惰な傲慢に囚われたもの
でしかありません。
親鸞がこの修行方法を知っていればどんなに助けになったことだろうかと思います。あるいはまた思います。
親鸞は六角堂参籠の際、この方法をある程度開発し身に付けていたのではないだろうかと。そうでないと、
百日間の参籠を続けることができるとはなかなか考えられません。また親鸞の時代は日々生きることが現代より
はるかに困難な状況だったはずです。困難な日常を避けることができなかった故に、そこに無常を見、
さらにそれを越える心の姿勢が自ずとできあがり、それが毎日継続されたのではないだろうか。
つまり生活の中で瞑想する態勢ができていたのではないだろうか。そしてその生活の中で心が心を越えてゆく深まりが、
親鸞の言う「念仏する」ではなかっただろうかと思うのです。
ですから、私にとっては瞑想することと真宗の教えが、対立するものではなく、この現代においては、
ぜひ融合させるべきものとしてあるのです。これが私が瞑想をはじめた理由です。