真宗大谷派 西照寺

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大乗を心得る(その1) 空と浄土


2019年1月12日 東北別院市民講座(エルパーク仙台)、19日 同朋の会

[市民講座チラシの概要]
私がこれまで接した真宗門徒の中に、般若心経を毎日上げているという方が何人かおられました。
そのような方に般若心経の意味は分っているかと聞くと、大概「分らない、しかし惹かれている」という答えが返ってきます。この人はおそらく般若心経に表わされる空(くう)の思想に惹かれているのでしょう。そういう気持ちの人は結構多いと思います。空は大乗仏教の根幹を成す重要な思想です。一方、もう一つの重要な柱に浄土思想があり、阿弥陀仏の浄土はその代表です。私達の浄土真宗はこの浄土思想を中心に据えた宗派です。空の思想と浄土の思想は、本来切っても切れないものなのです。その空と浄土の関係を話します。

 この市民講座で喋るのは三回目です。この表題と概要を、担当の仲村さんに送ったのが昨年の11月中頃でした。その後、私にとって大変ダメージを受ける死に別れがあり、色々考えることがありました。今回はそれを織り交ぜながら話します。
 その出来事とは11月21日に盛岡の専立寺の住職の日野岳唯照さんが突然亡くなったという知らせでした。真宗の寺では親鸞の命日11月28日前後に親鸞の法事ということで報恩講という行事を行います。真宗の寺の年間行事で一番大事なもので、お祭りのようなものです。うちの寺の報恩講は去年は11月25日でした。
 専立寺さんの報恩講は命日そのものの11月28日でした。住職の日野岳さんは報恩講のために華を活ける作業をしていたそうです。松の枝を斬ってきてそれを芯になる古木に挿す作業をしていた。そしてちょっと座ってスマホをいじっていた。そうしたら突然バタンと倒れたそうです。そばに娘さんがいたのですが、冗談かと思ったそうです。日野岳さんはちょっと面白い人で、バカボンのパパのTシャツなんかを着る人だったので、娘さんはびっくりさせようとしてやったのかと思ったそうです。しかし、動かない、息もしていない、脈もない。持病はガンや心臓病があったのですが、普通に日常生活をしていました。救急車を呼んで病院に運ばれ、医者から心臓を動かすことを試みるが、もう30分止まっているので、動いたとしても脳は蘇らないと言われました。そして心臓は復活しましたが1日くらい持ったあと、鼓動が弱くなり亡くなりました、70歳でした。突然死といえます。

 私はこのような突然死に去年一年間で日野岳さんを含めて三回出遭っています。もう一人はうちの総代長さんで、83歳でしたが、7月中頃に奥さんと一緒に朝ご飯を食べて、ソファーで休んでいた。奥さんが席を外し、数分後に戻ってきたら亡くなっていた。更にもう一人は、親しい友人の奥さんが10月の中旬に風邪を引いて一週間ほど寝ていたのですが、旦那さんが仕事から帰ってきたら、亡くなっていた。64歳くらいでした。

 そして私が一番ダメージを受けたのが日野岳さんの死でした。約二十年来、坊主仲間10人少々で勉強会を組織していましたが、日野岳さんはこの会の代表をしていました。会では毎年二回合宿して、この10年以上は東大の教授も勤めた仏教学者に講師として来て頂いていました。去年も9月に合宿をして、日野岳さんも参加して楽しく過しました。その後三ヶ月で亡くなった。

 我々坊主は人が亡くなったときに儀式をする仕事をしています。だから人の死を差別、区別する気持ちは無いのですが、葬儀屋さんから電話が掛かってきて葬式を引き受けることと、まさか死ぬとは思っていない近しい人が死ぬことは全く違う。日野岳さんに「死ぬんだったら、予告してくれよ」と言いたい気持ちがありました。病気が悪くなって立てなくなったとかいうことがあれば、こちらも覚悟ができます。私の父母はそういう死に方でした。ところが、生きているはずの仲間が死んだという知らせは、体調がおかしくなるほどの凄いダメージを受けます。この一週間ほど前に、偉そうに空と浄土をお話ししますという案内文を書いたわけです。それは自分が掴んだと思う仏教の核心を話そうという考えでしたが、日野岳さんの死はそういう立場に打撃を加えました。そうして話す内容について昨日まで悩んでいましたが、私の個人的なダメージも含めて空と浄土を話します。それが皆さんの足しになるのではと期待しますが、どうなりますか。いずれ教科書的でも、テレビの教養番組に出てくるような話でもありません。

 「生老病死」、熟語ですがご存知ですね。お釈迦様がこの世の無常を確認して王子の位を捨てて出家する要因になったものです。この熟語の「死」をどうとらえるかが、私にとっては日野岳さんが亡くなったおかげでたいへんな問題になっている。我々坊さんはお説教の場に立つと、生老病死は人間に定められたありさまなのだから認めなければいけないと、偉そうに言います。ところがそう言っている本人が、親しい人の死に接すると、自分には言い聞かせられません。

 そこで、死というものをどうとらえるべきか。ちょっと脱線します。うちの寺では仙台在住の落語家に来てもらって落語会というものを年に一回行っています。なぜそういう会をするようになったかというと、私はもともと落語には全く興味がなかった。下らない話をしているくらいにしか見ていなかったし、テレビの笑点を見て落語ってこんなもんか程度の知識でした。ところが、うちの寺の月例の仏教勉強会で、その題材に立川談志の話題を出した。なぜかというとたまたまYouTubeで戦争体験の動画を探していたら立川談志に行き当たった。それを見たら引き込まれました。立川談志は毒舌家で人気もあるが嫌う人も多い。私もいい印象は持っていなかった。  しかし本人が語る戦争体験は凄いものでした。談志が小学生の時、東京大空襲がありました。お母さんと弟と三人で火の海の中を逃げ回った。そして畑の畔のくぼみに親子で身をひそめて火を避けた。そして火の勢いが弱まった時に立って周りを見たら、人が立ったまま燃えている。或いは首の無い死体を見た。そういう凄まじい体験をしている。それを包み隠さずに語るのです。それで談志の人間性にやられてしまい、談志の出てくる動画を片っ端から見ました。そうして談志の落語の魅力にとりつかれました。その後うちの門徒さんで仙台の落語家を知っている人がいて、紹介してもらって落語会を開くようになりました。
 数日前に談志の落語を見ていたらマクラの話で面白いことを言っていました。「死ぬっていうのはどういうことなんだろうね、身体がなくなってそれで終りなんだろうか」こんな言葉をポロッと言ったのです。皆さんどうでしょうか、どう思われますか。
日野岳唯照が死にました。私はそれでダメージを受けました。しかしその自分はまだ死んではいません。立川談志は小さいとき他人の凄まじい死を見た。しかしその何十年後かに死ぬということがわからないと喋っている。皆さんの中にはご家族を亡くした、つれあいを亡くしたといった方がおられると思います。自分は死ぬということもある。さあ、それをどう解決しましょうか。その解決が本当に解決になるのだろうか、ということも含めて、今回私が話したいことです。

 談志の「死ぬっていうのはどういうことなんだろうね、身体がなくなって終りかね」という言葉は含蓄がありますね。絶対に分らないことなのだから。「死んだら浄土に行くの?地獄に行くの?和尚さんどうなんですか」「経典に書いてあるから、そうなんじゃないですか」ぐらいが精一杯のところです。なんぼ偉い坊さんでも経験できないのだから。臨死体験といって死んだと思ったら生き返ったということが、あるかもしれませんが、それでも生き返ってしまっているということは、死んだことにはならないのです。臨死体験で向こうの世界を見てきたと言っているけれども、喋っている人間は生きている人ですから、死んでしまったことは絶対に分らない。その分らないことを何とか分るようにしようという無理な話なのですが、そこに取り組まなければならない。

 そこで大乗です。大乗とは偉そうな言い方ですが、大乗仏教。日本で仏教というと宗派になってしまう。曹洞宗とか浄土真宗とか。宗派で仏教を語ると「おらほはあっちの宗派とは違うんだ」みたいな言い方になってしまう。そうなると単なる井の中の蛙です。曹洞宗の人が死ぬのと真宗の人が死ぬのは違うのかと言いたくなってしまう。違うわけがない。真宗を信じている人が死んだら浄土に往生して、曹洞宗は浄土を否定はしませんが、中心に立てないので、曹洞宗の人が死んだらどうなるのか、真宗だけが助かるのか。みたいな議論になりかねない。ところがそうだとすると、日本の仏教は一応ほとんどが大乗仏教です。曹洞宗も浄土真宗も大乗仏教です。大乗とは全ての人を分け隔てなく救う――その救うの意味が色々あるのですが――ことです。曹洞宗的な言い方をすれば悟りを得るということになりますが。ということは、真宗だけが救われて曹洞宗は救われないといった言い方をしてしまうと、分け隔てをしていることになるので、真宗は大乗ではなくなります。
大乗は全てを救うから大乗です。これに対して小乗というものがある。小乗は出家をして厳しい修行をした者だけが救われるという考えです。しかし、よく考えるとそんな仏教なんてあるわけがない。仏教はそもそも大乗しかない。現代でいうと、東南アジアに広まっている仏教が、小乗と言われた系列になるのだけれども、その活動は大乗的です。だから仏教は基本的に大乗しかないと思って頂ければよろしい。大乗の全ての人をもれなく救うということは、できるかどうか分らないけれども、それなりの内容の教えになっている。全ての人ということは私もそうだし皆さん一人一人がそうなのです。宗派に関係なくです。すると結論は皆さん一人一人が悟りを得る、あるいは救われないかぎり大乗は嘘になります。そういう大乗を心得ている方はいらっしゃるかもしれません。もしそうではなく分らないと思っている方はそのきっかけをぜひ掴んで頂きたい。

 「死ぬっていうのはどういうことなんだろうね、身体がなくなって終りかね」ということを皆さん考えたことがおありだと思います。考えない人はいないと思う。そのときどんな気持ちでしたか。私の場合は底無しの真っ暗な淵の崖に立ってのぞき込む気分です。いくら恐ろしくても、例えば1000メートル下に底があると言われたら分るが、それが分らない。1000メートル下と知って怖くて足がすくむのならまだいいのです。その怖さすらも感じられない断絶です。それをどうとらえれば、理解すればいいのだろうか。結論からいうと、分らないなりにとらえるということができるか、できないかです。できたらいいですね。私はたぶんできると思います。そしてできたつもりでいたのですが、日野岳さんの死でゆらぎました。更にそれを省みてここに来ているわけです。

<10分休憩>

お渡しした資料ですが、ご存知ない方もいらっしゃると思うので説明します。これは本願寺八代目住職の蓮如が書かれた手紙文で御文(おふみ)といいす。何十通もあるのですが、五冊にまとめられています。その五冊目の十六通の後半を取り出しました。この文章は皆さん聞かれていると思います。通称「白骨の御文」といいます。

六親眷属あつまりてなげきかなしめども、更にその甲斐あるべからず。さてしもあるべき事ならねばとて、野外におくりて夜半のけぶりとなしはてぬれば、ただ白骨のみぞのこれり。あわれというも中々おろかなり。 されば、人間のはかなき事は、老少不定のさかいなれば、たれの人もはやく後生の一大事を心にかけて、阿弥陀仏をふかくたのみまいらせて、念仏もうすべきものなり。

「六親眷属あつまりてなげきかなしめども」 これが日野岳さんを亡くして私が落ち込んだ心境です。嘆き悲しむとはそういうことですね。しかし、嘆きだけなのです。答えがない。日野岳さんが死んだということに関して納得できる答えがない。
「更にその甲斐あるべからず」 嘆いて落ち込んでその日は早く寝た。しかし寝たらすっきりしたかというと、その甲斐なしです。
「さてしもあるべき事ならねばとて」 これは解釈が難しいですが「こういうことが起こってしまったのだから、葬式を進めなければならないな」ということでしょう。
「野外におくりて夜半のけぶりとなしはてぬれば」 昔は火葬は外で薪を積んで遺体を載せて行いました。そして夜半には煙となった。
「ただ白骨のみぞのこれり」 焼かれてしまえば残るのは白骨のみです。
「あわれというも中々おろかなり」 これも含蓄があります。死を悲しむのだが、解決できない「死ぬってどういうことなのだろう」という問題が残ったままでです。私はこれを「宙吊りの難問」と言ってみます。なんとなく表わしていませんか。問題のありかすら分らない不安が頭の上に乗っかる。それは下ろすこともできない、上げることもできない、宙吊りなのです。不安定な状態のまま私の重荷になる。それを抱えてとにかく葬式は済ませなければならないと、事は進みます。その残された人間の様子を蓮如は「あわれ」と言ったのでしょう。難問をかかえておろおろせざるをえないから「おろか」なのです。
この宙吊りの難問を感じることはとても大切だと思います。先回りして言うとそこから仏の教えに入っていくことができるのですから。しかし多くの場合、亡くなった人がきっかけで宙吊りの難問に気付くのですが、日を追うに従って難問の重さが薄れていきます。それは悲しみが癒えることと同時進行です。そして難問を解決できないまま、薄れていって日常生活に戻ってしまいます。私の場合も日野岳さんが死んだ直後は「何で死んだのだ」と文句を言いたいくらい落ち込んだのですが、今はあの時感じた重さはありません。それを蓮如上人は「おろか」と言ったのでしょうね。

「されば、人間のはかなき事は、老少不定のさかいなれば」 ここから文章の調子ががらりと変わります。直前までは他者の死に行き遇った者の嘆きと愚かさを書いているのですが、ここからはそういう人間のありさまを見切っている。死が老人も子供にも無差別に訪れるということはこの世のあり方だと見切っている。直前までは難問を抱えて暗い淵をのぞきこんで迷っている者でした。しかし、この文章からはもう迷っている者ではない。その迷っている自分を俯瞰する自分になっている。ある種、突き放した言い方に変わっています。「さかい」とはここでは世界ということです。暗い淵を見下ろしていた者が、その淵を跳び越した者に変わっている。また先回りして言うと、今回と次回でその飛ぶきっかけを掴んで頂けたらと思っています。

 本文に戻りますと、ちょっと問題がありまして、直前までの文章とこの文章ではすーっと流れるように書いてあり、立場が変わったという点に気付かないでしまうのですね。直前の文章とこの文章との間には跳び越えがある。そして蓮如上人も跳んだくせに、跳び方を書いていないのですね。どうやって跳べばそうなれるのかということが書いていない。ここが問題で、うちの宗派に関して言えば、きちんと説明できていない弱さがある。走り幅跳びの跳び方も教えないで、跳んでみろというようなものです。それを補って進めたいと思います。

「たれの人もはやく後生の一大事を心にかけて、阿弥陀仏をふかくたのみまいらせて、念仏もうすべきものなり」 素晴らしい結論になっています。跳んだから念仏できるのです。淵を跳ばないで念仏しなさいと言われてする念仏はちょっと違うと思います。
「後生」とは何だと思いますか。だいたい「あの世」と取っておられるのではないでしょうか。さらにあの世とは「善いあの世」でしょう。善いあの世として浄土というものがあると思っているでしょう。そう考えると分かりやすい文章になるのですが、しかしそうすると宙吊りの難問と断絶が分らなくなってしまう。
 後生があの世だという考え方だと、今の生を終えて、つまり死んで生まれ変わる場所になります。それは一つの答えではあります。浄土に行けば阿弥陀さんが宙吊りの難問を引き受けてくれて解決すると思える。ところがこれは証明できない。そういうふうに信じるしかない。浄土真宗では信心を大切にしますが、こういう思い込みを信心と間違ってとらえている人も多いと思う。この信じ方はそうであったらいいなあ、という信じ方です。そして他の人もだいたいそう思っているから、この信じ方でいいのだと思ってしまう。「一大事」は、あの世に生まれることが一番大事だということになる。

しかし私はこの文をそんなふうには考えません。死んでからのあの世ではなくて、今の自分の答えにならなければいけない。私の解釈はこうです。
 後生を私は「生の後」と読みます。あの世への生まれ変わりは私にとっては問題ではありません。生は生老病死の生です。仏教は生と死はセットと考える。だから生は生死です。「生の後」は「生死の後」となる。何を言いたいかというと、生者である私、この前亡くなった死者である日野岳さん、この二つを包み込む何かがなければならない。死んだ日野岳さんと生きている私が一つの関わりのあるものとして受け取れないかぎり、私は自分の生に納得できない。その生ばかりでなく死をもまとめるものが「何か」です。そして「生死を見切った後」に南無阿弥陀仏と称えることができる。だから生死を見切るそのときが「一大事」です。
「一大事」は「大事」だけでもいいじゃないですか。しかしさらに「一」を付けている。これはたくさん大事なことがあるうちの一つという意味ではなく、これしかないという唯一の意味と考えます。これしかないという事に気付くことが、この世に生を受けた者の意義のある生き方の核心です。この一大事を見つけることがあなたの役目なのだと言っていると思う。その唯一の事が見つけられると「阿弥陀仏をふかくたのみまいらせて、念仏もうす」ことができるようになる。

 先ほど、宗派など関係なく大乗だと言いました。そして今まで挙げてきた問題は生きて心を持つ者がもれなくぶち当たる問題です。南無阿弥陀仏を称えることができるようになったとき、宙吊りの問題はどうなるかというと、答えは出ないのです。答えが出ないままにそれを受け容れる心境になると思います。
御文の説明をしました。これは浄土真宗に特有の言い回しですが、私は大乗仏教の核心を指している文章と考えます。

 ようやく空の説明に入ります。空を表わしたお経として般若心経があります。宗派がたくさんありますが、般若心経を称えない宗派は我々浄土真宗と日蓮系の宗派です。(後で日蓮系の中でも「日蓮宗」は称えるというご指摘を受けました。)あとの宗派は何等かの形で称えます。だから般若心経は圧倒的にメジャーですね。般若心経は空の思想を述べたもので、空は大乗仏教の中心です。だから空が分れば、大乗仏教が分る、自分の生死の問題を解決できるということになります。
 般若心経が作られた時代は大乗仏教が興った最初の頃と言われています。同時期にもう一つ浄土という思想が表われてきます。だから大乗の最初期に空と浄土が対になって現れたといえます。

般若心経の中に「色即是空 空即是色」という有名な言葉があります。私は般若心経の要点はこの言葉だと思っています。書き下すと 「色(しき)はすなわちこれ空(くう)である 空はすなわちこれ色である」となります。
 色とは何かというと「色(いろ)形(かたち)あるもの」です。色という漢字のもともとの意味はこれとはちがうのですが、仏教では色という文字でいろかたちあるものを表わすようにしたのです。いろかたちあるものとは、この机であり、皆さんであり、この建物であり、世界です。雲がありその先に太陽があり星がある。
 今、このペンを持っていますがこれは確実な物ですね。これを私が投げつければ当ったら痛いでしょう。つまり色である自分という人間にとって色であるペンは確実に影響を及ぼす。そのペンをさっき私は手に持っていました。それを今この机に置きます。さっきのペンと今ここに置いたペンは同じでしょうか。面倒くさいことを言うと思われるでしょうががまんしてください。仏教の言葉に諸行無常があります。行というと行い――ご飯を食べるとか、マラソンをするとか――ととられがちですが、ここでの行には色も含むのです。諸行無常は「あらゆる行は常ではない」と読みます。
 だからさっきの質問、手に持っていたときのペンと机においたときのペンは同じかは、普通に考えたら同じものです、しかし仏教の考え方では違う物なのです。なぞなぞみたいで申し訳ない。実際、さっき手に持っていたときと今机にあるときとでは場所が違っているでしょう。さらにキャップを取って一時間も放置すると乾いて書けなくなってペンの用をなさなくなる。そういうように同じと思っていても違ってくるのだというのが無常という考え方です。 
 そうすると世界の全てが色だから、それらは全て無常なのです。だから毎日の生活で時間が経つということは物が変わっていくということです。
 ところが我々はさっきの生死に関して言えば、友人はいつまでも生きているものと思っていたのです。しかし日野岳さんは突然無常を現わしてくれました。いつも一緒にいる、少なくともあと何年かは、と思っていたのに、無常はその思いを裏切ってくれます。その無常を分ることが空という考え方です。
 自分は自分だ、自分は変わらないと思っていますが、今日の自分は昨日の自分より一日齢を取っている。一日分死に近づいている。そして終点の真っ暗な淵の不安を抱えている。それを分らなければいけないというのが空という考え方です。これを分かった時或る種の見晴らしの良さが感じられます。悟ると言ってもいいと思います。うちの宗派はあまり悟るという言葉を使わず、信心という言葉を使うのですが、悟りと信心は同じと私は考えています。ここまでが色即是空です。
 次に、空即是色です。空という考え方が分った、悟ったと思うのですが、しかし自分を振り返ると一日一日齢を取る。毎日の生活は相変わらずで他に理想の世界があるわけでもない。そうして色(しき)の世界に纏われて紛れていく。だから空を知ったとしてもそれは色なのだ、というのが空即是色です。ちょっとひねくれた解釈をしていますが。’

 般若心経はとてもよいお経だと言いましたが、色が空と分った後のことをほとんど説明していません。そしてそのように分るまでの道筋も説明しません。観音菩薩がその心境にあるという一面を切り取って美しい言葉で表わしています。そこにどうたどりつくかが大乗仏教の要点になります。そしてさらに次の段階があります。空を分ったとして、次にまだ分っていなくて迷っている人をどうすればよいか。そこに浄土が出てくる理由があります。浄土と空は一見別のものにも考えられますが実は繋がっている。それは来月話をしようと思います。

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