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2010年3月21日 春彼岸会法話
今回は昨年秋の彼岸会でのお約束通り、アンケートの結果を発表します。
今、皆さんのお手元に渡っておりますが、回答は六名からありました。そのすべての回答を載せておりますが、最初から匿名の方を除き、
すべての方に確認して発表の許可を得ています。
はじめての試みでいったいどんな結果になるかと不安なところもあったのですが、結果はかなりの収穫になりました。
「菩薩はいるのでしょうか、いないのでしょうか。いるとすればどこに、どのようにいるのでしょう。いないとすれば、なぜいないの
でしょう。」
という問題を出しましたが、六名の方々の回答は表し方は違いますが、「いる」あるいは「わからない」というお答えでした。実は
「いない」という回答も期待していたのですがそれはありませんでした。
この質問は私が出したわけですが、実は学校のテストのように正しい答えが用意してあって、それに対して皆さんの答えを求めたわけ
ではありません。ですからこの質問を私自身にぶつけてみるとなんとも歯切れの悪い回答が出てくることになります。しかし、ここでは
出題者の仁義として先ず私の回答を申し上げておきましょう。
「菩薩はいる。しかし、常にいると思ってしまうといなくなる。
では菩薩はどこにいるのか。菩薩は心の中にいる。しかし、その菩薩を見つけ出そうとして心の中をいくら探し回っても決して見つけられ
ない。」
解ったような解らないような回答です。
しかし、皆さんを煙に巻こうとしているのではありません。私の正直な気持ちです。そして、アンケートで頂いた回答はそれぞれ私の
回答につながる部分がありますので、順に見て行きながら一緒に考えていきましょう。
一番目。
菩薩は、個々の人間(及び生きるもの全て)の内にあるものと思います。
自分自身の自覚と自分以外の者との 平和共存の知恵と実践を考えて行く事こそが菩薩(への道)と思います。
結論として、菩薩は「いる」。個々の心の内に「ある」。 ・・・ です。
具体的なことは書かれていませんが、ご自分の経験の中で、喜ばしいことや支えになる力を感じられた時、それが自分一人のもの
ではなく、すべての人に開かれていると感じられた経験を顧みて「菩薩はいる」と言っておられると思います。
二番目。
村本さんの大作です。全文はあとでじっくりとお読みください。
我が家には九十八歳を間もなく迎える私の母(入院中)が同居している。その母が守っている小さな仏壇には瀬戸物製の観音様と 鋳物の日蓮上人の像が、私が物心ついた時から入っている。
私の両親は私が産れた頃は満州国大連市に住んでいた。父は終戦間際に四十五歳で召集され、国境を越えて攻め込んできたソ連軍の 捕虜となってしまい、シベリアのアルタイ州で病死した。それからの母は、姑(私の父方の祖母)と二人の女の子をかかえて戦後の 苦労が始まる。
さて、話は戦前に戻って、一家が平和に暮らしていた時代に、父母は長野県伊那市から父の母親を、面倒を見るために大連に 呼び寄せた。その時、祖母は瀬戸物の観音様と鋳物の日蓮様を持ってきたという。
父の一番上の姉(年齢は相当離れていた)は、現在の伊那市にある深妙寺(開山七百年)という日蓮宗のお寺に嫁いでいたため、 父方の宗派は日蓮宗となっていた。そしてまた、母が産れたのは千葉県の房総半島、日蓮上人の誕生された安房の国ということで、 日蓮様は大切な方らしい。
母は、昭和二十年敗戦の後、自宅がソ連軍に接収されたので、ロシア街にあった母の妹夫婦の満鉄の社宅に居候させてもらっていた。 その時期に祖母は高齢で亡くなったという。
その後、満鉄の妹夫婦の方が先に引き揚げになったので、母は私達姉妹を連れて知人の経営していた「日本橋ホテル」の一室を借り、 引き揚げまで過すことになる。引き揚げ船に乗る際は、五歳の姉の手を引いて一歳半の私を負ぶいリュックサック一個だけの姿だったと いう。
以前までの私は、観音様と日蓮様の二体の像は、単に祖母の形見なのだとだけ思い、手を合わせていたのだが、今はとても不思議に 感じるのである。
ここに書かれている通りに三代に渉って菩薩像を受け継いできた、その時の流れの中に、たしかに菩薩はいる、と感じさせられる文章
です。しかし、それはこの二体の像に何か霊力・神秘的な力があるというようなものでは無いと思います。そういうものではなく、
これらの像を大切に守るというお祖母さん、お母さんの決意のどこかに、これらの像の本体があると思います。そして、そのときこれらの
像は菩薩であると言ってもいいものと思います。
三番目。
菩薩は、仏教が広まるにつれて仏像として視覚化したものと認識していたが、菩薩の定義を調べると
・菩薩は仏陀の次の位で、仏を補佐し、修行してやがて仏になる人。
・悟りを開いて衆生を救おうとする修行者。
・仏に近い学徳を身につけている人
であることを知った。
仏教による悟りを目指し、四苦の中で生きる衆生を救おうとして、手を差し伸べる「行」を行う人、即ち仏教者が菩薩と 云うことになる。が、それならば日本に伝来した六世紀以降、釈迦の教えをうけついで来た長い歴史の中で菩薩と云われる人が、 いつの時代、どこに存在したのだろうかと云う疑問がわいてくる。
仏教が伝来した後に仏像が作られ、時を経るにつれて朝廷、貴族の庇護を受けた時代もあり、素材、型、色彩も異なり、 それぞれに慈悲であったり、智慧の菩薩であったり、全国各地に多種、多様な菩薩が作られて来た。
仏教は「心のあり方」が教えの中心であるので、時代を経るにつれ、新たな教義や宗派も生まれ、それぞれに釈迦の教えとして 発展してきた。
ある人が「中宮寺の仏像の微笑に慈悲を見た」と書いている一文を読んだが、そのような境地に達することは、誰にでもかなうもの ではないと思う。
心を落ちつけて、仏像と対し、仏に救いを求めて祈ることもなく、さりとて苦を抱えることの多い日々の生活の中で、 仏道にある人との距離も、関係も、希薄になっているのが大多数だと思う。
仏像を日本の文化的遺産、美術品として鑑賞する傾向が強いように思えてなりません。
仏に対する信仰心がないところに菩薩は居ないように思えるのです。
「仏像として視覚化」と書いておられますが、これはアンケート二番目での二体の像にもあてはまるでしょう。しかし、像というものを
ここで言われているように「美術品として鑑賞する」ところには、菩薩はいないでしょう。しかしまた、像を作る人の真剣さをあなどって
もいけないと思います。
像は所詮「もの」で、それには何の意味もないなどと決めつけてしまうとき─そしてそれは私達現代人はよくやります─そのように
言った心の中に傲慢さと鈍感さという砂漠が広がることになります。
四番目。
菩薩様はおります。
天上界と地上界の間におり、時々空から降りてきて知人・友人の中に降臨し、話を聞いてくれたり、何かに気付くというきっかけを 作ってくれる。
自分の中にも時々降りて来て下さるが、それを気付くかどうかは、自分の心次第なのだと思う。
これは詩的な表現ですね。自分の心にありながら、それを掴もうとすると、自分の心の外にある、という菩薩の動きをうまく表現して
いるように思います。
五番目。
私自身、今ここに生かされている事は、まさに連続した綱渡りのような、奇跡にも近いお陰があるということです。そして、今ここに 居るという事に何の疑問も持たず、日々たんたんと当然の如く過しているのです。
しかし、形としては目に見えないものの、それらを常に見守って下さる何らかの力が存在しており、それが「菩薩様」では ないかと思うのです。そして、過去・現在・未来さらに運命に至るまで、全てお見通し可能なところにおられるのではないかとも 思うのです。
ごく身近かなところとしては、いつも一緒に自分自身の心の中におられ、日常の生活の中において、心穏やかに手を合わせる ことにより、何か広い御心に受け止めていただけるような気がし、安らぎ、心のよりどころとなっているのです。又、どんなに 美辞麗句を連ね取り繕っても、自分の心だけはごまかせないし、嘘はつけない。たとえそのような行為をやむなく行ったとしても、 空しさとか、後悔の念にさいなまれるのです。
吉田さんは、菩薩はいる、と知りながらも、それを自分の心の中に探し求めたときの、空しさや徒労感をよく表しておられると思います。
菩薩はいるという経験をして、しかしそこに執着して常に自分の心の中にいるはずだ、と追い求める時、そこからは何も得られないで
しょう。
六番目。
母親を亡くしたという事をきっかけにして、仏教に触れ多少なりとも勉強を始めた私のそばには、菩薩の行があるのではないでしょうか。
ただ、日本の身代わり地蔵の信仰にみられるような、病をなおす、というような現世利益的な面を考えたり、観音札所巡りにみられる 巡礼を思えば、又、わからなくなります。
考えるだけ分からなくなるように思いますので、私の気持ちは初めに掲げたものとしたいと思います。というよりもそういう気持ちを 持つ者に、菩薩はいるのかな、と思います。
「勉強を始めた私のそばには、菩薩の行がある」。良いとらえ方だと思います。自分の中にありながら外にある、という面を表していると
思います。
またここで言われている現世利益は、自分の思ったところにいるはずだ、という執着なのでしょうね、そこに求めれば求めるほど、
菩薩は影も形も無くなります。
私もこうやって、批評しながら勉強させてもらっています。