真宗大谷派 西照寺

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2017年9月23日 秋彼岸会法話「向こうから在る――阿弥陀経」


 こうして彼岸会法要を行うようになって十年近くなります。その内容を振り返ってみると、喋る私の性格もありますがあまり面白くない。さらに間に震災をはさんでしまったので、震災以降はそれに関連する話題が多かったので明るい話がない。そのことに自分も段々と嫌になってきまして、わざわざ来て頂く皆さんに申し訳ない。深刻な話は内容は重要なのですが、心楽しくなるような話ができないものかと最近思っていました。しかし私はそういう話が苦手な人間、あるいはそういうことをなかなか喋らない人間のようだな、と反省しました。

 今日はできれば、軽い話で少しはためになることも入れられればと考えています。ご存知の方もいらっしゃる通り、私は声楽を習っていると吹聴しています。ときどき「聞かせてくれ」と言われるのですが、とても恥ずかしくて聞かせられたものじゃないと思っていたのですが、「よし、今日は歌を聴いてもらおう」と思いました。なぜ歌うかというと今日の話題に少しは関連すると思ったからです。音楽とか美しい色形とかで表わされるものでお経に関係することを喋ろうと思ったのです。難しいことを楽しいような流れで喋れないかな、と考え、その弾み付けでカラオケをやらせて頂きます。

〈ヘンデル「ラルゴ(オンブラ・マイ・フ)」を歌う〉

 どうもありがとうございました。ヒヤヒヤものですね。今日、一所懸命練習したのですが。毎週土曜に先生に来て頂いて習っているのですが、人に聞いてもらったのは初めてです。(一同笑)
先生の前ではもっと大胆に歌うのですが、今日は心臓ドキドキでした。こんな下手な芸で申し訳ないです。寺で落語会をするようになって落語家さん達と付き合いができました。毎月一回寄席があるのですが、その後の飲み会にも出席します。すると「住職も何か歌え」と言われたりする。すると複雑な気持ちになります。人前で芸をするのは――坊主が喋るのも芸のうちですが、畑がちがうことは難しいなと思います。
 この歌が今日の話に何の関係があるのかというと、歌詞はイタリア語(?)なので私は意味は分りませんが、訳を見ると木陰に休らう心境のすばらしさを歌っている。ヘンデルは教会音楽を作っていますが、この歌にキリスト教的な意味はありません。そしてこういうことをお経でも言わんとしているのだな、ということがあったので話の導入として歌ってみました。

 今日は阿弥陀経の話です。皆さんこのお経を聞いたらすぐ分ると思います。法事で読む本には浄土三部経といって大無量寿経、観無量寿経、阿弥陀経の三つが入っています。西照寺の法事で読むお経はほとんどが阿弥陀経です。なぜかというと長さがちょうどいいのです。阿弥陀経は三部経のなかで一番短い。他の二つ、大無量寿経と観無量寿経はとても長い。法事のお勤めは30分くらいの時間で形を作らなければならないので、それに合う長さのお経は阿弥陀経しかありません。
 これを私は何回読んでいますかね・・・一年で法事を50〜60件勤めます。私が住職になって十年を過ぎましたので500回は超えていますね。その前から前住職の父の手伝いの時期を含めると1000回は読んでいますね。読んでいて意味は当然分るのですが、三部経の中で一番難しいお経だなと思います。なぜかというと、面白くない。内容は浄土の相(すがた)を色々説明している。本堂の飾付けはその浄土の相に似せて作られています。浄土の相を引いてみると例えば「地面は黄金の砂で作られていて、昼夜六時――つまり一日を六つに分けてその時――に曼荼羅華という天の華が降る。その国の生き物は全て清らかで色々な花を持って他方の仏のいる土地に行ってその仏を供養する。また珍しい鳥がいて美しい声を出して鳴くがそれはそのままで説法になっている。」
 つまり綺麗な風景と音と清浄な生き物がいるという。いわば我々の世界と反対です。苦・罪・穢れなどが一切ない。逆に苦・罪・穢れがあるのが我々の世界です。震災でも大きな苦を受けざるをえなかった。そういう苦・罪・穢れがあると面白いのです。色々問題や争いが起きる。そうすると物語が起きる。テレビで昼過ぎ、刑事物とか流れていますが全部そういう物語で、まあ皆さんの暇つぶしになる。人の苦しみは見る方は楽しいですから。
 そういうことを話題にすると盛り上がるのですが、浄土の相は逆でそういうことが一切無い。そうするとあまりにも綺麗すぎて立派すぎて退屈なのです。私はなんでこんな退屈なお経を書いたのかな、と疑問でした。三部経の他の二つ、観無量寿経は親殺しがテーマで親を殺した息子とその母親がどのように浄土に目を開いていくか、という劇的な物語が書いてあります。また大無量寿経は浄土が作られた理由と娑婆世界の様子が事細かに書いてある。阿弥陀さんが出現した理屈を述べています。
 ところが阿弥陀経は浄土というのはこんなに綺麗なんだ、こんなにすごいのだ、ということしか言っていない。なぜそんなことをお釈迦様は説いたのだろうかという疑問がありました。そして最近ようやく分ってきたような気がします。前にもこの話題を出したことがあるのですが、その時より分り方が違うと思います。

 お経にはスタイルがありまして、お釈迦様が説法するという形で書いてあります。説法する相手があります。その相手は説法の場に集まった弟子達などの沢山の人々の中から代表が何人か出てくる。その代表に対してお釈迦様が話しかけるというパターンがあります。阿弥陀経の場合はその代表は舎利弗・シャーリプトラ(サーリプッタ)です。お釈迦様の弟子に十人の高弟がいたと言われています。それを十大弟子と言います。ひと月ばかり前に青森で旧友と飲む会があって一泊二日で行ってきました。二日目に高校の恩師と二人で棟方志功記念館に行きました。私は棟方志功は何がいいのかさっぱり分りませんでした。あんな上手くもない絵の何がいいのかなと思って興味がなかったのですが、帰りの時間までの暇つぶしのつもりで記念館に行きました。そして実物を見たら、私の考えがひっくり返されてしまいました。実物はとてもいいです。暖かいというか、なかなか言葉にしがたいのですが、作者の性格が偲ばれます。恩師の先生がいなければ記念館に行くことはなかったでしょう、偶然にも良い体験をさせてもらいました。その棟方志功の作品に有名な「十大弟子」というものがあります。これも写真などで見ると全然面白くないのですが、実物を見るとなかなかいいなと思います。
 その十大弟子の一番弟子が舎利弗です。十大弟子にはそれぞれにトレードマークが付いていますが、舎利弗は智慧第一です。舎利弗はお釈迦様より年上でした。お釈迦様の在世当時は色々な思想家、世界をどうとらえるかを考えるような人達が多数出ていた時代でした。舎利弗はその中のある種の哲学的なグループに属していて頭が良く、二百五十人位の弟子を抱えていたのです。その舎利弗がお釈迦様と会って議論して、自分の学問的な根拠を崩されてしまう。世間的にはおそらく舎利弗の方がお釈迦様より偉いと見られていたと思います。そういう人がお釈迦様の弟子になってしまった。そのとき自分の弟子二百五十人も一緒に引き連れてお釈迦様の弟子になった。そういう形でお釈迦様の教団は大きくなっていった。そうして当時の大国であるマガタ国の王様までお釈迦様の弟子になるような大きな教団になった。それが元になって現在まで連綿と続く仏教の歴史が始まります。そして舎利弗はお釈迦様より早く亡くなりました。その時のお釈迦様の悲しみようは大変なものだったという伝説があります。

 阿弥陀経ではお釈迦様は舎利弗に対して一方的に語り始めます。舎利弗よ、浄土とはこういうものだ。ここから西に行くこと十万億の仏土を過ぎたところにあると。一つの世界のことを仏土と言います。仏教の考え方では、一つの世界に一人の仏が出ます。だからこの娑婆世界・我々の世界ではお釈迦様という一人の仏が二千五百年前に出られた。もちろんこれは神話的な言い方ですが、そいういうことでお釈迦様はこの世界の教主とされる。そして仏教では違う世界があると言います。この世界の者は見ることも聞くこともできないのですが。現代の科学的な言い方だと、光の速さで宇宙を飛んで行けたとしたら、光が50億年かかって進む広がりが現在の宇宙の大きさだ(実は132億年)というものですが、それがこの世界です。地球だけがこの世界ではなくて、私達が観測するものもこの世界。だからどこかの星に惑星があってそこに衆生がいたとして、そちらは別の仏土かというと、そうではなくこの世界に含まれるお釈迦様の仏土だと思います。なぜなら同じ娑婆世界にあるから相手が見えるからです。私の考えですが。ところがさらに見えない、触れないところに別の世界があるという。それが一つや二つくらいならまだいいです。十万億もあるという。さらにその先に浄土があるという途方もない話です。そういう大風呂敷を広げられてもこちらは考えることができませんから、それもこのお経が退屈なことの理由の一つかなと思います。
 そういうことをお釈迦様が舎利弗に言われるのです。舎利弗は智慧第一なので、たぶん理屈屋です。理屈でものごとを組立てていく力はお釈迦様より勝れていたのではないかと私は思っています。ところが理屈もへったくれもないようなことをお釈迦様が言い出すのです。その浄土に阿弥陀という仏がいて我々に今、説法しているというのです。舎利弗にとっては聞えるのはお釈迦様の声だけです。「さあ、舎利弗よ、私の話をお前はどう思うか」とお釈迦様は言いながら、何遍も浄土の有様を話すのです。舎利弗はこんな話をいきなり聞かされて退屈だったでしょうね。早くやめてくれないかな、と思ったかもしれません。こういうお経が私共の宗派の一番大事なお経の一つになっている。

 私達が住んでいるこの場所は娑婆世界です。ここに私達は生まれて死んでいく。その私達の一番の問題は、生まれる前はどうだったのか、死んだらどうなるのかということですね。みなさんそれぞれが抱えていらっしゃると思います。生まれる前のことなど覚えていないし、死んだ後のことなど分らない。「お経では死んだら浄土に行くと言っているのでしょう」と聞かれる。それに対して私は「私も行ったことがないから分りません」と答える。すると「なんだ、坊主は嘘をついているのか」となる。しかし浄土は嘘ではないと最近は思います。
 私達は娑婆世界に生れて、親を知り回りの人々や場所を知りつつ大きくなって世界と関わりながら暮らしていって、世界とはこういうものだという考えを頭に作り出していく。その考えに常に生死の問題がへばりついています。我々はそれを理屈で何とか考えようとします。死ぬということは、科学的・物質的には動かなくなることだ、そうだとすると、それとは別に心があるのだろうか、死ぬと心だけが肉体から分離して浄土とかいうところに行くのだろうか。そんな立場でお経に答えを見出そうとすると、そういうことが書いてあるように見えて書いていない。

 心と身体は分けられないと言ってくる。二つに分けられるようなものとしてあるのではない。身体がなければ心はなく、心がなければ身体はないと言ってくる。そうして関わり合いながら身体と心はあるのだという、そしてそのどちらも頼りにはならないのだ、頼りにならないということを分ることが大切なのだということが、空(くう)という考え方です。
 そしてこの空という考え方を、非常に短く素晴らしい文章で表わしたものが般若心経というお経です。よく我々真宗の坊主は「なぜ般若心経を読まないのですか」と聞かれます。そう言われてもしょうがないですね、般若心経のスタイルではない形で仏教を語ることを、私達の宗派はしてきましたので。宗派としてそういう作法がないから読まないのだとしか答えられない。
 私は般若心経は大好きです。このお経は舎利弗のような頭のいい人が理屈を徹底的に詰めていった先の理屈を超えたところ、空というものにたどり着いたときの心境を見事に表わしています。さっき、心と身体と言いました。その二つを合せて色(しき)と言います。心と身体は互いに分離してはあり得ないということを知ることが空だと言いました。だから、空即是色です。あるいは色即是空です。般若心経はそういう言い方をしてくる。この娑婆世界を空という考え方でとらえる。何にも頼りにならないのだ、それが分ったことが頼りなのだ、それが覚りなのだと言ってくる。しかしこの考え方は難しいのです。確実なものを求めていくと、確実なものは絶対に無いということが分る、それが覚りだというのですが、いったいそれは何なんだ、と肩透かしを食らったような気分になる。私のような頭の良くない凡人はそういう思いを抱く。何か嬉しいようで悲しい。だから般若心経はとても素晴らしいと思うとともに難しいと思う。
 しかし、写経するという多くの人が書くのは般若心経ですし、毎朝お経を上げると言う人の多くは般若心経を上げている。青森に一緒に行った私の恩師もそうでした。それを聞いて立派だなと思いましたが、般若心経の意味は分らないと言っていました。意味が分って仏壇の前で上げている人はまあ、千人に一人ぐらいじゃないでしょうか。だからといって私はそういう人を軽蔑する気持ちは全くありません。般若心経は難しい、しかし世間にはかなり広まっている。

 さあ、そして般若心経のような形で世界をとらえようとすると、とらえどころがなくなってしまう。その空の立場にいて世界をきちんととらえられるのが舎利弗です。阿弥陀経ではその頭の良い舎利弗に対してお釈迦様が浄土を説き始める。舎利弗はびっくりしたでしょうね。お釈迦様は気でも狂ったのかと思ったのではないでしょうか。なぜこんな荒唐無稽なことを言い出すのかと。
 さらにその浄土という世界は想像を絶する素晴らしいところだという。そこの主の阿弥陀という仏が説法している。その説法は浄土だけに止まらず、我々の所に届いているという。そしてそれが世界というものなのだ、とお釈迦様は言われる。娑婆と浄土を合せて世界と言う。浄土を言う前は娑婆だけが世界だった。そして死んだら浄土に行けるという。またさらに浄土に生まれた者は娑婆に帰ってくることができるとも言う。私はお釈迦様に「あなたは行ったことがあるの」と聞きたい面がやはりあります(笑)。理屈で考える凡人にはそういう疑問が出ます。

 しかし、理屈で考える立場では解決は無いのだということをお釈迦様は示しておられるのだと思います。そして空という般若心経の理解が難しいのであれば、このような考え方をしなさい、と言ったのだと思います。だから浄土は有るか無いかで確認できるものではなくて、娑婆と浄土という関係の中に私達の世界があるというように考えなさい、そういう目的で阿弥陀経が説かれたのだと思います。私達は苦しみはなぜあるのだろうかと、理屈で積み上げて解決を求めようとする。そうすると言葉を操らなければならないし頭も良くなければならない。しかしそういう立場を離れて既に阿弥陀の説法がここに届いているのだ、と考える。十万億仏土先の浄土というものを、見ることも聞くことも触ることもできないが、認めなさい。あるいは、認めるという気持ちにお前がなったとき、娑婆世界と浄土をとらえることができるようなる。ということは、この娑婆世界に住んでいるということをはっきりと解るようになる。阿弥陀経はそう言ってきているのかなと思います。
 そんな、理屈ではないということは、美しい光景だったり、絵だったり、鳥の声や音楽などで分ることではないかと思ったので、最初にカラオケをやってみたのです。

 どんなものでしょうか。首を傾げている方もいらっしゃいますが。こんなとらえ方が大事だなと、やはり年を取ってきたからでしょうが思うようになっています。

 

2017/09/27

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