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秋彼岸会法話
今年の春から彼岸会法要を始めて、本日で二回目です。西照寺としては初めての試みなので都度考えながらやっています。
本日の法話もいつもとは趣向を変えて行います。
法話というと、私共のような坊主分ぼうずぶん─和尚おしょうさん、が偉そうに立派な話をして、
皆さんは聞くだけ、という形が一般的だと思います。これはどうしても偉そうになってしまうのですね。
こちらからは喋しゃべるだけで、皆さんはそれを聞く立場ですから。毎月の同朋の会だと、
けっこうざっくばらんに話が行き交かうのですが、それでもやはり、喋る立場つまり教える立場と、
聞く立場つまり教えられる立場が出来てしまいます。だからといって、この中の皆さん、人生経験の豊かな皆さんのお一人に、
この教卓の前に出て喋ってみなさい、と言われてもおそらく困ってしまうでしょう。喋るということは、
ある種の技術を必要としますので、皆さんそれぞれ豊富な経験を積まれているはずですので、喋ればいくらでも面白い、
ためになることをお持ちだと思います。しかし、だからといって喋るということは難しいことだと思います。
法話というもののそういう形に、私はずっと不満を感じていまして、何とか皆さんの方からのご意見や考えを引き出せないものか、
という思いがありました。本日の法話も最初は喋るだけの原稿を書き始めたのですが、なかなかペンが進まない。さて、
これはどうしてだろう、と考えました。今日喋りたいことは既に決まっていたのですが。その辺を、昨日つらつら考えて、
「よし、アンケートを採ろう」と思いつきました。
そのアンケートで、皆さんの考えを述べて頂いて、
それに私が応答する形で、今後のお彼岸の法話を続けられるといいかなと思い、お手元にある
アンケート用紙を作りました。
そこで住職はどのような意図でこのアンケートを行うのか、
ということをこれから申し上げます。
本日は、月例の同朋の会の二倍以上の方々がお集まりですが、毎月の集まりに出るのは大変だが、お彼岸だからということで
出席された方もいらっしゃると思います。毎月の同朋の会に出ておられる方にとっては、そんなこと知っているよ、
という話になるかも知れませんが、それは復習のつもりでお聞きくだい。
今日、お話しするのは、基本的な初歩的な話ですが、「菩薩ボサツ」についてです。皆さんは「菩薩」
は言葉としてはご存知かと思います。しかし、菩薩がどのようなものなのか、ということを皆さんがどこまで知って
いらっしゃるかというと、それは、それぞれの仏教の勉強の度合いによって違うでしょうし、それぞれの持っておられる菩薩に対する
イメージも違うと思います。
どうですかね、菩薩というと何を思い出しますか?・・・・
こう聞かれてすぐに答えが出て来ないところが小学生とは違うところですね。(笑)
聴衆1「普通に考えればこの絵(と壁にかかっている絵を指す)のような人。」
住職「この絵は何菩薩だと思いますか。」
聴衆1「観音菩薩・・・。」
住職「観音菩薩ですね。」
「観音菩薩」という言葉は、日常語としては通じますね。観音さんは正式な言い方は「観世音菩薩」です。
この他にも言い方があるのですが。観世音の観と音を取って観音と言います。略称です。
他に何かありますか?
聴衆2「日光、月光」
住職「ああ、日光菩薩、月光菩薩ですね。」
ここで、私が一つ書きます。「勢至菩薩」。名前を見ればああそう言う名前もあったな、とわかるでしょう。他には?
聴衆1「手がいっぱいある千手観音、弥勒ミロク菩薩」
住職「ああ、いっぱい出てきますね。」
一番身近なものが出ていませんね。書きます。「地蔵菩薩」。
まあ、名前を挙げるのはこの程度にしておきます。菩薩の名前は何百もありますので、きりがありません。
日光、月光は観音、勢至の別名という説もあります。道端みちばたや色々な場所に置かれているお地蔵さん、
観音さんも像で表わされますね。千手観音というのも、観音菩薩の様々な働きを表わしたものです。千の手を持っている
くらいにものすごい働きを観音さんはする、ということを像で表わしたものです。形にすると不気味な化け物のようなものになりますが。
まあ、ああいう表し方もあるのかと。
そこで、そもそも「菩薩」とは何でしょうか。ちょっとだけ難しい話をします。菩薩とは略語で、元々は菩提薩タボダイサッタ
といいます。この一文字目と三文字目を取って菩薩と言うようになりました。この四文字の漢語に何か意味があるのか、
というと、インドの言葉の音を写しただけですので、漢字としての意味はありません。
それではインドの元々の言葉はなんだったかというと、カタカナ書きすると「ボーディサットバ」と言います。じゃあ、
この言葉の意味は何かというと、ボーディとは覚さとりです。サットバとは衆生しゅじょうという意味です。
衆生というのは我々のことです、人間と言ってもいいです。そうすると 「ボーディサットバ」で「覚りを求める衆生」
という意味になります。
覚りとは仏教を学ぶ者の目的ですが、その覚りを求める衆生、つまり我々は ボーディサットバなのだ、菩薩なのだ、
というのが本来の意味です。そして我々は覚りを求めて勉強したり、修行したりする。お釈迦様は覚られた、親鸞さんも覚られた、
道元さんも覚られた。ということで、お釈迦様からはじまって、みんなボーディサットバだったわけです。
ボーディサットバは覚りを求めているのですが、まだ得てはいない状態です。覚りを得るとどうなるかというと、
ブッダ(仏)になります。つまり菩薩はまだ仏になっていない状態です。仏教の伝統では、歴史上の仏はお釈迦様一人だと言います。
それ以外に歴史上の生身なまみの人間で仏になった者はいない、と言います。では先程さきほど、
親鸞は覚りを得たと言いましたが、仏ではないのかというと、我々も親鸞さんを仏とは言いません。
道元さんも自分で覚りを得たと言いましたが、道元さんを仏とは言いません。これは、私ども仏教徒の、謙虚さともいうべきもので、
本当に覚った人は開祖のお釈迦様一人、後の我々弟子達はその教えを受け継ぎ追求して、自分で覚ったと思ってもお釈迦様には及ばない、
という態度を表わしたものだと言えます。
そういうことで、本来は菩薩とは覚りを求める衆生という意味でした。そうすると、ここにお集まりの皆さんは、
寺に来て彼岸会の行事に出席しようという志を持って来られたわけですから、覚りを求めておられる、と考えて良い。
ですから、皆さんも菩薩だ、という言い方も間違っていません。
しかし、今日お話したいのは、そういう意味での菩薩ではなくて、もう少し伝統的な話です。さて、観音菩薩、勢至菩薩は浄土門、
真宗では阿弥陀仏と一緒になって表わされます。さっき言ったとおり仏とは覚りを開いた者です。阿弥陀仏という仏が中心にいる。
その両脇に観音菩薩、勢至菩薩が控える。そういう形を木像で作って本尊として表現することが他宗ではあります。
真宗ではこの形は作りませんが。菩薩はさっきの話の意味だとまだ覚りを得ていない、ということになりますが、
観音、勢至、あるいは地蔵もそうですが、菩薩の本来の意味とはちょっと違った意味が与えられています。
この菩薩達は本当は仏なのですね。本当は仏なのに、衆生を救うために菩薩の姿を取っている、ということになっています。
衆生を救う仏の力を表わしている。ちょっと特別な菩薩です。そして、観音は仏の慈悲の力を表わし、
勢至は仏の智慧の力を表わしている。つまり、衆生を慈悲と智慧で救うという意味です。そういう力をこの二菩薩は持っている。
言葉とか形の意味を今は説明していますから、お聞きの皆さんは智慧と慈悲があってありがたいのかな、
といった感じを一応思われたかもしれません。
さあ、そこでどうでしょうか。ここでアンケートの話になります。
皆さん寺に参られて、和尚の話を聞いたり、本尊に手を合わせたりされる。真宗の本尊は、ここにあるとおり、
阿弥陀仏だけを形で表わして、観音・勢至は表れていませんが、阿弥陀仏に籠こもっているととらえます。
このような説明を皆さん聞かれたわけですが、どうでしょうか。このような話を和尚から聞いて、
「本当か?」あるいは「嘘か?」ということをいっぺん考えてみないといけないと思うのですが。
おそらく、皆さんは阿弥陀仏や観音・勢至菩薩がなんとなく「あるだろうな、いるだろうな」という心を持っておられると思います。
皆さんそれぞれ、いろいろな悩み、苦しみ、不安、怖れなどを毎日の生活の中でお持ちだと思います。
一番は死んだらどうなるかという不安がありますし、病気になったらどうしよう、あるいは今病気で悩んでいる、
この先どうしたらいいのだろう、家族内の問題、経済的な問題とか色々あると思います。
そういうところで、「願を掛ける」という言い方があります。どこそこの寺や神社に参ると、金持ちになるとか、
子供を授かるとか色々ありますね。そう言う噂を聞いて参られた方がこの中でもおそらくいらっしゃると思います。
そういう話を聞くと、私のような者は「証拠があるの?」といった言い方をしてしまったものでした。
しかし、もし皆さんが参られる時には証拠が有る無しの問題ではないと思います。はたから見て、
いくら馬鹿げて迷信じみたことであったとしても、参る本人としては真剣ですね。
私はそういう気持ちになったことは無いのですが、気持ちは分かります。
それが自分の生活の大切なことの助けとなればと思って参られる。私ども真宗の坊主はそういう話を聞くと、
すぐ「それは迷信ですよ」という言い方をしがちなのですが、私は最近それはいけないと思っています。
なぜなら、そう言ってしまうと皆さんの真剣な気持ちを汲くめなくなってしまうからです。ですから、
迷信かもしれないがそういうものに、助けを求めようとする真剣な気持ちのところで、
どうなのかなというところを皆さんにお聞きしたい。
で、今言ったような慈悲と智慧の力、これは色々解釈はあります。憐れみとか、苦しみを取り除くとか、病気が治ったとか、
家族や友達関係の不和とか、そういうもので死にたくなるくらい悩んでいたことが直ったとか、色々あると思います。
そういった時に慈悲の力があるのか無いのか。また智慧というのは、本当に頭が良くなるという智慧もありますし、
あるいは学問やお勉強ではなくて、毎日の生活の中で、ものごとの見方が変わってくるところで、楽になったとか、
ならないとかいろいろあると思います。そういうところで、観音・勢至に代表される、
我々を救う力──有るか無いかはわかりませんよ、今のところ。皆さんに質問するのですから──
が意味があると皆さんはお考えでしょうか。あるいは感じたことがあるでしょうか。
あるいは、そんなものはいくら求めても無かったか。実はそう言う話もよく聞きます。
評判の神さんに参ってみたけれど、何の効き目も無かった、だから止めたと。止めたはいいのですが、
そうすると真宗の坊主の「迷信だよ」とおそらく同じになる。
しかし、だからといって一生懸命仏さん神さんに参ったら何かしてくれるかというと、どうもそれも怪しい。
そこでアンケート用紙にはこう書きました。
「菩薩はいるのでしょうか、いないのでしょうか。」あなたにとってです。
そしてもしいるとすれば「いるとすればどこに、どのようにいるのでしょう。」
菩薩なんていないよ、という人でしたら「いないとすれば、なぜいないのでしょう。」
そういうところを是非考えて頂きたい。
私は同朋の会などで、いつもこういう話をします。色々な形で。しかし、どうしても言いっぱなしになってしまう。
皆さんのリアクションを得ることが少ないのですね。
今回は、このアンケートで皆さんにそれを求めたいのです。
是非書いて頂きたい。この一枚に収まりきらなければ、用紙を追加して頂ければよろしいです。
難しいことや立派そうなことを書こうなんで思わないでください。自分の生活の体験の中で、いるのだろうか、いないのだろうか、
ということを考えて頂きたい。
こういうことを正面切って質問されると、困るとは思います。そんな目にも見えない、触さわれもしないものについて、
いるとかいないとか言えないじゃないか、という問題ももちろんあります。しかし、そこをあえてお尋ねします。
ここに来ていらっしゃる皆さんですから。
できれば書いて頂きたい。そして、書くということは喋るよりも大変な労力を必要とします。自分の思っていることが沢山あっても、
字にして表わすというのは大変なことです。私もいつも原稿を書いていて思うのですが、何でこんな苦しいことを
毎月やらなければならないのか、と思います。ですから、字にするのは大変でしょうが、できるところで書いて頂きたい。
そして、それを今度のお彼岸の前、2010年2月末日まで私に届けて頂ければありがたいです。そして私はそれを読んで
勉強して次の3月のお彼岸の法話に繋つなげたいと思っています。
あと半年あります。自分の考えをまとめるということは、非常に時間のかかることですので、じっくりと考えて書いてください。
アンケートのお願いの法話になりましたが、時間が来ましたので終ります。どうもありがとうございました。
2009/09/23