真宗大谷派 西照寺

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2016年11月27日 報恩講法話「坐るなかに抱いだかれて」



講師紹介
住職 今回の報恩講のご講師は、はじめての事ですが他宗の方にお出で頂きました。新潟県五泉市にお住まいの櫛谷宗則さんです。櫛谷さんは在家のご出身で禅僧となられ、毎日坐禅を中心に据えた生活をされています。櫛谷さんとの交流のきっかけは5年前に共通の友人を通して、私に原稿依頼の手紙を下さったことです。その原稿は櫛谷さんが発行される冊子『共に育つ』に載せて頂きました。この冊子には色々な宗教・宗派・立場の人々の文章が載せられていました。仏教ばかりでなくキリスト教の方の文章もありましたし、最新号には音楽家の舘野泉さんの文章も載っていました。私はこのような冊子を発行される櫛谷さんの姿勢を尊敬し、また共感して、報恩講での法話をお願いしました。それでは櫛谷先生よろしくお願いします。


法話                             曹洞宗禅僧  櫛谷 宗則

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1 恩に報いる

 今日は皆さん、報恩講ということでこちらへみえておられます。ではその親鸞さんの恩とは何でしょう?
 我々、日々何に一生懸命になっているかと振り返ると、得だ損だ、勝った負けた、惚れた憎いだけで生きています。そのなかでなるべく自分が損しないよう、いい思いをするようにと、お互い様なかなか忙しい。何もなければそれが人生のすべて、それだけが私の生きるすべてだと思って、そのなかでアップアップしながら一生を終えてしまうのではないでしょうか。ところが親鸞さんは我々に対して、そういう生き方――しっかり頑張って勝ち組になりなさいとは一言もいっておられません。そういう生き方そのものが「みなもてそらごと、たはごと、まことあることなきに」と仰っています。そして「ただ念仏のみぞまことにておはします」と仰っています。そういうことを教えて下さったことが親鸞さんのご恩だと思う。

 これは当然お釈迦様まで直通していますが、その真実はお釈迦様がこの世に出ようと出まいと変わらない人生の真実です。お釈迦様は一国の王子様に生まれて、あらゆることが思いのままの生活ができました。お金もある、地位もある、綺麗なお姫様ももらった。我々が望むようなことは初めから手に入れておられた。ところがお釈迦様はそれを捨てられましたよね。なぜかというと生老病死――生まれていつか年老いて病気になって必ず死んでいく、そういう人生はどれだけお金があろうと地位があろうとどうしようもない。その自分自身の生老病死を深く見つめて悩まれた。弱い自分が老いたり病やまいになったり死んでいくのをどう受け止めて生きていったらいいのか。そこを悩まれた。その生老病死する人生の真実は何か、それだけのためにご自分の全生命を懸けて覚られて、その真実をみんなに教えて下さった。それは大恩ですよね。宝です。それが親鸞さんの宝でもある。最初に結論をいっておくと、その宝が親鸞さんのいわれる念仏であるわけです。人生の真実は何かといったら念仏、この人生そのものが実は一声ひとこえの南無阿弥陀仏として初めから授かっているということです。その話をこれからさせて頂きたい。

 お寺はその自分の人生の真実に触れる、思い出すという大切な場です。皆さんはお寺はお墓があったり先祖供養をしたり葬式をしたり、そういう時だけのもののように思っているかもしれませんが、そんな思いを超えて人生の真実に繋がっているということです。
 お寺を通して自分の人生の真実に触れる、自分の人生を考える、そういう場としてお寺があるということはお釈迦様まで遡ります。お釈迦様を慕ってその教えを聞き、共に修行する人が集まってサンガという共同体が生まれた。その集まる場所を精舎しょうじゃといい、それが寺のはじまりとなりました。日頃我々はそれを忘れていますが、お寺は世間的な日常生活とちょっとかけ離れた空間という感じがするでしょう。それは自分が意識しなくても人生の真実に繋がっているということを、心の深いところで思い出すからです。そういうところで明日死ぬかもしれない自分に立ち戻り、日常生活を見直していく。新たな気持ちでまたつとめていく。
 そういう生き方が報恩、恩に報いることです。人生の真実をお釈迦様や親鸞さんが教えて下さった。だからそれを大切にして良く生きる。普通は自分だけがかわいい、自分だけがよければいいと思って生きています。しかしそうではない。そういう俺、俺という思いを南無阿弥陀仏と称えるなかに流して生きる。我々の人生は一声の南無阿弥陀仏として授かっているのだから、俺を声高に称えて生きるのではなく、南無阿弥陀仏と称えるそのなかに俺を超えたいのちを生きる。それが恩に報いることでなければなりません。

2 なぜ死ぬか

 この人生には老いと死があるといいました。それがお互い様なかなか大変ですね。なぜ死があるのかというと、普通は病気――最近はガンが多いですね。私の周りにもそういう方が何人もおられますが、ガンになったから死ぬのだ、あるいは交通事故で死ぬのだ、そういう風に普通は思っている。しかしなぜ死があるのかといったら、生まれてきたからです。病気があるから死があるのではない。生まれてきたから必ず死ななければならない。

3 生のはじめ

 その生まれてきた私の根源は何かと考えると、最初は一個の受精卵です。それが細胞分裂して六十兆にもなるこの身体となり、それが新陳代謝して刻々生まれ変わり死に変わりながら生きています。その受精卵は突然できたわけではない。お父さんとお母さんがいたからこそです。私が生まれるには父と母がいなければならなかった。ではその両親が私の始まりかというとそうではない。その父と母にも親がいた。そうして遡ると哺乳類の先祖のネズミみたいなものまで遡るだろうし、さらに遡ってアメーバみたいなものまでいって、四十億年前地球上に初めて生命が誕生したという生命までたどり着く。もっといえばその生命を誕生させるためにビッグバンというようなものがあった。すると私がここで生きているということには限りない生命の繋がりがある。生きている親から生きている子へということが連綿と続いています。地球上に初めて生まれた生命から実に一度も途切れることなく、今のこの私に引き継がれています。
 だから私の始まりとは茫々ぼうぼうとして限りないものです。不思議というほかはない。これが私の生命の始まりだと区切って分けることはできません。

 では今現在の、ここに生きている私の根源は何かと考えてみましょう。こうして今生きているのは、呼吸しているからだし、きのうも今日もご飯を食べたからです。呼吸するためには空気がなければならないし、あるいは光や引力ががなければいけない。太陽の光が届いているおかげで生きている。ご飯を食べた、そのお米や野菜は大地から生まれた。そう考えると私が今生きている根源は何かというと、地球があるからです。太陽があるからです。しかも太陽がちょうど良い加減に照ってくれるのは、そういう風に太陽の大きさがあり、ほどよく離れているという太陽系・銀河系のあり方があるからです。私が今生きているのはそういう今のあり方を成り立たせている宇宙全体のおかげであり、宇宙のすみずみによって私は支えられて初めて生きています。
 だから私が今現在生きている根源は何かというと、宇宙すべてとブッ続きのいのちというほかなくなってしまう。これは広大無辺で限りなく不思議というしかない。日頃、俺、俺といって自分の力で生きているような顔をしていますが、考えてみると自分の始まりも、今の自分をこのように生かしめているのも、自分を超えた無量の寿いのち・無量の光――つまり阿弥陀仏の働き以外なくなってしまいます。

4 在るということ

 さらにそれが不思議というばかりではありません。この前日食がありましたが、今の科学で何年何月何日何時何分何秒にこの地域では部分日食、あの地域では皆既日食があると分かる。そう分かるのだけれども、なぜその時に地球がこの場所にあって、太陽があの場所にあり、月が太陽と地球の間のその場所にあるのか、なぜそこになければならないのか、ということは科学がどれだけ進んでも答えられないことです。そうですよね。
 なるほど、仕組しくみは科学が発達すれば分かるでしょう。でもそういう仕組がなぜそういう仕組としてなければならないのか、と考えると不思議というしかない。私がなぜこんな時代のこんな日本の隅っこに、こんな両親のもとで、こんな性格・顔かたちをもった宗則として生まれなければならなかったのか?誰にも答えられない。圧倒的な不思議です。
 我々はその不思議を分かったものにしてしまっている。それでは真実から目がそらされ離れてしまうと思う。その不思議を不思議として見失わないで生きるということが、瑞々みずみずしく生きるということ、良く生きるということではないでしょうか。ところが普通は、自分はこんな人間、才能はこのくらい、あいつはあんな奴、会社はこんなもの、社会はこうなっている、そのなかでなるべく自分が得するように、楽するように、悲しみや苦しみは嫌、なるべく幸せになりたい、そんな思いで生きています。でもみんな不思議なのです。我々は分かりきったこととして楽しみはいいけど、悲しみは嫌というがそうではない。楽しいことも不思議だし、悲しみも不思議なのです。

5 我執

 自分の思いで好きだとか嫌だとか値段をつけて追ったり逃げたりしていると、そのそらごとたわごとだけが世界だと思ってしまいます。では値段づけしなかったらどうするか。ただ、それを頂いていく。どんな人生でも自分のいのちである限り、真っ直ぐ頂いていくところに深い幸せがあるのではないでしょうか。本来はそういう生き方しかできないのです。死ぬということもそうです。ただ頂くほかない。死はみんな考えないでフタをしているくせに分かりきったこと、つまり嫌なこと怖いことのように思っていますが、そんな思いで測れない不思議なことなのです。
 みんな、俺、俺といって自分というものがあるように思い、大きな顔をして生きています。でも本当は生まれる前に堕ろされていても文句一つ言えない私です。堕ろされたら「何で俺を堕ろしやがった」と言うこともできない。そして実際、皆さんの身の周りでも堕ろされた兄弟姉妹はいくらでもいると思います。だから堕ろされずに私が生まれてきたということは、掛けがえのない不思議なこと。こうして生きていることは少しも当たり前のことではない、圧倒的な不思議のなかにあります。
 そこからいったらテレビで超能力の話だとか、夏になると霊の話だとかよくやっていますが、そんなことはちっとも不思議ではない。朝、日が昇る、そしてカーテンの隙間から日差しが射し込んで目が覚める、お腹がすいてご飯が食べられる、人と話ができたり、笑ったり、足が動いて走ることができる、これらを当たり前のことと思っていますが、これ以上の不思議はない。
 将来寝たきりになってごらんなさい、自分は元気な頃は、この足で思いのままに好きなところに行けて、なんと自由自在な不思議な働きをしていたのだなと思うに違いない。我々は失って初めて目が覚めるところがあります。
 何が一番霊的なことかといったら、こうやって当たり前に皆さん聞いていらっしゃって、私がくどくど喋っている。これほど霊的なことはありません。だから本当は「あ、不思議なことだなあ」と感動しなくてはならない。毎朝「今日も目が覚めた。ああ、生きている」と、そこに静かな喜びが生れるはずです。我々大人はいろいろな体験やよけいな思いこみでがんじがらめになっていますから、そういうまっさらな生命の真実が見えにくくなっています。どうしても色眼鏡で見てしまうし、色眼鏡で見ているとも気付いていない。

6 幸せ

 しかしこの生命の根源的なあり方、それは単純で明らかなものです。案外子供の方が良く見えている。十年位前に朝日新聞に載った投稿があります。七十三歳のおばさんが書いているのですが、娘さんがシングルマザーで九歳の男の子がいる。娘さんがフルタイムで働いているので、そのおばさんが食事の世話をしているようです。ある朝、娘さんが仕事に出た後、その孫と朝ご飯を終えて、ラ・フランスという洋梨を切って出した。まだラ・フランスが珍しかった頃です。男の子は「おいしい、おいしい」と言ってばかに喜んで食べた。おばさんも嬉しくなって「こんなに美味しく朝ご飯を食べて学校に行けるなんて、××ちゃん幸せね」と言った。そしたら、やや間があって男の子が「幸せというのは、そういうことじゃないの、幸せというものはもっと違うことなの」と言ったのです。
 我々、普通は美味しいものを食べたり、面白い映画を見たり、宝くじが当たると「ああ、幸せ」と思う。しかしその子がいいたいのは、そういう出来事が幸せなのではない。もっと根源にありながら当たり前すぎて見えないもの。そして続けて「いのちがあることを幸せというの」と言ったのです。それでおばさんはちょっとたじろいだ。
 この頃はよく学校で何か事件があると、そのたびに子供達を集めて校長先生とか担任の先生が「いのちは大事だよ」といった話をする。きっとそういうものの受け売りで言っているのだろうと思って、「先生がそう言っていたの?」と男の子に聞いた。そしたらその子は「そうじゃない。一年前にある本を読んでいて、自分にとって一番大切なことは何だろうと考えた」というのです。そして「僕にいのちがあることが一番大事で、それが一番幸せなことだと考えた」という。
 おばさんはそれを聞いて自分も何か言わなければと、「そうね、だからお友達のいのちも、みんなのいのちも大切だね」と言った。これは外から見ているというか、まだ評論家的ですね。そしたらその子は、「それもちょっと違う」と言い、「自分のいのちをみんなが自分で大事にすればいいんだよ」と言ったというのです。
 自分のいのちを大事に生きる、これが良く生きるということですね。これが仏教の大切な眼目でもあるわけです。この子はそれを素直に感じている。それはさっきいったように時間的にいっても限りないし空間的にいっても限りない、そういう無量寿、無量光の生命を大事にして生きるということです。ところが我々はそれを忘れて生きている。

7 健康長寿ではない

 この前テレビで見たのですがキラーストレスというものが問題になっている。現代社会はストレス社会でキラーストレスに曝されるとガンの原因になったり、突然死の原因になったり、鬱病の原因になったりする。何とかそのストレスを軽減しなければならないという。
 我々の身体がストレス反応を起こすのは大切なことです。昔、それこそライオンに遇ったら素早く戦うなり逃げるなりしなければならない。だからストレス反応でアドレナリンとか分泌して活動的になったり、噛まれても、すぐ血液が固まるようにする。しかしライオンが去って行ったらストレス反応もなくなった。ところが現代社会はどこもかしこもライオンだらけで、ストレス反応が収まらないらしい。だからストレス反応で分泌された過度のホルモンが脳の神経細胞を傷つける。脳の海馬という領域は感情とか記憶を司るところだそうですが、そこの神経細胞がダメージを受けて死んでしまう。その番組ではその対処法を紹介していて、そのなかの一つにマインドフルネスという瞑想がいいといっていました。それは宗教的意味合いを除いた瞑想ですが、昔から行じられている坐禅や念仏はストレスに対して有効な働きをしているわけです。

 この番組を見て思ったのですが、現代は健康長寿が大流行です。誰でも彼でも、いや私だって健康長寿したい。しかし思います。頑丈な身体と心を持って生きる、それは結構でしょう。しかし、その頑丈な身体と心を持ってあなたはどう生きたいのか、それをどう使おうと思っているのか、その方がもっと大切なのではないでしょうか。――そうすると大概の人は、大いに仕事をして、家族旅行もして、人生を楽しむのだと言います。でも、そうやれたとしても、我々はいつかは老いて病気になって死んでいく。だからこそお釈迦様は悩まれたのではなかったでしょうか。お釈迦様は健康長寿は問題にされていません。生まれたり死んだりするこの現身うつしみでなく、限りないいのちである法身ほっしんをこの今にいかに実現させて生きるか。それを仏になっても修行し求道し続けられたのだと思います。それなのに念仏・坐禅まで自分の健康長寿のために役立てようとするのは本末転倒です。
 今の文明はストレスは悪者だからなくそう、なくすことのできない最大のストレス・死は考えないように、見ないようにしようという。その姿勢が不真実です。すでに生きるという今に死ぬということがセットされている。我々は刻々死ねばこそ生きている。そうであればそれをしっかり受け止めて生きる。そこに真実に生きる、良く生きるということがあります。死を切り捨て、苦しむことを避けていたら本当の生命の力、生きる幅も狭くなってしまいます。実際、大きな地震などがあってライフラインが途絶えたら、なす術すべなく死んでいく人は多いと思う。しかし私が居た安泰寺のように、山のなかで薪で煮炊きしたり、井戸を掘ったり、田んぼを作ったり、山菜を採って食べたりできる人間だったら、乗越えて生きられるかもしれない。ストレスがすべて悪いわけではない。もしストレスをすべてなくしていいことばかりだったら浅い人生で、とてもつまらないと思う。テレビドラマもそうですね。善人ばかり出ていいことばかり起こるドラマなど見たくもない。やはり悪人が出て、裏切りがあって、主人公が失敗して、悩みながらもそれらを乗越えていく話が面白い。

8 一生・一声

 だからいろいろなストレスを孕はらみもちながら、しかもそれを超えた生命を我々は生きている。最初にいったように人生そのものが南無阿弥陀仏という一声です。その証拠に皆さん、苦しい時とか、自分の力ではどうしようもなくなった時、思わず知らず南無阿弥陀仏という声が出てきませんか。自分の力ではもう何をやってもダメだ、お手上げだという時、南無阿弥陀仏と声が出る。その声は実用のため、実際の問題解決のためには何にもならない。しかし自分の思いを超えたところから自おのずと南無阿弥陀仏と声が出てくるではないですか。それは我々の人生そのものが南無阿弥陀仏の一声として頂かれているからです。圧倒的な不思議に今ここで頂かれて生きているからです。
 その一声は自分が称えようと思ってやっているのではない、称えしめられている。すでに阿弥陀の大いなる御手のなかに抱いだかれている。その抱かれている深さからいよいよ称えざるを得ない、称えるなかにいよいよ深く抱かれていく。私は坐禅をするのですが、真宗の方のなかにはそれは自力の修行だと誤解している人がおられます。そうではありません。真宗ではよく自力無功(「無功」は「無効」とほぼ同じ意味)といいますね。自分の力は力とならない。坐禅は何の姿かというと、その自力無功の姿勢が坐禅なのです。だから自分の力で坐ろうとして坐っているのではない。坐らしめられている。坐るなかに抱かれている。だから我々は阿弥陀さんの限りない力にいつも引っ張られているのです。なぜなら生きている土俵が阿弥陀さんのところだから、いつも無量寿・無量光の力に呼ばわれている、引っ張られている。できるだけその生命の声を聞いていこうということです。

9 生きる姿勢

 ところが我々はいつも阿弥陀さんの声ではなく、自分の声ばかり聞いています。我が身が一番かわいいという自分の声ばかりを――。なるべく自分が損しないように、得するように、自分が良く思われるようにという自分の声はうるさくて強い。その声ばかり聞いていると阿弥陀さんの声は聞えません。だからそういう俺、俺という思いはなるべく流す。要するに執着しないということです。その流れるままに阿弥陀さんの声がかすかに、しかし絶対的な響きをもって聞えている。
 親鸞さんが晩年に書かれた自然法爾抄じねんほうにしょうという文がありますが、そこに「弥陀仏は自然のやうをしらせんれうなり(阿弥陀仏は自然の様を知らせん料なり)」と書いてあります。阿弥陀仏は自然の様(あり方)を知らせる材料だというのです。我々が生きていることは大自然の生命としておのずから然らしめられていること。弥陀仏はそういうあり方、働きを知らせるための材料だと仰っています。
 だから何か偉い阿弥陀さんが向こう側におられるのではなく、私自身に働いて、私自身を生かしめている。聞くということは、初めからその声のなかに生きているということ。その声を聞いていこう。俺が称えるのではない、その声が私を通して称えられている。俺、俺の思いが手放されたところ、本来のブッ続きのいのちと直通して南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏とあらゆるものが称えている、生きている。その声が初めて全身心に聞えてくる。聞えるままに私も南無阿弥陀仏と称えさせていただく。だから称えるということは聞くなかにあり、聞くということは称えるなかにあるのです。そういう本来の地盤に立った、生き方を担う。だから念仏とは何かといったら、生きる姿勢です。その点でも坐禅と一緒です。大自然的な生命を少しでも大切にしよう、それを今ここで発現していこうという姿勢です。しかしお互い様、どこまでいっても凡夫なのは間違いない。人間だから凡夫で当たり前だというのではなく、だからこそできるだけ南無阿弥陀仏と称え、立ち戻っていこうとする。南無阿弥陀仏百千万発です。その姿勢で生きる手前には、人生は南無阿弥陀仏の一声であるばかりです。

10 大悲無倦常照我

 こういうと「初めから阿弥陀の大いなる力のなかに抱かれていて、そこから落ちこぼれることがないのなら、それで大切なところは済んでいるのだから、自分が何をしようが構わない。好き勝手なことをしていい。火付け・強盗・かっぱらい、何をやっても阿弥陀の手の内にあるのだ。悪人正機ともいうし――」と考える人が昔からいたようです。
 しかしこれは机上の空論です。阿弥陀の生命を生きていると実感したら火付け・強盗なんてできはしない。そんな卑しいいのちの用い方はできない。阿弥陀の生命を感じていないからそんなことが言える。阿弥陀の生命を実感したら、自分はどうしようもない凡夫だということがいよいよ見えてきます。そういう自分を悲しまざるを得ない。それが阿弥陀の御手のなかにあるということです。
 阿弥陀の生命を生きているにしては、自分は貪り過ぎていると見えてくる。阿弥陀の生命を生きているにしては、自分は色気が多すぎると反省する。阿弥陀の生命を生きているにしては、また人を自分の我欲で傷つけてしまった、申し訳ない。そう思うはずです。申し訳ないと思わざるを得ない――それはそう照らされている、阿弥陀に抱かれている。そこにおいて心を切り替え、切り替え、南無阿弥陀仏百千万発です。失敗してもいいのです、どうせ我々は不完全な凡夫だから。どれだけ失敗しても阿弥陀の手の内にあることだけは間違いない。そこでまた新しく出直せる。反省しまた反省し、姿勢を正して盛り返し盛り返し生きるのが我々の宗教生活だと思います。
 それは阿弥陀の手の上に抱かれて、すでに救われている、あるいはもう覚った安心だ、ではないのです。そんな覚りは俺の懐に入れて安心と思っているだけです。そういう俺の思い、俺の懐、そういう自力は無功です。俺の思いといったら煩悩まみれ、悲しい凡夫以外にないです。でも自力無功と知らせてくれる光が届いている。なぜなら、また悪いことをした申し訳ないと反省するでしょう。それに我々生きているだけで、他のいのちを奪わなければ生きていけない悲しみをもっています。光が届いている。さっき拝読した正信偈にも「煩悩、眼まなこを障えて見ずといえども(煩悩障限雖不見)」とありました。見えないそのままでいいのです。もし煩悩の眼に救いというものが見えたら、そんなものはまがい物です。仏さんの眼に見えることが、我々みたいな凡夫に見えるはずがない。仮に分かった、安心したというのなら、そんなものは凡夫の懐に入った小さな救いでしかない。煩悩の眼には見えないそのままが「大悲倦むこと無くして常に我を照らす(大悲無倦常照我)」という限りないこと、仏が私を入れて下さっている。私が仏を入れるのではありません。ここが間違いやすいところです。我々はどうしても自分の懐に入れたがるから。

11 微光

 私はよく夕方に散歩します。日没前後の三、四十分ですね。すると夕空の色合いが同じ青でも微妙に変化するし、茜色に変わったり、紫になったり、一日たりと同じ色合いがない。暗くなってもう黒雲で終りかと思うと、それがまた茜色になったり一瞬一瞬変わる。それが楽しみで散歩する。この頃はテロなどで世の中が物騒です。地震があった、津波があった、テロで何十人も死んだというニュースを見ると心が重くなる。そんな時でも散歩に行くと、その日も同じように夕日が沈んでいく。テロでどれだけ人が殺されようが、事件が起ころうが、夕日は当たり前に沈んでいく。夕空の美しさも欠けてはいない。今日はテロがあったから慎んで暗い空にしますということはない。それを見ると、ああ真実なのはこれなのだと教えられる――その力にただ静まっている。
 言いたいことは沢山あるのです。何であんなテロなどやるのだろう、何であんな悲惨なことが今、人類に起きなければならないのだろうと、思いは重苦しく渦巻いている。しかしそれはそれとして、夕空の透明な美しさにただ静まる。それに自分を明け渡す。それがまた念仏だと思うのです。だから自分の思いで安心だ信心だというのではなく、極楽往生するために念仏をするのでもない。何のためでもない。四方八方行き詰まって自力無功です。苦しさ悲しみでどうしようもない。でもその時、念仏自らが自分のなかに降りてきて、称えて下さっている。自分はちっとも救われたと思えない、苦しみ悲しみの真っ只中だ。しかしその時何のためでもない、念仏自らが念仏を称える念仏ですね。夕暮自らが夕暮自身を荘厳している。それは、この一生が一声の南無阿弥陀仏として授かっているからです。私は凡夫のまま、悲しいまま、足りないままです。しかしそれをどれだけ思おうとそういう自力は一切無功です。その届かないまま、片付かないまま、阿弥陀の真実が私に届いて称えざるを得ない。私ではない、阿弥陀の心がただ念仏している。南無阿弥陀仏と。

 右往左往して生きてきたこの人生ですがそれも黄昏たそがれになって、微かすかな光のように「み心のままになし給え」という祈りが生まれています。つまづきながら泥だらけになりながら、ただ夕暮の限りない光にあこがれ、今その透明になっていく微光のなかをやっぱり右往左往しながら歩いています。

はい、今日はこれで終ります。ありがとうございました。

〈拍手〉

住職 どうもありがとうございました。言葉にできないことをお話下さって、大変なお仕事をして頂きました。

Mさん 櫛谷様は禅宗の方とお聞きしましたが、只今の法話は浄土真宗用にお考えになったのですか。それともご自分の宗派の方々にも同じように話されているのでしょうか。

櫛谷 皆さんは、紹介にもあったので私を禅宗の坊さんと思っているでしょうが、私は宗派としての禅宗でも真宗でもありません。私が出家したのはただ坐禅をしたかったからです。本当の坐禅に出会って、坐禅をしたいという気持ちだけで坊さんになりました。坐禅するには禅宗のお寺で坊さんになるのが一番良かったのでそうなっただけです。根本にあるのは、子供の時から死というものが怖くて、その問題を抱えてきた。だから真宗だ禅宗だという以前に、自分の人生をどう生きるのが真実なのか、その一本の道をとぼとぼ貧しく生きてきました。縁があって坐禅をご本尊さんにして生きていますが、私にとっては念仏も坐禅も同じもの、私のいのちであり、光です。

 

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