ホーム > 雑文・文献・資料 > 春彼岸会法話
春彼岸会法話
彼岸の意味
皆さん、春の彼岸会法要にようこそお出で下さいました。これまで西照寺では、お彼岸の時節にはとりた
てた行事はおこなっていなかったのですが、今年からこのような形で、みんなでお勤めをし、その後に住職
が三十分ほど法話を行うということで、彼岸会法要を勤めていくことになりました。
さて、彼岸会の第一回の法話は「彼岸」の意味を説明することからはじめましょう。
彼岸とは彼かの岸きしと読みます。向こう側の岸ということですね。
向こう側の岸があるということは「こちら側の岸」があるということでもあります。
こちら側の岸を「此岸しがん」といい「此この岸きし」と読みます。
仏教では此岸ということばで、私たちが現に生きているこの世界を指してきました。
その私たちの生きている世界のありさまはどうでしょうか。今日は子供さんたちもお見えですが、若い皆さんは、
一年の節目のこの時期にあたり、次の目標に向かって希望を膨らませているかもしれません。
それは浮き立つような心躍る気持ちでしょう。
私たちは誰しも若い時から希望を抱き、自分の目標にその浮き立つ気持ちを重ね合わせ実現しようとして
努力していこうとします。しかし、実際に目標を実現させるための生活に入ってみると、なかなか思い描いたとおりには
事が運ばないことにぶつかります。
そうして年数を重ねるうちに、悲しいこと、つらいこと、腹の立つこと、楽しいこと、嬉しいことを経験します。
じっと耐え忍んでも何年も出口の見えない時期もあるでしょう。そのような中で私たちは毎日をなんとかしのいで生きています。
このように感じつつ生きている私たちの世界を仏教では此の岸、此岸というのです。
さて、悲しいにせよ嬉しいにせよ、私たちはこの現実を受入れざるをえません。そうしてある時ふっと次のような湧き上がる
思いに出会います。
「このような悲しみや喜びを離れた世界は無いのか?」と。
なぜなら、喜びは長続きするものではなく、悲しみは必ずやってくるものだからです。そして年を重ねるほど、
喜びや悲しみを経験する回数が多くなり、私たちにはそれをやりくりしていくことが面倒になる瞬間がふっと
芽生えることがあるものです。
しかしこの気持ちは、年を取れば、人生に疲れたから起るというものではなく、老若に関係なく起りうるものです。
私の場合ですと十歳くらいの頃、五月のある日、庭の松の木によりかかり真っ青に晴れた空を見上げながら、
この気持ちが起きたことをはっきりと覚えています。子供にとっては五月の晴れた日というのは、心弾むものですが、
それと同時にこの思いが現れました。
その気持ちになった瞬間は大切です。その気持ちの求める世界─此の岸の喜びや悲しみを越えた世界─そのような世界を
「彼岸」というのです。ふっと現れた気持ちとは「彼岸に行こう」という気持ちです。
どうか皆さん、この「彼岸に行こう」という気持ちを求めてください。これは別の言葉では「覚りを求める心」ともいいます。
そしてその気持ちがふっと芽生えることがあれば、それを大切にして育ててください。その求める気持ちは必ずや
思いもかけない形で報われる時が来るでしょう。
行事としての彼岸
さて、ここまでは言葉の意味としての彼岸の説明でした。次に行事としての「お彼岸」について少し説明します。
仏教はインドに始まり中国に伝わり更に朝鮮を経て日本に来たわけですが、春秋のお彼岸の時期にお墓参りをするという風習は
日本にしかありません。
なぜ日本でこのような行事が行われるようになったかというと、墓に参って先祖を弔うという日本古来の習俗と、
お経(浄土三部経)に書いてある西方極楽世界に行くという考えが合わさって、このお彼岸の墓参りの風習ができたと
考えられています。
「西方極楽世界」と先ほど説明した「彼岸」とは実は同じ意味です。ですから「極楽世界に行く」ということは
「彼岸に行く」ということと同じで、実は生きている自分の心がそのような境地になることで、
本来は死者と直接の関わりはありません。
しかしまた「西方極楽世界に行く」のは死んでから、すなわち此岸の一生を終わってから行くのだという考え方も
お経には説かれました。お経を説かれたお釈迦様の方便として、仏教を理解するための入門的な段階としてこのような
考え方も説かれたのです。
その死後に極楽に生れるという考え方が、死んだ先祖は極楽に行っているはずだという考え方となり、
極楽のある方向と言われる真西に太陽が沈む、年の二回、墓所にて先祖を敬うという風習として広まったものと見られます。
そしてこの行事は、おろそかにするべきものではないと、私は思うようになりました。
段々と暖かくなりつつあるこの日に、こうして皆さんが寺に参り、墓所に参り手を合わせられる。その形の中で、
日々の生活である此岸の悲しみや喜びを反省し、既に此岸の生活を終えた先祖を思う。その思いの中に此岸での自分の
ありかたを反省し、それを越え離れたいという志を持ちはじめる。それが実は先祖の加護が皆さんの上に働いている
という証であると、私は思います。
皆様がそれに気づかれ、感謝してこのお彼岸の行事を勤められますように。
2009/03/20