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現代からたどる大谷派史1「戦争との関わり」
2015年4月18日 同朋の会
本文中の引用文は次の二冊から
吉田久一『近現代仏教の歴史』(筑摩書房 1998年) (yページ番号)で引用箇所を標示。
柏原祐泉『日本仏教史 近代』(吉川弘文館 2001年) (kページ番号)で引用箇所を標示。
今回から新しいシリーズではじめますということで本山が出している『真宗の教えと宗門の歩み』という本をもとにして進めるという案内をしました。この本は実は一般向けではないのです。
うちの宗派の組織ではこの辺りは仙台組(せんだいそ)というグループになっており、その中に20ヶ寺の真宗大谷派の寺があります。その仙台組の決議機関があるのですがそれは組会(そかい)と門徒会という二つの会でできています。組会のメンバーは仙台組の中のお寺の住職です。もう一つの門徒会には門徒の代表者がメンバーとなります。その人達はどのように選ばれるかというとそれぞれの寺から3名までという枠で出します。その3名は西照寺の場合は役員の中から選びます。そしてこの本はその門徒会のメンバーの勉強用に作られた本なのです。だから一般門徒向けに書かれてはいないのです。
本の中身は教えの内容を易しく書いてある部分があり、これは一般門徒にも参考になる内容ですが、ほかに組のしくみやさらに組の上に教区という大きなくくりがあるのですがその教区のしくみはどうだとか、国の行政と似たようなしくみの説明があったりする。こういう部分は門徒会のメンバーでない皆さんには関係ない。また今日の集まりは「同朋の会」という名前が付いていますが、これはどうして開かれるようになったのかとかいうことが書いてあったり、親鸞さんの生涯が書いてあったりで、皆さんに説明してもいい内容と、関係のない内容とがごちゃごちゃ詰め込んである。
以前『仏教聖典』を教科書にして最初から順を追ってお話ししたことがありましたが、そんな風にこの本を説明していくことはちょっとできないのです。ただ皆さんにお話しできるようなところは結構わかりやすく書いてあります。そんな話題をこの中から拾って、私なりに解説していこうと思います。この本を見なくとも分かるように話すつもりではいます。小難しい話題が多いです。ですから毎月の同朋の会で取り上げるようなことか、という不安もあるのですが、そこをなんとかその都度納得して頂けるように工夫していくつもりです。
本題に入っていきます。この本に書いてある中で中心の話題は明治以降の真宗大谷派の動きです。そのほかにも親鸞聖人の生涯とか正信偈の解説とかあります。現代の我々の宗派で一番目に付く言葉は「同朋会」です。今ここでやっている集まりも「同朋の会」です。1995年頃から始めましたので約20年になります。この「同朋の会」という名前は勝手に付けたのではありません。他の大谷派の寺でも同じような活動をするときは同朋という言葉が付きます。これはなぜかというと本山が約60年くらい前に「同朋会運動」というものを起したのです。この運動は坊主が儀式を行うだけの宗派ではなくて、先の戦争に協力してしまった反省も含めて、門徒と一緒に親鸞の教えを学んでいこうという主旨ではじまりました。それ以降、教えを広めるような活動を「同朋会」という名前で呼ぶようになったのです。つまり同朋会運動を知るためにはその前の時代のことから始めなければならない。戦争にどう関わったかとか、明治以降この宗派がどのように動いてきたかとかをお話ししなければならない。それをまともに話すと小難しいことになりますが、そうならないように努力していきます。
明治以降の歴史を頭の中で整理しなければいけません。その上で宗派がどうなってきたのか、今日の話題は宗派がどう戦争に関わってきたのかということです。重い話題ですが避けて通れません。
こんな図を作ってみました。明治1年から現在までの戦争を中心とした歴史です。
明治1年から日清戦争まで26年、その後10年で日露戦争、その後10年で第一次世界大戦です。これは4年間続きます。そこから17年で満州事変が起こりました。これは日本と中国との間の戦争というか、日本が仕掛けた罠というか無理やり戦争に持ち込んで満州国というものを形だけ作って占領しました。それから10年経って第二次世界大戦が始まります。これは日本の場合は真珠湾攻撃です。その4年後に終戦です。終戦といっていますが勝ち負けでいえば敗戦ですので、そう書きました。そして占領軍の下で、日本国憲法ができました。その後現在まで戦争がありません。このように絵にしてみると、戦争のない期間が現在まで続いているということが驚くべきことだとわかります。我々はこの非常に恵まれた時代にいるわけです。
現在から振り返ると1945年から現在までの70年が戦争の無い時代、その前の77年は戦争が続いた時代です。明治から半分は戦争の時代、その後半分は平和の時代です。そして全体の長さが147年です。これが長いと言うべきか短いと言うべきか。
さて明治1年の前は江戸時代です。そして明治1年になったとたんに明治政府というものがきちんとできていたかというと、そんなことはありません。大日本帝国憲法が発布されるまで20年かかっている。その期間は激動の時代です。凄まじいことも起きています。色分けしてみましたが、大日本帝国憲法ができてからの期間は帝国主義です。日本国憲法ができてからは民主主義です。この通り、帝国主義と民主主義の中身は全然違います。
そしてこの中の六割ぐらいの皆さんは帝国主義の最後のあたりからと、民主主義の時代の二つを経験されている。私の息子がそこにいますが、私や息子は民主主義しか経験していない部類です。帝国主義を経験した人とはたぶん心のあり方が違うのではないかと思います。そして帝国主義の時代は戦争ばかりやっていた。良い悪いは言いません、しかし結果としてこうなっている。そして民主主義になって70年、今の私のように普通に何でも喋っても誰にもとがめられない、警察に捕まるなどということはありえない。しかし帝国主義の77年間は違っていたということが調べるほどつくづく分かります。同じ空気を吸って同じ土地に住んでいるのに、帝国主義と民主主義では世界が違うのですね。そういうことを思うと今自分がこうして喋れるという状況はどうなんだろうか、と考えさせられます。こんな話題をこの同朋の会で皆さんに話すのはどうかな、もう少し軽い話にならないかとも思うのですが避けて通れない。
さてもう少しこの図を見てみます。日清戦争を行って勝ちました。次に日露戦争を行って華々しく勝った。昔、司馬遼太郎の『坂の上の雲』をそれなりに感動して読んだものです。次に勢いに乗って朝鮮を植民地にしてしまう。次の第一次世界大戦はヨーロッパ中心の戦争でしたが、日本はドイツを敵に回す側についたので、漁夫の利でドイツの領土である太平洋の島々を取ってしまった。先日、今上天皇がパラオに行ったのはこの時に日本の領土になったものです。その後日本は軍事力を増していって、周りの国から煙たがられるようになっていきます。そして満州事変でマッチポンプの戦争を起す。自分で火を点けて火事を起しておいて、その火事を消すといって戦争を起した。満州を占領して日本の傀儡政権である満州国を建てて植民地とした。それからますます拡大政策を取っていって1941年の真珠湾攻撃で第二次世界大戦に突入した。これも皆さんご存知の通り、卑怯な不意打ちだと言われますが、実は宣戦布告してその直後に爆撃の予定だった。その予定で艦隊は動いていたのに、アメリカの日本大使館の職員が前日ピクニックだか酒を飲んだかで寝坊して、予定の時間に宣戦布告をするのに遅れた。結果として軍は予定通りに動いていたのだが、外務省が遅れたために、宣戦布告前の卑怯な不意打ちになってしまった。しかしまたアメリカの方からも日本を追い込んで戦争に仕向ける策略があってその結果この開戦となった。そしてこの開戦だけを見れば勝ち戦ですが明治からの連勝はここまでです。あとはバタバタと負け戦で4年で敗戦を迎えた。
そうすると、ずっと勝っていれば、人間の気持ちは勝つのが当たり前と思ってしまいますね。私は死んだ母が言っていたことを思い出します。母は戦争を嫌った人間でした。割烹着がありますね。母の話では戦時中は、割烹着を着て愛国婦人会とかの活動をさせられた。だから割烹着を着た集団を見ると寒気がすると言っていました。そのくせ自分は着ていたのですが(笑)。今でも町内会の行事などでみんなが割烹着を着ているのを見ると「まだあんな格好している」と嫌がっていました。
それくらい戦時中のことを嫌った母でしたが、また勝ち戦だったときの想い出を話してくれたことがありました。当時、戦に勝ったという知らせがあると、晴れ着を着てみんなで神社にお参りに行くのだそうです。その時の気持ちは素晴らしいものだったそうです。心が青天井のようになって、これから日本はどんどん世界に広がっていくという希望が満ちていたそうです。子供心にわくわくしながら神社にお参りした。私はそれは正直な気持ちだと思います。人間というものはそういうものだと思います。そして敗戦を迎えて反省した母はそれまで日本が行ってきたことのひどさを知って割烹着の集団を嫌いになった。我々のような戦争を経験しない世代とは別の心のあり方だと思います。
さてこの歴史の中で、真宗大谷派そして仏教はどう動いたのでしょうか。日清戦争、日露戦争、第二次世界大戦の三つの場合で見ていきましょう。これからお話しする例がなぜそうなったのかという原因については今日は話をしません。結果としてそうなったという事例を話します。
日清戦争
大谷派法主現如の開戦に出された垂示
「いやしくも帝国の臣民たるものこの時に際し、よろしく義勇君国に奉ずべきはもちろん、ことに本宗の門徒にありては、かねて教示するところの二諦相依(にたいそうえ)の宗義にしたがい朝家のため国民のため御念仏そうろうべしとの祖訓を心にとどめ、専心一途報国の忠誠をひきだし・・・」(y103)
法主(ほっす)とは今の言葉では法皇に当るでしょう。現在は法主という言葉は使わず門首と言っています。法主は絶大な権力を持っていましたが、門首はいわば象徴天皇といった立場です。二諦相依とは真宗独特の言葉ですが門徒が世の中に対するときの心構えを言うときによく使われました。「朝家のため国民のため御念仏そうろうべし」の部分は親鸞の手紙から引いた言葉です。
こういう言葉使いはどうでしょうか。私は調べて頭で理解しますが、身体で分かる人もこの中にはおられるかもしれません。大谷派の門徒だったら国のために戦えと言っている。今イスラム国が問題になっています。この人達は神に仕える道が戦いだと言っている。しかし宗教の名のもとに戦争する、という考えは宗教ではありません。ところが大谷派の法主は仏教徒として戦えと言っている。そう言わざるをえない状況に追い込まれいたという面もあると思います。
『反省雑誌(中央公論の前身)』の捕虜救済の文章
「彼等もまたこれ仏教国民にあらずや、仏教徒五億万の数字中にあるものにあらずや、ひとしく釈尊の遺弟なり、ひとしく弥陀心光中の善男子なり」(y104)
この時代から言論統制はあったのですが、まだそんなにひどくはなかった。だから一般向けの雑誌にもこのような文章が載った。中国人も我々もお釈迦様の弟子ではないか、というほっとする言い方で、戦って勝つこととは別の見方を示しています。国家が行う戦と人間関係は別だという正常な意識がまだあった。
真言宗岩堀智道・浄土宗西山派近藤亮厳・真宗大谷派千原円空らは大山厳大将らの依頼で清国軍人戦死者追悼大法要を営んだ。 ・・・ 大谷派僧侶小栗栖(おぐるす)香頂(こうちょう)は浅草本願寺別院に収容された清国捕虜に毎月中国語で説教した。(k163)
清国の捕虜を収容する場所として結構お寺が使われたようです。そこでは捕虜をそれなりに扱って、この例のように敵国戦死者の追悼法要を営んだり、捕虜をなくさめ力づける法話をしたりした。小栗栖の法話は捕虜に感銘を与えたということです。こういうことはほとんど全ての宗派が行っていました。こうしてみると、とりあえず息抜きもある時代の戦争だったのかなと思います。
日露戦争
大谷派法主彰如の消息
「専ら報国の忠誠をぬきんじ、軍気の振興をはかり、また軍役にしたがうものは、すみやかに他力本願を信じて、平生業成の安心に住し、身命を君国に捧げて、涓埃(けんあい、わずかなこと)の報効をはかるべきものなり」(y143)
自分の身命はわずかなものだが、国に捧げるのは力となるのだから行えと言っている。「他力本願を信じて、平生業成の安心に住し」とは真宗の核心です。そういう立場にある人が戦うなどということは本来ありえない話です。ところが法主は戦えと言っている。
大谷派僧侶川崎顕了の『戦時仏教演説』
「私共は、このたびの戦争は実に私共の宗教的大善知識であるという感じが致し、これを悲しむところではない・・・
私共はこのたびの戦には、煩悩の露賊(ロシア)に打ち勝たなければならない。如来の大御稜威(おおみいつ。天皇の威光)とその指揮の下にある懺悔の大勇猛心とにより、全勝の光栄を収めなければならない・・・
然らば今回の日露戦争のごとき場合はいかがというに、私共の考えまするところではいかに多くの敵人を殺戮しても、少しも仏意にそむくことではないと思うのである」(y165)
すごいですね。どれだけ多くの敵国人を殺しても仏様の心に背かないというのです。こういうことを言った人は他宗派にもたくさんいた。この川崎という人はいつまで生きていたのかわかりませんが、日露戦争が終って反省する機会を持つことができたとすれば大変な苦しみを味わったでしょうね。なぜあんなことを喋ってしまったのか、と。
日清戦争ほどではないが日露戦争でも「怨親平等(おんしんびょうどう)」の見地から捕虜撫恤(ぶじゅつ。いたわること)が行われた。天台宗妙法院には日本海海戦の捕虜が収容されていた。05年8月戦没者冥福祈祷会も行われている。(y144)
怨親平等の怨は敵、親は味方です。敵味方平等だという仏教に根ざした考え方がまだ生きていて、日清戦争ほどではなかったけれどもロシアの捕虜に対していろいろ支援をした。
第二次世界大戦
西本願寺の消息
1940年2月11日「日本仏教は鎮護国家の大任を荷負して古今を徹貫せり。わが宗祖大師、開顕の宗意、実にここに存す」(y216)
1941年12月9日「水火にも滅せざる六字の心情名号の利剣に無窮の皇基を厳護して」(y216)
日本仏教は国を護るという任務を担っている。そうすることが宗祖である親鸞が真宗を開いた真意だというのです。こんなことは大嘘です。また六字の名号、つまり南無阿弥陀仏が利剣・人を殺す道具となってしまっています。それで天皇を中心とするこの国の基礎を護るというのです。こんな嘘を沢山吐かなければいけなかった。
1940年大谷派宗務役員が橿原(かしはら)神宮(神武天皇を祭る)に参拝。(y224)
1943年東本願寺射撃錬成大会。(y225)
大谷派の幹部が神話で日本の初代天皇となっている橿原神宮に参拝した。現代では決して考えられないことです。またこともあろうに本山で人殺しの訓練をやることになってしまった。
1941年7月文部省、大政翼賛会後援の下に、各宗首脳500名が集まり、大日本宗教報国会が開かれ・・・「皇国宗教の本旨を発揚し以て大東亜共栄圏の建設に邁進し、世界新秩序の樹立に協力せんことを期す」(k249)
国の強制で各宗派が集められてこういった組織を作らされた。ここには仏教、神道、キリスト教、儒教、など皆入っています。
このように戦争協力して破滅への道を歩んだ。仏教を中心とした宗教勢力は抵抗することができなかった。宗教界の上層部は戦争協力をせざるをえなかったのですが、一般の寺の現場では反対する動きもありました。
三重県大谷派住職植木徹蔵戦争に反対、出征軍人に敵を殺さぬよう、自分も死なぬよう訓戒し、逮捕。(y231)
石川県大谷派住職高光大船が反戦思想を流布したとの名目で、検挙起訴された。(y232)
植木徹蔵という人は植木等のお父さんではないかと思うのですが、他の資料では名前が違っています。この本は結構誤字があるので間違ったのかもしれません。高光大船は大谷派では結構有名な人です。このような人は他宗派にもたくさんいた。
座談
以上で用意した資料の説明は終ります。このまま続けて座談に入りましょう。
たまたまこの本を材料にしたので、こんな内容の話になりました。みなさんどんな感想ですか。あさのさんどうですか。
早坂あさの 日露戦争は親たちが行ったので話は聞かされていた。戦争に行ったら先になって進んではだめだと言っていた。親はいくつになっても子供を案じるものだ。
長谷川恵子 あの頃は仏教ではなく神様だったね。仏教は仏事だけが許され神様が一番で村社という村の神様に年に何回もお参りした。小学校3、4年だったから授業が休みになるのがうれしかった。
住職 その時は綺麗な格好していくのでしょう。
長谷川 そうそう。
住職 晴れがましいでしょう。
長谷川 楽しいんですよ。今でも覚えているけど手まり歌で「一列らんぱん破裂して日露戦争はじまった・・・」(一同笑)
住職 へぇー(笑)、ちょっと歌ってみて下さい。
長谷川 一 一列談判(らんぱん)破裂して
二 日露戦争始まった
三 さっさと逃げるはロシヤの兵
四 死んでも尽くすは日本の兵
五 五万の兵を引き連れて
六 六人残して皆殺し
七 七月八日の戦いに
八 ハルピンまでも攻め込んで
九 クロポトキンの首を取り
十 東郷大将万々才 (後で住職が調べて確認した)
(一同笑)
意味も何も分からなかった。今だからクロポトキンはロシアの大将だと分かるが。あの大将がちょっと抜けていたので日本が勝ったんだね。(一同笑)
住職 「一列らんぱん破裂して」という言葉は知っていましたが、そういう歌だったのは初めて知りました。
吉田忠子 長谷川さんのもう一つ上の世代だと良く分かっているんだよね。私達は生まれたかどうかという頃だから全然わからない。
長谷川 紀元二千六百年という歌もあった。
金鵄(きんし)輝く日本の 榮(はえ)ある光身にうけて
いまこそ祝へこの朝(あした) 紀元は二千六百年
あゝ 一億の胸はなる
(後で住職が調べて確認した)
私が生まれる前に提灯行列で歌ったそうだ。
住職 そういうことの積み重ねですね。それを忘れたままにしておくと、今やっていることがどういうことなのかも分からなくなってしまう。同朋会運動というものも戦争の経験をへて宗派としてなんとかしようとして出てきたものだが、色々な問題を含んでいる。
長谷川 あの頃は不運だったね。
住職 不運でもあったのですが、私は最近思うのですが、江戸時代から明治時代になるときのことは大河ドラマで嫌というほど題材となってきました。このとき国の中心部を牛耳って活躍した人達はみんな若い。私は今までこの人達をすごいと思っていました。大体二十から三十代で大きなことをなしとげている。大した器の人達だと思っていましたが、最近考えが変わってきました。
実は若造が作ってしまった、色々な欠陥を抱えた国だったのではないかと。仏教界でも若い人達が活躍していたのですが、若いと勢いはいいのですが、色々大切なことを取りこぼしてしまう。そういう欠陥を含んで日本は帝国というものになってしまった。帝国とは自分の国が一番だと考えて他の国を従わせることです。その当時は日本だけでなく他の国々も帝国でした。だから国同士の力のぶつかりあいにならざるをえないところがあった。
そういうことを割引いたとしても、日本は若い連中の作った欠陥が尾を引いたのではないか。それに対して仏教は何も言えなかった。教えの中身には言うべきことがたくさんあったのですが。そして仏教界は今よりもはるかに力もお金も持っていた。その仏教界がもう少し思慮深く動けなかったのかなという思いがあります。
2015/04/20 公開