真宗大谷派 西照寺

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2012年9月22日 秋彼岸会法話「「念仏する」ということの整理」


 先ほどのお勤め、つまり儀式ですね、歌い方・唱え方や作法が決まっている、その中で皆さんは念仏、すなわち「ナムアミダブツ」「ナンマンダブ」と発声されました。そこで皆さんに質問します。

「先ほどのお勤めの中で『自分が念仏した』と思っていらっしゃる方は手を挙げてください。」

変な聞き方でしょう。それは承知の上で尋ねています。先ほどのお勤めで「念仏した」と思っておられる方は手を挙げてください。

(三十一名中二名が挙手)
お二人ですね。
変な聞き方と言いましたが、おそらく、こんな質問をされるとは皆さん思わなかったでしょう。だからそんなことを聞かれてもどう答えていいか分らない、というのが正直なところだと思います。
つまり念仏というものは、

漢字で書けば「南無阿弥陀仏」、
カタカナで書けば「ナムアミダブツ」「ナンマンダブ」、

ナンマンダブはナムアミダブツの音が縮まってこういう発声になったものです。しかし、漢字の南無阿弥陀仏とカタカナのナンマンダブが同じものだと思われますか?おそらく、そこで頭をひねる気持ちがあるのではないでしょうか。それはなぜか。

 皆さんそれぞれご出身地やお住まいが違いますが、この辺の在所では契約講というものがあります。地区内の隣近所が契約していて葬式などが出た場合助け合うというものです。この辺の他宗のお寺(曹洞宗がほとんど)の檀家で葬式が出ると、契約講の人達が一部屋占領するくらいの大きな数珠を用意して、参列者がそれを回しながら「ナンマンダブ」と唱えます。その時には菩提寺の坊さんはそこにはいません。その契約講の「ナンマンダブ」の念仏と、私の質問の念仏は同じものなのか、そこまでは考えなかったかもしれませんが、そういう同じ言葉でありながら、全然違ったものを指しているようなところが「念仏」にはある。
 更に言えば真宗の儀式では「ナムアミダブツ」「ナンマンダブ」どちらも唱えますが、なぜ唱えるのだろう、ということをおそらく皆さんはあまり分ってはおられない、と思います。
 その辺を本日の限られた時間内で、ある程度はっきりさせたいと思います。

(ここで質問が入る)
――住職、私達は仏壇に向かって、あるいは本堂で本尊に向かって手を合せるとき、今日も健康でありますようにとか、お願いをしてはいけないと習ったでしょう。
――まあ、そんな言い方もありますかね。私も言いましたかね?そんなことを。(一同笑)
――それで、どう唱えていいか分らない。そのお願いの代わりにナンマンダブと言う。
――本当はお願いが入っているナンマンダブですね。とても正直なお話です。それがはっきりするかどうか分りませんが、話を続けます。

 そういうもやもやした部分を抱えながら、そして格好としてはこうしなければいけない、みんなで集まったときはこうしなければいけない、ということで、よく分らないがこの宗派ではこうしなければいけないのだな、と思っているのが皆さんのおおかたの思いでしょう。
 その辺を考える材料として文章を引きながら話します。

 親鸞は法然の弟子でした。法然は平家物語に出てくるほどの有名人です。その法然の下には弟子がたくさんいました。その中で親鸞の兄弟子に聖覚せいかくという人がいました。この人は説教するプロです。その説教の原稿とみられる『唯信鈔ゆいしんしょう』という書物があります。親鸞はこれを写して自分の弟子達に配っています。この『唯信鈔』の中に次の文句があります。

たとえば人ありて念仏の行をたてて毎日に一万遍をとなえて

つまり当時の一般的な念仏のとらえ方はこのようなものでした。一日に一万遍唱える。するとその功徳によって極楽に往生する。なぜそうなのかを分って行う人はおそらく少数で、多くの人は理由を問わないで、この行をしたと思われます。
 さて、今回の話をするために私は一万遍念仏の時間を計ってみました。「ナンマンダブ」という発声は一秒以下でできます。息継ぎしないで十回言えます、そして息継ぎをするとそこまでで十秒。つまり一秒に一回という按配になり、一万回念仏を唱える時間を計算できます。

10000回÷3600秒=2.8時間

ということで約三時間あると一万遍念仏の行が達成できます。(一同笑)
これが行をする本人にとってどういう意味があるかという問題は別にして、身体を使って自分は何かをやったという達成感を示すためには、三時間我慢して「ナンマンダブ」を発声すればよい。これが当時かなり流行ったようです。

 先ほどの契約講の人達が行う念仏――実は私もこの中に入ったことがあり、はじめはびっくりしました――は、おそらく誰もなぜそれを行うか分らないでやっている。昔からやってきたから当然やるべきだ、といった理屈でしょう。そしてそれはかなり強い縛りがある。一万遍の念仏もそれと同様の傾向があります。理屈などはどうでもいい、先ず唱えてみよと。そして一万遍唱えられたら今度は二万遍を目標にする。そういう風に回数がエスカレートしていく。
 しかしそんな行に興味の無い人から見れば、何をわけの分らないことを時間つぶしにやっているのか、としかならない。そして日本曹洞宗の開祖の道元もそう思ったのですね。

口声くしょうをひまなくせる。春の田のかへるの昼夜になくがごとし。つひに又またやくなし
(道元『正法眼蔵しょうぼうげんぞう』「辯道話」)

口声というのは「ナンマンダブ」と声に出すことです。ひまなくナンマンダブと唱えることは、田圃で一日中啼いているカエルの声と何の違いがあるのか、何の利益もないのに無意味なことをやっている、という強烈な皮肉です。私もこの文章を初めて読んだときは、ああその通りだと思いました。
 念仏ということを「何も考えずに口にナンマンダブと唱えること」ととらえてしまい、それ以上自分の頭を働かせないでしまうと、こういう皮肉を言われる事態を招きます。

 では、親鸞は念仏をどうとらえていたのでしょうか。そこを確かめてみます。
親鸞が書いたものではなくその弟子が書いたものですが、現代では非常に流行している有名な書物に『歎異抄たんにしょう』というものがあります。その中に親鸞が喋った言葉だ、として十数個載せられています。これが親鸞が喋った言葉を一字一句写したものかというと、私は怪しいと思っています。つまり本人が書いたものではありませんから、どうしても弟子の印象が入ってしまっているはずです。そういうことで、どこまで信用できるか微妙なところがあるのですが、ここでは親鸞の言葉だとして進めます。その言葉に次の有名な文句があります。

親鸞におきては、ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべし

ここで問題になるのが「ただ念仏して」の「ただ」の意味です。みなさんはどう思われますか。この「ただ」を「何も考えずに」ととらえたとすれば、そしてそれが親鸞の教えだと考えるのなら、それは先ほどのカエルの鳴き声と同じになりますよ。
 ところが、真宗の熱心な門徒を自負しているような人の言い方を聞いたりすると、ほとんどが「ただ」を「何も考えない」と解釈しています。私は「ああこの人もカエルの鳴き声か」と内心思います。ケンカになるので口には出しませんが。
 親鸞はそういう風に「ただ」をとらえていたのでしょうか。この文句はかなり長い発言の一部分ですが、その全体を読んでみると「何も考えない」という意味で言っているのではなく、逆に「徹底的に考え抜け」という立場での発言であることが分ります。その長い発言の要所を抜き出したものが、次です。

(1)親鸞におきては、ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべし
     ・・・
(2)弥陀の本願まことにおわしまさば、
     ・・・
(3)親鸞がもうすむね、またもって、むなしかるべからず
     ・・・
(4)このうえは、念仏をとりて信じたてまつらんとも、またすてんとも、面々の御はからいなり

文句の間の・・・は省略した部分です。ちょっと無茶なくらい省略しています。これを解説します。
(1)「親鸞におきては、ただ念仏して、弥陀にたすけられよう」と決定している。それはなぜかというと
(2)「弥陀の本願がまこと」だからである。つまり、念仏することの理屈は阿弥陀仏の本願がまこと=真実である、ところにあるのだというのです。そして「弥陀の本願がまこと」だから
(3)「親鸞がもうすむね、またもって、むなしかるべからず」、親鸞という一人の人間が喋っているのだが、それは弥陀の本願という裏付けがあって喋っているのだ。
 つまり、弥陀の本願が真実であるから自分はただ念仏するという行に定まったのだということです。そして最後に親鸞に念仏への不審の質問を投げかけた弟子達に向かって
(4)「このうえは、念仏をとりて信じたてまつらんとも、またすてんとも、面々の御はからいなり」と突き放している。
 自分の考えが定まらず、人から「念仏すれば助かる」と言われてそれを信じ、みんなと一緒に念仏するということをやっていると、人がやっているからそれが正しいという理屈になってしまいます。それはカエルの鳴き声になってしまいます。
 しかし、親鸞は違います。念仏を本当のことして信じて選ぶのか、それとも嘘だとして捨てるのか、それは誰が決めるのかといったら、あなた自身だよ、親鸞が決めることではないよ、と非常に厳しい言い方をしています。

 そして、自分で引き受けて考え抜いて行き着く先が阿弥陀仏の本願です。阿弥陀仏の本願は神話といっていいたとえ話で表わされています。
 昔々、無限の昔に法蔵菩薩ほうぞうぼさつという修行者が出られて、全ての人類を苦悩から救うという誓いを建てた。そしてその誓いを達成して仏となった。その仏の名前を阿弥陀仏という。そういう神話です。荒唐無稽こうとうむけいともいえるし、こんなものまともに信じられるかという内容です。しかしそういう神話の語り口で、我々がこの世の中に生き、苦悩する状況をどうやって解決するか、ということの糸口を示していると思います。
 その法蔵菩薩の誓い、これを本願といいます。その本願は四十八個あってその中に
「自分が全人類を救うことのできる仏となったときには、自分の名前を一言でも唱えれば、その唱えた者を救う」
という誓いがあったのです。そして神話はその誓いを達成したと言ってきます。これから先の未来で達成するということではありませんよ。すでに達成してしまっているのです。
 無限の昔に誓いを建てて、その誓いを達成するために無限の間修行し、そして無限の昔に誓いを成就して阿弥陀仏となった。(笑)

 だから、念仏すれば助かるという理屈が成り立つわけです。しかし、ひどい理屈ですね。誰も証明できないし、本当か嘘かも確認できない。それが本当か嘘かは自分一人で決着するしかない。

 念仏の回数については親鸞は、一回だろうが、何万回だろうが同じだと言っています。口と心は別々にあるのではなく連動していますから、念仏する心が定まったなら口に出る回数は気にしなくて良いわけです。念仏という行の形については以上の理屈で作られています。

 しかし、その本願が本当か嘘かは誰が決めるのか。それを決めるのは親鸞でもないし、お釈迦様でもない、あなた自身ですよ、と引用の最後の文句はきっちりと言っています。人がそういうから、あるいは法蔵菩薩の神話がそう言っているから、念仏してみるか、という程度では甘いのです。そのように語られる阿弥陀仏というものは自分にとって何か、ということを心の中で問答して確認していかなければならない。

 私もずいぶん問答しました。そして本願が本当であるか嘘であるかという経験のしかたは一人一人違うのです。親鸞ご自身は、そういう経験を経て念仏するようになったと思います。なぜ分るかというと、親鸞ご自身が書き残されたもの――教行信証や和讃――を見ると自分がどうして納得したかという跡をたどることができるのです。その和讃の一つを引用します。

弥陀大悲の誓願を
ふかく信ぜんひとはみな
ねてもさめてもへだてなく
南無阿弥陀仏をとなうべし
         (『正像末しょうぞうまつ和讃』)

これはすごいことを言っています。弥陀大悲の誓願=本願ですね、これが本当だと分って信じた人は「ねてもさめてもへだてなく」・・・覚めている間だけなら何とかなりますよ、覚めている間念仏するということはできる、かもしれない(笑)。
 しかし、寝ているときはどうにもできませんね。ところが、寝ているときも唱えろと言うのです。では夢の中でナムアミダブツと唱える方法を見つけろ、というのか、というと、そんなことを問題にしているのではないと分ってきます。

 親鸞の言う念仏とは一万遍唱えるとかそういう形や回数を問題にしているのではない、程度も質も違う、ということに気付きます。しかも最後に「べし」という命令形で終っています。非常に厳しい言い方です。
 これは何を語っているのかを私は考えました。その結論は、「南無阿弥陀仏をとなう」ことは、自分が生きているということです。自分が生きているということが念仏することなのだ、と押えないと意味が通じません。
 寝るということは、なぜ寝るかというと生きているからです。そして寝れば夢を見ます。夢はコントロールできません。だいたい悪夢を見ます。いい夢はほとんど見ません。皆さんそうでしょう(一同笑)。
 その悪い夢の中で念仏しようとしても絶対無理です。悪い夢を見ざるをえないような生き方を、我々はせざるをえないのです。そこから逃れることはできない。ところが親鸞は厳しい、寝ているときも念仏しろと言う。どういうことなのだろうか。

 偉そうに話していますが、私自身はどうなのかというと、寝ているときは念仏できていません。とりあえず、覚めているときの話をします。念仏するとは生きることだ、と、だいたい腑に落ちてきたのですが、そうするとすべてのことが、食事をしていても、書き物をしていても、庭掃除をしていてもそれが念仏だと分ってきました。
 庭掃除ですがしばらく前まではいやいややっておりました。ところが、本堂が立派に修復して大きくなって、山門もできてみたら毎朝掃除しないと気が済まないようになってしまいました。毎朝欠かさず少なくとも一時間は掃除しています。
 はじめた頃は我ながらびっくりしました。私の性格ですからどうせ三日坊主で終るな、と自分で思っていたのですがずっと続いています。自分がびっくりしていますが、家族も――坊守がそこにいますが――びっくりしていると思います(一同笑)。
 自分でもなんでこんなことをするようになったのかと思いながら掃除をしているわけです。そして、ああこれが念仏の形のひとつだな、と腑に落ちるようになりました。自分で動いているのだが、動かされている。自分で動いているだけなら三日坊主で終ります。ところが動かされている。それは立派になった本堂の力だろうか、ご寄付になった山門の力だろうか、と、はじめは考えたのですが(笑)、そうではない。皆さんの力で西照寺がここまで整備される状況がもたらされて、今日もこんなに沢山お出で頂いて、仏徳を讃嘆――仏さんにお参りして頂く。そして私の拙い話を聞いて頂く。そういうことが有り難い。
 そういう場は、やはり綺麗にしておかなければいけない、と思うわけです。ということは阿弥陀さんに動かされている。そういう感じは覚めている間はあります。そして自分が怠けそうになるときとか、怒りそうになるときとか、そこに阿弥陀さんの視点といえるようなものが少しは出てくるようになりました。
 ということで覚めている間の念仏については、だいたいの見当は出てきました。しかし、寝ているときの念仏というものは、私の今の境地ではよく分りません。
 ただ、ひとつ言えることは、先ほども言いましたように悪夢で朝の寝覚めは悪いのです。しかし起きたときにふっと「ああ、寝ているときに念仏しなかったな」と思うのです。すこし前まではそんなことすら思いもしなかったのでこれは進歩だと考えます。

 私の今の境地で説明できる浄土真宗の念仏とは、そういう念仏です。今申し上げたことで皆さんの生活にヒントとなるようなことがあれば嬉しいです。いかがだったでしょうか。

2012/09/24

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