真宗大谷派 西照寺

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現代からたどる大谷派史2「清沢満之の話」


2015年5月16日 同朋の会

 前回から現在の我々に直接関係する歴史として宗派の話題を取り上げています。前回は戦争との関わりという重い話題でしたが戦争を直接経験された方も出席されて予想以上に盛り上がりました。今回も難しい話題です。明治時代の大学者の話で、これを皆さんにどうやったら興味を持って頂けるかと、実験しながら話そうと思います。
 清沢満之(きよざわまんし)という人の話です。私は初めてこの名前を見たとき満之をどう読むかわかりませんでした。学問の世界ではとても有名な人ですが、皆さんはたぶん今日初めてこの名前を目にしたと思います。福沢諭吉くらいの名声があって当然の人なのですが現代ではすっかり忘れ去られた人です。ではどこで知られているかというと、我々の宗派の中の一部の人々と、学問の世界の中です。この人は大谷派が今の形を作り上げてくる歴史に非常に大きな影響を与えました。しかしまたこの人は大学者でもあったのですが、つい最近まで誰も真面目にその業績を取り上げることがなかった。そして学者の面が忘れ去られたまま、なんとなく偉い人だなという知られかたになっていた。そして宗派の中の偉い坊さん達でもこの人の仕事をきちんと扱ったことはごく最近までなかった。
そういう人のことを皆さんに話してどれだけ関心を持ってもらえるのかわからないのですが、こんな人がいたのだということだけでも知ってもらえればと、あえてお話しすることにしました。どんな話し方をすれば分かってもらえるだろうかと考えて、生まれてから亡くなるまでの年代順に説明するのがよいというところに落ち着きました。お渡しした年譜に沿って説明していきます。

1歳 (文久3 1863)尾張藩士徳永永則の長男として尾張国名古屋黒門町に生れる。
 下級武士の家の生まれです。相当貧乏な家だったようです。二ヶ月ほど前に東京で「清沢満之研究交流会」という集まりがあって参加してきたのですが、そこでたまたま、満之が後年婿入りした西方寺というお寺の住職とお話しすることができました。その中で徳永家がどれだけ貧乏だったかを聞くことができました。当時は武家の住む地区と町家の住む地区が分けられており、互いに行き来することはなかった。しかし満之のお母さんは町家の地域に出入りして傘張り仕事をしていたということでした。

8歳 (明治3 1870)黒門町の私塾に通学開始。

10歳 (明治5 1872)名古屋筒井町の情妙寺に愛知県第五義校が開設され、生徒となる。
 小学校を義校と言ったようです。お寺に学校が開設され生徒となりました。

11歳 (明治6 1873)義校が小学校と改称される。
12歳 (明治7 1874)小学校終了。愛知外国語(英語)学校に入学。
 この愛知外国語学校は現在の高校レベルの学校ですので、満之がかなり優秀だったのがわかります。

15歳 (明治10 1877)愛知英語学校廃校により愛知県医学校に入学も始業なく退校。四書五経を習いつつ近隣児童に英語を教える。東本願寺育英教校への入学を勧められる。
 この時期の学校の統廃合は制度が固まっていないこともあって大変だったようです。愛知県医学校は名古屋大学医学部の前身ですがそこに入学します。しかし理由はわかりませんが授業が行われなかったため退校しています。そして人に付いて中国の古典を習いながら子供達に英語を教えていた。そんな中で近くのお寺の住職から東本願寺育英教校への入学を勧められます。この学校は東本願寺が宗派内の頭の良い子弟を集めてエリート教育をしたところです。この学校は今で言えば防衛大学校のようなところで、勉強しながらお金をもらえる。授業料や衣食住は無料で月5円の生活費が支給された。生活費といっても小遣い的なものでしょう。この当時の5円は現在だとどれくらいだと思いますか。私は別のところで色々推測したのですが、だいたい25000倍すると現在の金額に近いものになる。そうすると当時の5円は今の125000円になります。今時の大学生はこんな沢山の小遣いは貰ってないでしょう。

16歳 (明治11 1878)東本願寺育英教校に入学。弟金之助死去(享年6歳)。
 この学校に入るには坊さんになっていなければならない。そこで満之は得度して大谷派の僧侶になって入学した。

19歳 (明治14 1881) 東本願寺より東京留学を命じられ東京に行く。
 東京に「留学」です。今の感覚と違って大変な事だったのでしょう。

20歳 (明治15 1882) 東京大学予備門入学。
 当時、大学は東京大学しかなかった。そこに日本中のエリートが集まっていたのですが満之はそこに入学します。

画像 21歳 (明治16 1883) 東京大学予備門卒業し文学部哲学科に入学。

25歳 (明治20 1887) 帝国大学文科大学哲学科を卒業。大学院に残り宗教哲学を専攻。第一高等学校の教授を嘱託されフランス史を講じる。郷里より両親を迎える。
 ここで名前が帝国大学に変わっています。当時の学問の中では哲学が王様で権威があったようです。その哲学科を卒業して大学院に残ったのだから、そのままいけば学問の歴史に名を刻んだでしょう。大学院で勉強しながらアルバイトで第一高等学校の教授になります。この時の月給が40円すなわち現在価値で100万円です。
日本に1つしかない大学を出た人への待遇はすごかったことが分かります。これだけ貰えば郷里から両親を呼んで家を構えることもできますね。
 この学生時代の写真ですが、清沢は前列の右端です。小さいでしょう、椅子に座っているが踵が床についていない。たぶん身長150センチ程度ではないでしょうか。

画像 26歳 (明治21 1888) 京都府尋常中学校の校長に就任。京都に転居。 愛知県碧海郡大浜町西方寺の清沢やす(21歳)と結婚、入寺。
 当時、京都府尋常中学校の経営を東本願寺が任されていました。満之はそこの校長を命ぜられます。そして西方寺に婿入りし清沢姓となります。西方寺は由緒ある非常に大きなお寺です。寺の日常業務は満之がいなくても役僧などがいて回っていたのでしょう。満之は京都に住んで校長を務めます。この時の月給が100円、現在価値で250万円です。京都府知事の月給より高かったそうです。
 校長になった頃の写真です。若造でしょう(笑)。椅子が西洋サイズなのでしょうがやはり踵が浮いています。当時としても小柄な人だったようです。この若造が250万の月給を取る校長かと思うとムカッときますね(一同笑)。洋服を着るのが珍しい、特権階級と見られる時代に洋服を着て人力車に乗って通勤し紙巻き煙草をくゆらしていた。私がはじめて清沢の経歴を知ったのは21歳くらいの時でしたがなんという傲慢な若造だろうと思いました。
ところが後になって清沢のことを詳しく調べるようになると、表面だけで判断できるような薄っぺらな人間ではないということが分かってきた。こんなハイカラな格好と暮らしをしていてもその心が全然浮ついていない。一高のアルバイトをしていた時もほとんど同世代の生徒達に教えていたのですが、京都に去る時に生徒達から感謝状と記念品を贈られている。そういう生徒達の感情の表し方は当時としても珍しかったそうです。つまり単なる頭の良い若造ではなかった。教え方がうまく、人の心を掴んで物事を伝える力に勝れていたのでしょう。

27歳 (明治22 1889)長女みち誕生。

画像 28歳 (明治23 1890) 尋常中学校校長を辞職。 剃髪し着衣を洋装から僧衣に改め、修道生活を始める。
 生活が一変します。昨日までの洋装が僧衣になり厳しい禁欲生活になる。そうなった詳しい理由はわからないのですが、自分の求める事をきちんとやっていこうと決めたのでしょう。この人の決断したときの潔さには驚くものがあります。校長を辞職するのだから100円の俸給は無くなります。家族がいるのですよ。大きなお寺がバックにあるからそんな事ができるのだろうという見方もあるのですが、この人はそういう損得を計算して動くことは考えにくい。
 そして校長を辞職して平教員で残ることになりました。その格好が麻の衣を着ていたそうです。麻の衣は当時は貧乏な坊主が着るものでした。その格好で教壇に立った。生活も厳しいものでご飯一膳、おかず一品、汁一椀というものになった。ある時期は穀物を取らなかったこともあったようです。そういうことで自分の宗教的な境地を頭では勉強していましたが身体でも体験で確認しようとした。

29歳 (明治24 1891) 大学寮で宗教哲学を講じる。母たき死去(享年四十九歳)。 以後修道生活厳しさを増す。
 苦労して傘張りをして育ててくれた母が亡くなっています。

30歳 (明治25 1892) 『宗教哲学骸骨』刊行。稲葉らとともに教学の独立を建策。修道生活いよいよ厳しくなる。 近在の行者を歴訪。
 『宗教哲学骸骨』という今から見るとちょっと難しい変わった題名の本を出します。現代語にすれば「宗教哲学の骨格」といった題名になるでしょう。とても難しい学問の本ですがこれが清沢の主著になります。清沢が生きている時に出したまとまった本としてはこれだけといっていいものです。
 稲葉という人は東大の同級生です。当時の大谷派は乱脈経営で膨大な借金を抱えていました。また教えがまともに伝えられる状況ではなかった。それを改善していこうと宗派の中枢に働きかけることをはじめます。また他宗の修行者を訪ねています。

31歳 (明治26 1893) 長男信一誕生。『宗教哲学骸骨』の英訳版刊行。またアメリカで開催された万国宗教大会でこれが紹介される。三重県二見浦で開催の関西仏教青年会に講師として出席のため徒歩で旅行。
 「宗教哲学骸骨」の英訳版が出版されそれがアメリカで紹介される。日本の坊さんが書いた本が国際的に通じる内容と認められた。当時としては珍しいことだったでしょう。
 三重県二見浦の大会に出席するために数日かけて歩いて行く。修道生活の一端でしょうね。しかも野宿しながら行っています。

32歳 (明治27 1894) 肺結核の診断を下される。妻子とともに兵庫県明石郡西垂水村に療養転居。
 結核は当時は死病です。今のガン以上でしょうね。なぜ結核になったかというと、修道生活で栄養が十分でない状態だった。そんな中、1月に前法主厳如が亡くなり葬式が行われました。この葬式に参列した僧侶達は東本願寺の前庭に剃りたての頭で午前二時から午後五時まで立っていた。その中に清沢も入っていた。このため当時流行中の感冒に罹る僧侶が続出し「大谷風邪」と言われたそうです。清沢は体力の落ちていたところに感冒に罹ったのでどんどん症状が悪化します。それでも禁欲生活を止めない。周囲の人々はとても心配して病院へ行って養生しろというのですが聞く耳持たない。しばらくしてから病院へ行って診察を受けたのですが、その時は既に遅しで結核になっていました。結核になるとまあ「廃人」で先が長くないのだから庭の隅に小屋でも建ててそこで死ぬまで療養生活を送るという人も多かったようですが、清沢の場合はそこまでひどくはなかったようで、療養しながらときどき仕事もするという状況でした。
 清沢は宗派の中枢に意見を言える立場にあったので、こんな生活の中でも友人達(多くが東大卒です)と共に改革の提言など行っていた。

33歳 (明治28 1895)) 父永則とともに京都愛宕郡白川村に転居。
 この時妻子とは一時的に別居します。

画像 34歳 (明治29 1896)稲葉らと教界時言社を設立し東本願寺の改革を唱える。寺務改革案賛同の全国有志と大谷派革新有志懇話会を開催。
 宗派の改革をするために会社を作ります。この写真がその「社員」です。清沢の転居先を会社としたために東本願寺から「白川党」と呼ばれました。

35歳 (明治30 1897) 有志とともに大谷派宗務革新請願事務所を開設。有志二百名と 東本願寺に改革を迫る。有志三百名と大谷派革新全国同盟会を結成。東本願寺から寺務を非議し 派内の静謐を妨げたとして除名処分を受ける。 次男即往誕生。

36歳 (明治31 1898) 除名処分を解かれる。西方寺に転居。

37歳 (明治32 1899) 大谷光演の招きにより東京に転居。近角常観(ちかずみじょうかん)宅に仮寓。 光演の補導の任に就く。
 大谷光演は法主の息子で次に法主になるべき立場の人で、清沢を信頼していた。その招きで東京に移り光演を指導する仕事に就きます。近角常観は清沢が亡くなった後に宗派や世間に影響力を持った人ですが、この時ヨーロッパ視察に行っており、自宅が空いていました。清沢はそこを借りて住みます。

画像 38歳 (明治33 1900) 多田、佐々木、暁烏らと共同生活を始める、舎名を浩々洞(こうこうどう)とする。
 清沢は人望があり、優秀な坊さん達が集まってきました。その人達と借家で共同生活をはじめます。その集まりの名前を浩々洞としました。「浩々」とはお経に出てくる言葉でひろびろとしたという意味です。
これが共同生活をはじめたときの写真で清沢は二列目の真ん中にいます。わかりにくいですが左上に女の人が二人います。これは清沢の奥さんと娘さんではないかと私は思っています。

画像 39歳 (明治34 1901) 浩々洞から『精神界』発刊。東本願寺より真宗大学学監に任命。真宗大学移転開校式。浩々洞で第一回精神講話。
 『精神界』という一般向けの雑誌を発刊します。この雑誌は当時の知識人にかなりの影響を与えました。真宗大学は今の大谷大学の前身で京都にあったのですが国の中心地である東京に移転させるという宗派の方針で巣鴨に移ってきます。これがその写真で結構大きな建物です。清沢はこの大学の学監(学長)に任命されます。また浩々洞で「精神講話」という一般向けの仏教の講演会が開かれるようになります。これにもかなりの人が集まったようです。

40歳 (明治35 1902)長男信一死去(享年十一歳)。妻やすの病状悪化、看病のため西方寺に帰る。妻やす死去(享年三十六歳)。 真宗大学学監を辞任。西方寺に転居。
 長男と奥さんが相次いで亡くなります。そのような中で真宗大学で騒動が起きます。真宗大学は色々な規律を学生に科していましたがそれに不満な学生達が改善要求を大学に突きつけました。清沢は自分のやり方に対して学生達がそういう反応をするのであれば学監を辞めるといって辞職しました。いつもの通り思い切ったら行動の早い人です。ところが残された学生達は慌てました。騒動を起した学生達は清沢が辞めるとは思っていなかったのです。あわてて留任の嘆願をしたのですが清沢は受入ず西方寺に帰りました。

41歳 (明治36 1903)四月、三男広済死去(享年五歳)。六月死去。
 そして40年の生涯を閉じました。


 清沢の生涯をざっとたどりましたが40年という短い生涯でこれだけの内容を持った人生は、明治時代といえどもあまりなかったのではないでしょうか。
 戦争は日清戦争が清沢32歳の時に起きますが、日露戦争は亡くなった翌年に起きています。清沢の戦争に対する発言や考え方で現代の学者の中で問題にされる部分があるのですが、今回はそういう面はあえて取り上げず、清沢個人の生涯を中心にお話ししました。

 次に私が清沢に関心を持つようになったいきさつを話します。さきほど言った通り、私がはじめて清沢を知ったのは大谷専修学院という坊主の資格を与える学校に行っていた21歳の頃です。学校では清沢を知っていて当たり前だといった口調で話す。そして経歴を知ってずいぶん高慢な若造といった印象を持った。そういう悪い印象しか持っていなかった。なんでこんな人をありがたがるのか分からなかった。みんな、さも分かったようなふりをして清沢をありがたがっているように見えた。私は宗派のそういう雰囲気に早くから不信感を持っていたので、清沢をまともに調べようとも思わなかった。
 その後、コンピュータ関連の会社でサラリーマンをしながら坊主の仕事もするという生活になります。その中で自分の納得できる仏教や親鸞の理解を求めていたのですが、付き合いのある周りの坊さん達と話しても私の納得できるような答えをしてくれる人はいない。ずいぶん悩みました。そして給料取りの仕事もしなければならない。25歳頃からそういう生活をはじめて40歳くらいまでその状態が続きました。40歳頃そのとき勤めていた会社が仙台を撤退するということになったため、会社を辞めて独立し自分の会社を興しました。そうして12,3年自分の会社を運営した後、会社を清算し住職専業になって約10年近くになります。

 そんな中で1995年に私の仲間の坊主が10人ほど集まって宗派の外から先生を呼んで勉強会をはじめようということになりました。この会に来て頂いた先生が東京経済大学教授の今村仁司さんです。今村さんは当時の日本の哲学思想の分野では第一人者と言えるような方でした。その方が我々の小さい集まりに来てくれるだろうかという不安があったのですが来てくれました。その時は西洋哲学や思想を教えて頂こうという意図でお呼びしました。そしてお付き合いを始めると、今村さんが仏教に興味を示し始めました。そしてあるとき、清沢のことが話題に上りました。当然、今村さんも清沢を知りませんでしたが「そんな人がいたのか」と興味を示し、仲間の一人が持っていた古い清沢の全集を借りて読み始めました。そしてあっという間に清沢にのめりこんでいかれました。今村さんは自分が探求していた哲学思想の問題が仏教の問題と共通だと、我々とつきあう中で考えるようになり、仏教を集中して勉強されるようになりました。その集中のしかたと理解のしかたが端で見ていてすごかった。こんな人が本当にいるんだと思いました。私はそれに勇気づけられて自分が長年悩んでいた問題に正面から向っていくようになり、自分なりに納得する解答を見つけることができました。だから今村さんがいらっしゃらなかったら、こうした形で寺の仕事をすることはできなかったでしょう。私の大恩人です。その人が宗派の中の人ではなかった。その大谷派に無関係だった人が清沢の文章を読んで重要性を見抜き、清沢に関する研究論文を発表するようになった。それが大谷派に衝撃を与えた。そういうきっかけを作ったのが我々の集まりでした。この勉強会はしばらくして「無限洞」と名乗るようになりました。これは清沢の浩々洞に引っかけて会の代表が付けたもので、私はそんな大それた名前はやめてくれといったのですが(笑)。

 清沢の主著に『宗教哲学骸骨』という難しい本があると言いました。しかし今村さんが手を付けるまで宗派の中の学者でこの本をまともに取り上げた人はいなかった。おそらく難しすぎたのです。
画像 しかし今村さんはこれを理解して英語版から現代語訳を作り岩波書店から発行しました。そして私は今村さんがこれだけ熱中するのだったら清沢は凄い人なのだろうと感じて、自分でも読むようになりました。そしてやはり清沢は凄い人だと納得したのです。
 この写真は泉ヶ岳の「やまぼうし」で年2回勉強会をやっていた、十年くらい前の今村さんの写真です。

画像  今村さんは2007年5月に胃ガンで亡くなります。
この年の3月に仙台で勉強会をする予定だったのですが、体調が思わしくないので東京にきてくれるのなら勉強会をやれるという連絡がありました。

画像 そして我々一同が今村さんの勤め先の大学に伺って開いた最後の勉強会の写真がこの2枚です。この二ヶ月後に先生は亡くなりました。

画像 これは清沢が近角から借りて住んでいた建物です。ここに浩々洞があったわけです。元は憲兵の宿舎だったようです。


画像  後に近角はこの場所にこのような建物を建てます。教会みたいですが、山田伍一という京都大学の教授が設計した和洋折衷の仏教伝道のための建物、すなわち寺なのです。近角はこれを「求道会館」と名づけました。


画像 その内部はこのようになっています。
 二ヶ月ほど前にここで「清沢満之研究交流会」という集まりがあり私は参加してきたのですがこれらの写真はその時撮ってきたものです。

画像  なかなかいい雰囲気でした。東京都の文化財に指定されています。2003年頃にこのように修復されたのですが、それまでは荒れ果ててお化け屋敷のようになっていたそうです。それを近角の孫で設計士をしている方が基金を募って修復しました。

画像  そんなことで最後は清沢が住んでいたところの建物の話になりましたが、今日の話はこれで終ります。

 

2015/06/06 公開

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