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四諦・八正道
目次
1 テキスト
2 解説
2.1 諦の意味
2.2 テキストの読み方
2.3 四諦が語られた背景
2.3.1 仏教のはじまり
2.3.2 釈尊の求道
2.3.3 求道の達成
2.3.4 説法の開始
2.4 四諦の解読
2.4.1 四諦の別名
2.4.2 苦諦
2.4.3 苦集諦
2.4.4 苦滅諦
2.4.5 苦滅道諦 ─八正道─
(1)「覚りに至るまでの生活のあり方を示す」場合
(2)「覚りに至った後の生活の規範を示す」場合
(3)「煩悩を断ち切らなければならない」について
仏教聖典 pp.42 「第一節 四つの真理」から引用 (後の説明の都合上番号を振る。)
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(1)この人間世界は苦しみに満ちている。生も苦しみであり、老いも
病も死もみな苦しみである。
怨うらみあるものと会わなければならないこと
も、愛するものと別れなければならないことも、また求めて得られない
ことも苦しみである。まことに、執着しゅうぢゃくを離れない人生はすべて苦し
みである。これを苦しみの真理〔苦諦くたい〕という。
(2)この人生の苦しみが、どうして起こるかというと、それは人間の心に
つきまとう煩悩ぼんのうから起こることは疑いない。その煩悩をつきつめてい
けば、生まれつきそなわっている激しい欲望に根ざしていることがわか
る。このような欲望は、生に対する激しい執着をもととしていて、見る
もの聞くものを欲しがる欲望となる。また転じて、死をさえ願うように
もなる。
これを苦しみの原因〔集諦じったい〕という。
(3)この煩悩の根本を残りなく滅ぼし尽くし、すべての執着を離れれば人
間の苦しみもなくなる。これを苦しみを滅ぼす真理〔滅諦めったい〕という。
(4)この苦しみを滅ぼし尽くした境地に入るには、八つの正しい道
(八正道はっしょうどう)を修めなければならない。八つの正しい道というのは、
正しい見解、正しい思い、正しいことば、正しい行い、正しい生活、
正しい努力、正しい記憶、正しい心の統一
である。これらの八つは欲望を滅ぼ
すための正しい道の真理〔道諦どうたい〕といわれる。
これらの真理を人はしっかり身につけなければならない。というのは、
この世は苦しみに満ちていて、この苦しみから逃れようとする者はだれ
でも煩悩を断ち切らなければならないからである。煩悩と苦しみのなく
なった境地は、さとりによってのみ到達し得る。さとりはこの八つの正
しい道によってのみ達し得られる。
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2.1 諦の意味
「四つの真理」とは「四諦したい」または「四聖諦ししょうたい」と呼ばれる。
その内容に入る前に「諦」の意味を説明する。
「諦」は「諦あきらめる」と訓ずる。
そしてその日常使用での意味は、自分の求めるものへの未練を残しながらもそ
れを断念するということであろう。
マイナスのイメージが濃い言葉である。
多くの仏教語は日常語に取り入れられると、本来とは関係の無い低俗な意
味に変えられてしまう。
例えば、「仏」が死体を指す言葉になったり、
「因縁」が不良行為や他者への無理強いを表したり、
「他力本願」が無責任な他者依存の意味になったりと枚挙に暇が無い。
この「諦」も例外ではない。
本来の「あきらめる」とは「あきらかになる」である。
すなわち「明あきらかになる」であり、それは同時に「明あかるくなる」
ことである。
四諦の「諦」はもちろん本来の意味で使われる。あきらかになるとは心の疑いを
取り去ることであり、またそれは疑いという心の蓋おおいが取り払われること
により、心が明るくなるという働きを持つ。それ故にこそ真理と呼ばれる。
真理という言葉は、仏教においては自分に無関係な事実を述べるものではなく、
自分の心にその働きが現れて明るくなり、その働きを実感したときにはじめて使
われる言葉である。
そして「諦」と「真理」は同じ意味として使われるプラスのイメージの言葉である。
2.2 テキストの読み方
それではテキストの説明に入る。
先ずこの四つの文節を一読されて、読者はどのように感じられるだろうか。
たしかにいちいちもっともなことが書いてあるように見える。
しかしそれが自分にとって何の関係があるのだろう、部分的な言葉にはちょっと
びっくりするが、内容は「苦しみ」とか「滅び」とかの話題で気分を落ち込ませ
る、また四節目の「八つの正しい道」は退屈な道徳の説教のようだ、というのが
おおかたの印象ではないだろうか。
どこに「心を明るくする真理」があるのか、と。
この四諦の教えは、仏教の歴史の中では最初期のものに属する。今から約二千五
百年前、釈尊が覚りを開かれ、仏陀(覚者=仏)となってはじめて行なった説法
の内容に、既に四諦の教えが入っていたと考えられている。
このような原初的な教えの多くは、後にさまざまに整理され、文章として磨き上
げられ、再構成されるという過程を何度も経て今に伝わっている。少ない字数の
中に深い内容と何層にも重なった意味が凝縮され作り上げられている。
しかしまたその避けがたい結果として、字面じづらだけを通りいっぺんに読んだだけ
ではパズルのような文句の羅列で、何を言いたいのかがはっきり伝わってこない
という文章になっているものが多い。
この教えもそうである。
テキストを読んでの第一印象が芳かんばしくないとすればこのような事情が根にある
からである。
さらに芳しくない印象となるもう一つの原因は、常識としての仏教教養を失って
しまった時代に我々はいる、ということである。その中であえて仏教を知ろうと
する者は、語句の意味と、それを支える背景を理解しようという手間と努力を
避けて通れない。
我々はこのような時代にいることを自覚して、目の前にあるテキストを
注意深く解読し、我々自身にとって意味あるものとして展開しなければならない。
実は四諦は仏教の思想体系を全てその中に含めうる程、幅広い概念である。 この小文で扱える範囲を大きく超えたテーマなのだが、何とか要点だけは 示すよう試みる。
2.3 四諦が語られた背景
2.3.1 仏教のはじまり
「生きるということはどういうことか、また自分が生きる世界とは何であるか」
およそ人としてこの問いを起こさない者はいないだろう。問いは心の奥底に横た
わり、時にはっきりとした意識となり自分を悩ませる。
二千五百年前にインドのシャカ族という部族に生まれたガウタマ・シッダールタ
という人は、先ず自分自身の事として、この人間の根本的な問いを明確にし、
そしてその問いに完全な解答を見出した。その後彼は「自分は人間の根本的な問
いに解答を見出した覚者(=仏陀、仏)である。」と宣言し、同じ問いに悩み解
答を求める人々に向かって教えを説きはじめた。彼は他の人々から尊敬をこめて
釈迦牟尼世尊しゃかむにせそん(シャカ族の聖者の意味。略して「釈尊」)、と
呼ばれるようになった。これが仏教のはじまりである。
(後に仏教が伝来した日本ではお釈迦様と呼ばれるのが一般的になった。)
2.3.2 釈尊の求道
さて、この問いはどのようにして我々の心に形作られるのだろう。
それは釈尊の伝記がいみじくも示しているとおり、他人の病・老・死を見て、それ
を不自由・苦しみ・悲しみと感じ、しかもそれが自分の身にも起こることである、
という感情から起こる。このとき、生きていてあたりまえと思っていた自己の生が
あたりまえではないこと、終りが必ず来るものであることとして知らねばならなく
なる。
おそらくこれを最初に意識する時は幼児期で、その恐怖の深刻さは根深い傷
として心に刻み付けられるだろう。この傷は有無を言わさぬ不安と苦しみを引き起
こすものとなる。それを解決するために自分はなぜ、この不安と苦しみを引き起こ
すことになったかと問いを起こす。答えは自分が生きているからである。
ではなぜ自分は生きているのか、それは自分が生まれたからである。この生まれた
という事実も有無を言わさぬものがある。
眼を転じて自分の外を見れば、自分を保護し養育し幸福を運んでくるはずの父母も
同じ不安を抱えるものであることが見えてくる。
また衣食住などの自分にもたらされた幸福は、実は他者の犠牲(食物としての他者
(生物)の死であり、労働という他者の苦しみ)から成り立っている。しかもその
犠牲を手に入れるためには、同じようにそれを欲する別の他者との競争、闘争を行
なわなければならない。また生きるということは不断に湧き起こる欲望(食欲、性
欲を基本とする)を満足させようとする行動であり、欲望は切実でそれを満たすた
めには他者を殺すことも辞さない。
よりよい生活や平和や幸福を求めるということは、裏を返せば自分の欲望を他者と
の闘争の中でいかに実現するかということである。
我々は日常生活では「平和」や「幸福」などの言葉に引きずられこれらを直視する
ことを無意識のうちに避けているだけである。
そこには欲望の拡大が起こり、争いによる恨み憎しみ悲しみを生み出していく。
長じては自分もその闘争の中に入っていかねばならない。
そして自分が生まれたということは、過去の欲望と闘争の
結果としての父母から生まれたということであり、自分もこれから新たな闘争を
生み出して未来を作っていかなければならない。
こうして世界は形作られ、動いていく。この苦しみの大河のような流れから脱出
することはできないのだろうか。
少々現代的にアレンジしたがこれと同種の思いが少年期の釈尊に何度も去来し、
苦悩の根本である問いへの解答を求める思索が長ずるに従って深められていった
はずである。
釈尊の伝記を読むと、少年期から感受性に富み、聡明でずば抜けた集中力と忍耐強 さを持っていたことがわかる。伝記の内容には後代の多分の脚色が施されている が、しかし火の無いところに煙は立たない。
釈尊は恐怖を伴った「生きるとは何か」の問いを追求していく。それは追求すれば
するほど「生きるとは苦しみを新たに作り出していくことである」という、逃げ場
の無い解答を見出すのであるが、決してその結論には満足しない。自分はそこから
の解放を切に願って追求しているのだから。虚無的な心境や絶望への傾斜はあった
だろうが踏み止まる。
また徹底した探求の姿勢は、世間の常識となっている神秘的な解決策を
自分の求める解答では無いと見抜き、ことごとく暴いていく。
すなわちこの世界の外にいるという「神」という対象や自己の死の生まれ変わりと
しての「あの世」などの世界である。
このような対象に解決を見出すことは抗あらがいがたい魅力がある。ほとんどの人がそ
こになびくのもむべなるかな、である。
しかし釈尊の聡明さはその解決策を許さない。神といいあの世といってもそれらは
現に今、証明できないではないか。そのようなものに解決を求めることは探求から
の逃避でしかない。自分は生きている今ここでの完全な解答を求める、と。
探求は少年期に開始され、心の持続的な集中によって深められた。
その長い過程の中で、自己と世界を表す知識を吸収し、言葉によって精密に分析し
把握してきた。欲望とそこから起こる苦悩の種類を分類し、それらに伴う心の動き
や、人と人との関係、世界の動きを解明してきた。そうして遂にもう分析しようが
無いほどの境地まで達すると、自己と世界は克明に把握されていた。しかしその結
論は苦悩から逃れる術すべは一切無いという、明瞭なしかし絶望的なものであった。
自分というものは過去の苦悩の産物として生まれ、新たな苦悩を再生産して死んで
いく。世界はこれらの苦悩の大きな塊である。
ここから自分と世界を救い出し、苦悩から開放される意味付けを与
えることは決してできない。
しかし自分は苦悩から解放されたい。
さあ、どうするか。動くに動けぬ、座るに座
れぬ、立つに立てぬ。
探求は袋小路に追い詰められた。釈尊の精神はこれ以上進むこともできず、戻ること
もできないはるかな極限にまで達してしまった。
逃げ場は金輪際こんりんざい無い。この矛盾の極点にまで追い詰められた境地は、おそら
く時間で表すには不可能である。一瞬かもしれない、一ヶ月かもしれない。
2.3.3 求道の達成
そしてその中で「心の転換が起きる」。
このとき、苦悩を恐れつつ解答を切に望んでいた自分というものが、実は確実なも
のではなくある種のこだわり(執着)であったこと、そのような自分そのものから
離れることこそが解答であること、が一瞬の閃きのもとに現れる。
そうして自分そのものから離れたことにより、その自分に分かちがたく伴っていた
苦悩の全てが消え去る。苦悩からの解放は一瞬のうちに完全になされる。
これが心の転換である。
また探求を続けてきた自分は言葉を操り、言葉による解答を求めた者であった。
そのような自分を離れるところに解答が現れたということは、これは言葉では表現
不可能な解答になる。
つまり「問いに対する解答は、問いを立てる自分そのものが
消滅することによって与えられる」という、矛盾した表現でしか表せないものとな
った。これは単にその論法だけを見れば詭弁きべんとしか言いようのないものに映る。
しかしこの結論に至った本人は命懸けの過程を経てきたのであり、解答を見出した
という大きな驚きと喜びを同時に経験しているのである。
さらにはそれまでの自己と世界への執着から離れることにより、新しい自己と世界
の意味合いが眼前に開けることになる。
以上の一瞬の体験を覚さとりという。
覚りは般若はんにゃと呼ばれ智慧と訳される。また正覚しょうがくともいう。
(後代の仏教では覚りに至ることを般若波羅蜜はんにゃはらみつ、南無阿弥陀仏なむあみだぶつ
といった言葉で表すようになる。)
2.3.4 説法の開始
伝説によると釈尊は三十五歳のとき、十二月八日の暁あかつきに覚りに達したという。
釈尊は命を懸けた目的を達成し、静かな喜びに満たされた瞑想の中にあった。
そしてその瞑想の中で次のような新たな課題が明らかになってくる。
「自己と世界とが別々にあるものととらえてしまうと、そこに
自己と他者という区別が生じ、苦悩と争いが起こる原因が現れる。
また、自己の死というものに囚われ、この世とあの世、神といった対象に縛られる
ことになる。また過去・現在・未来といった苦しみと恐怖が連続する時間に縛られ
ることになる。このような自己、世界、時間へのこだわりを我執がしゅうと呼ぼう。
苦からの解放は我執を離れたところにあった。この覚りの境地にあっては自己や
世界や時間は既に無い。そして我執という蓋おおいがとれると広大な喜びに満たされた。
ここで、あえて自己とは何かと再度問うてみよう。
自己と世界と時間は別々にあるものではない。
自己とは世界であり時間である。覚りの心に無限の世界の広がりを収め、無限の
過去、未来を収める。そしてその中に現れる人々と出来事を収める。
これらの人々は未だ我執に囚われ、苦悩の中にある。
これらの人々を苦悩から解放するために、我執を離れ覚りに至る方法を知らしめて
いかなければならない。
これが自己として今後生きるべき意味となる。」
およそこのような筋道で、釈尊は自分の課題を見極め、覚りに至る教え、すなわち
仏教の説法を開始したと思われる。
釈尊の最初の説法を初転法輪しょてんぽうりんというが、その内容は四諦の教えに極めて近
いものだったと考えられている。
2.4 四諦の解読
2.4.1 四諦の別名
テキストは四つの文節をそれぞれ苦諦、集諦、滅諦、道諦と名づけているが、これ
らの名称は少々略し過ぎの感がある。別の説明的な名づけがあるのでそれらを名称
の由来と共に示す。
| (1)苦諦=苦諦 | 我々が生きて生活するということはすべて苦しみである。 |
| (2)集諦=苦集諦 | 苦しみを集め起す原因は煩悩であり、その根には生に対する激しい執着がある。 |
| (3)滅諦=苦滅諦 | 苦しみの滅した境地(覚り)。 |
| (4)道諦=苦滅道諦 | 苦しみの滅した境地に至るには八正道に従って正しい生活をしなければならない。 |
つまり
(1)で我々の生の状態が苦であり、それが生きることそのことに無条件に備わる
大問題であることを示し、(2)でその問題の原因がどこにあるかを示し、(3)で問題
の解決した状態を示す。そして(4)で(3)の解決に至るための方法を示す。
という構成になっている。
それではそれぞれの「諦」を解読していこう。
2.4.2 苦諦
自己と世界を言葉と分析によって正確に把握していく過程を述べる。
自己が関わるもの、自己が関わる世界すべてが「苦」によって赤裸々に容赦なく
押さえられていく。説法を聞く弟子にとってはそれは逃げ場の無い厳しい現実と
して知らしめられていく。
このような分析の場面では、正確さを期するために仏教はほとんど科学といって
良いような性質を顕あらわし、対象の分類と定義を行なう。
苦も次のように分類される。
| 生、老、病、死 | 四苦 | 八苦 熟語として 「四苦八苦」 |
| 怨みあるものと会わなければならない | 怨憎会苦おんぞうえく | |
| 愛するものと別れなければならない | 愛別離苦あいべつりく | |
| 求めて得られない | 求不得苦ぐふとくく | |
| 執着を離れない人生はすべて苦しみ | 五陰盛苦ごおんじょうく |
2.4.3 苦集諦
それではこれらの苦はなぜ生まれるか。それは苦という結果をもたらす原因とし
て自分の欲(欲求・欲望)があるからである。
(テキストでは煩悩といっている。煩悩の分類は色々な系列があるのだがここでは
混乱を避けるために欲といっておく。)
他者との比較、競争、闘争においては自己顕示欲、名誉欲、金銭欲、権力欲がある。
家庭を構え一家を成すことにおいては所有欲、愛欲、性欲がある。
自分の生を温存させることにおいては食・衣・住への欲がある。
「日常の生活」はこれらの欲に支えられている。
そうして日常生活の中で不可欠な努力、勤勉、協調、博愛、正義、希望といった積
極的な倫理観の背後にはこれらの欲が消し難く控えていることに気づく。
このようにつきつめていくと、さまざまな欲望の結果としての苦の集合体として
自分というものがあると解ってくる。
ではこれらの中で根本の欲と苦は何だろうか。
それは自分がただ単に生きて動かずにいるという状態の時のものになるだろう。
何故ならそのとき自分の欲は他者・他物に向かわない、すなわち苦を拡大生産しな
い状態だからである。そしてこの時、自己の生という苦のみを生産していることに
なる。したがって自己の生を維持しようという欲が最も根本的な苦の原因である、
と考えなければならない。これをテキストでは「生に対する激しい執着」と呼んで
いる。これは「渇愛かつあい」と名づけられている。現代語では「生存本能」と言って
いるものと同等だろう。
この基本的な欲はそれを是非できるものでは無い、自己の生存の無条件の前提と
言うべきものである。よってそこから生み出される「生」という苦は自分の意志努
力によって解決しうるたぐいの問題では無い。
それは「生きてあることそのことが無条件に苦」なのである。生きている限り逃れ
る術すべは無い。
このようにして弟子は、問題の本質が解決不可能なこと、そしてそこから逃れる術
が無いことを思い知らされてゆく。
釈尊は弟子が探求の極限に至るまで導く。覚りを得た釈尊といえど
も弟子に対してできること、すなわち言葉による導きはここまでである。
そして弟子の心の転換を待つ。
2.4.4 苦滅諦
幸いにして弟子に心の転換が起きたとき、問いを起こしていた自己(我執)が消滅
し、喜びに満ち溢れる一瞬を経験する。またそのとき我執が「生に対する激しい執
着」を生み出していたということを知る。
この経験を言葉にするときは、覚りそのものを言葉で表すことはできないので、
言葉で表しうること、すなわち自我の消滅の一瞬を語るしかない。
それがテキストの
「この煩悩の根本を残りなく滅ぼし尽くし、すべての執着を離れれば人
間の苦しみもなくなる。」という文である。
そしてこの言葉を発する弟子の心は喜びに満ち、自我という覆いを取り除のけ、苦と
いう暗闇が消え去った明るさの中にある。
この時点ではじめて、弟子にとって苦、苦集、苦滅の三つの教えが「諦」となる。
苦の滅を「涅槃ねはん」ともいう。涅槃の説明として「ローソクの火を消したような
静寂な境地」などといった弱々しく陰気臭い印象を与える解説をよく見かけるが、
これは解説を書いている本人が字面じづらの意味しかとらえておらず、涅槃すなわち
覚りの真の側面を知らないために起こす間違いである。
(この例は明るくするために点けているローソクをわざわざ消して闇に戻る、という視覚的な
連想を起こさせる点でも良い例とは言えない。雲ひとつ無い晴天の下の鏡のように静まり返った
湖面、とかいった例を思いついても良さそうなものだが。)
繰り返すが、覚りを言葉で表そうとすれば消極表現をせざるをえないのである。
しかしその言葉を発している本人の心は喜びと光に溢れている。諦にはこの二重性
があることを忘れてはいけない。
2.4.5 苦滅道諦 ─八正道─
この節は八正道を述べたものであるが、覚りに至る心の段階を述べた先の三つの
節とは性格が異なり、次の二つの意味を持つ。
(1)覚りに至るまでの生活のあり方を示す。
(2)覚りに至った後の生活の規範を示す。
八正道は正式には八支聖道はっししょうどうといい八聖道はっしょうどうともいう。
先ず八つの言葉の解釈を行なう。
なおすべての語に「正」が付いているが、この正の意味は覚りを目指す、また覚り
を基準とするという意味である。以下のそれぞれの語句の解釈にはこの意味が伴っ
ていることを注意して頂きたい。
| 正しい見解 | 正見しょうけん | 覚りを表す。 |
| 正しい思い | 正思しょうし | 生活の意思的な面(意業いごうという)。 |
| 正しいことば | 正語しょうご | 生活の言語的な面(語業ごごうという)。 |
| 正しい行い | 正業しょうごう | 生活の行為的な面(身業しんごうという)。 |
| 正しい生活 | 正命しょうみょう | 生活そのもの。その内容は正思・正語・正業から成る。 |
| 正しい努力 | 正精進しょうしょうじん | 努力。正命・正定に向かう努力である。 |
| 正しい記憶 | 正念しょうねん | 正精進にあるときの精神的側面。 |
| 正しい心の統一 | 正定しょうぢょう | 心を一点に集中し、かつその心において一切を把握しようとする状況を保つこと。三昧さんまいともいう。 |
解釈を読んで頂くとお解りの通り、これらの八つの語の順番は全く関係性が無い。
すなわち正見から順に進んでいって正定に達すると覚りを得られる、といった単純
な話では無いのである。
順番に囚われると、論点があらぬ方向に飛んでいってしま
う。困ったことに仏教の箇条書きには、このような順序関係の無いものがときどき見られる
ので注意を要する。
(1)「覚りに至るまでの生活のあり方を示す」場合
覚りに至る前は正見は未だ不明である。しかし、そこを手探りで目指している。
目標(正見)をめざす意欲(正思)によって言葉(正語)と行動(正業)が起こさ
れ生活(正命)が成り立っている。その生活の中で目標に至る道を解明するための
努力(正精進)が行なわれ、心が集中し(正定)解明されたことがらが記憶(正念)
されていく。
これは釈尊の少年時代から覚りの直前までの生活のすがたである。
釈尊は自身の求道のすがたを語ることにより、覚りを求める者は必ずこのような
生活の内実が伴わなければならないことを示したのである。
そして目標を日常生活の中でのものごと(例えば勉学、仕事、スポーツなどの目標達成、
芸事、技術の習得や緊急事態への対応など)に置き換えてもこの仕組みは成り立つ。
およそ人間として何事かを成し遂げようとするときは、この八正道の生活を必ず行なうのである。
(2)「覚りに至った後の生活の規範を示す」場合
さて、長い道程の末、覚りに到達した者は人生の最大目標を達成したことになる。
そのまま世間でイメージされているような光り輝く聖者になれればめでたし、めで
たしで話は簡単なのだが、それは御伽噺おとぎばなしの世界である。御伽噺とは人間の精
神面の欲望から出た妄想である。
(妄想というと現代語の感触ではイメージが別になるかもしれない。想像力の産物
といってもよい。ちなみに妄想だといって軽んずるようなもので
はなく、苦悩の世界の構成要素として力あるものである。仏教ではこれを「天」と
名づけてきちんとした位置に分類している。)
先に書いたように覚りは一瞬のうちに達成され、その体験の喜びは非常に大きなも
のであるが、その一瞬の後に我が身を振り返れば、当然の如く何も変わっていない。
欲と苦の充満する世界の中で今後も生き続けなければならない。
しかし内面では変わった事がある。それは覚りに達した体験を根拠にして、今後は
そこを自己の心の基準とし、そこから苦の世界での日常に対処していくという姿勢
である。
すなわち覚り(正見)によって意欲(正思)、言葉(正語)、行動(正業)をチェ
ックし生活(正命)を整えていく。毎日の生活をその姿勢で維持するよう努め(正精進)、
絶えず覚りの立場に戻り(正定)、覚りの経験を深めていく(正念)。
そうして覚りによってチェックされた生活では、自分と他者の苦悩を消滅させる
ことは出来ないが、しかし苦悩を少しでも薄め軽くしていこうとする行動を起こす
ようになる。
また機会を見計らって他者を覚りに導く行為にも出る。これが「善」や「慈悲」と
言われる行為である。この行為を行なう
自分は苦の世界における自我が外面であるが、内面の根拠は自我の消滅した覚りに
置いている。したがってそこに日常の意味での「自分」は無いから、行為を為した
当人は自分が行なったとは認めず、覚りの働きが他者に現れたと見る。
(3)「煩悩を断ち切らなければならない」について
最後に言わずもがなの注意をする。テキストに「この苦しみから逃れようとする
者はだれでも煩悩を断ち切らなければならないからである。」とある。
「煩悩を断ち切らなければならない」とは、当然ながら、煩悩を有する自我の消滅
する覚りを目指さなければならない、という意味である。
そして煩悩を完全に断ち切った覚りは、煩悩を有する我が身の心の奥底において
心を離れたものとして出現し経験される。
これは煩悩を有する我が身の現在の一瞬の経験である。
この点を取り違え「煩悩を断ち切らなければならない」を字面だけで解釈してしま
うと、釈尊の当時から現代に至るまで根強く続く苦行主義の発想に走ってしまうこと
になる。修行と称し心身を痛めつけることにより、煩悩の力を抑え、できれば生き
ている身において消滅させようという原理的に不可能な努力である。なぜ原理的に
不可能かというと、これまで見てきたように心身は煩悩によって作り上げられているからである。
「煩悩を断ち切らなければならない」を字面どおりに解釈すれば自殺するしかない。
苦行の発想は目標と方法を取り違えてしまっているし、そこに気づこうとしない傲慢さが垣間見
える。
つまるところ苦行は緩慢な自殺の域を出ない。また釈尊の中道の教えに反する。
(中道については後に言及する機会があると思う。)
この取り違えを釈尊は
「義に依りて語に依らざるべし」
(言葉の示そうとする意味を己の責任において
良く考えよ、無責任に字面だけの解釈をするな)と厳しく戒めている。
2007/12/31 星 研良