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ささえあって─苦悩は起る
目次
1 テキスト
2 解説
2.1 「ささえあって」の意味
2.2 縁起
2.3 憂・悲・苦・悶
2.4 富・名誉利欲・悦楽への執着
2.5 自分自身への執着
2.6 貪愛・無明
2.7 さとりへの転換
仏教聖典 pp.42 「第三節 ささえあって」から引用
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第三節 ささえあって
一、それでは、人びとの憂い、悲しみ、苦しみ、もだえは、どうして
起こるのか。つまりそれは、人に執着しゅうぢゃくがあるからである。
富に執着し、名誉利欲に執着し、悦楽に執着し、自分自身に執着する。
この執着から苦しみ悩みが生まれる。
初めから、この世界にはいろいろの災いがあり、そのうえ、老いと病
と死とを避けることができないから、悲しみや苦しみがある。
しかし、それらもつきつめてみれば、執着があるから、悲しみや苦し
みとなるのであり、執着を離れさえすれば、すべての悩み苦しみはあと
かたもなく消えうせる。
さらにこの執着を押しつめてみると、人びとの心のうちに、無明むみょうと
貪愛とんないとが見いだされる。
無明はうつり変わるもののすがたに眼が開けず、因果の道理に暗いこ
とである。
貪愛とは、得ることのできないものを貪って、執着し愛着することである。
もともと、ものに差別はないのに、差別を認めるのは、この無明と貪愛と
のはたらきである。もともと、ものに良否はないのに、良否を見るのは、この
無明と貪愛とのはたらきである。
すべての人びとは、常によこしまな思いを起して、愚かさのために正
しく見ることができなくなり、自我にとらわれて間違った行いをし、そ
の結果、迷いの身を生ずることになる。
業ごうを田とし心を種とし、無明の土に覆われ、貪愛の雨でうるおい、自
我の水をそそぎ、よこしまな見方を増して、この迷いを生み出している。
二、だから、結局のところ、憂いと悲しみと苦しみと悩みのある迷い
の世界を生み出すものは、この心である。
迷いのこの世は、ただこの心から現われた心の影にほかならず、
さとりの世界もまた、この心から現われる。
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2.1 「ささえあって」の意味
今回の節の題名「ささえあって」は、この文句だけを見ると、何か良いイメージの
ように受け取ってしまいそうである。
「ささえあって、困難を乗り越えていこう」とか「ささえあって、助け合って生き
ていきましょう」とか、テレビ・新聞などでよく目にする、ある種の特定の広告主
が出す、毒にも薬にもならない退屈な説教広告と同類の内容を連想してしまう。
しかし、ここでの「ささえあって」の意味するところは全く違うのである。
我々の日常生活は苦しみ、悩みに満ちていると言っていい。そしてそれらの苦悩に
は様々な原因がある。苦悩を解決するためにはその原因を探り、それらがどのよう
に寄り集まって苦悩を作り上げているかを知らねばならない。
釈尊は苦悩の成り立ちの仕組みを解明された。これを縁起という。
縁起とは様々な原因が寄り集まって「ささえあって」心の苦悩を形作っているとい
うことを説明する仕組みである。
ここでの「ささえあって」とは縁起を指す意味で使われている。
(この節の題名を「ささえあって」とした編集者のセンスには
ブラックユーモアに近い諧謔かいぎゃくが感じられる。)
2.2 縁起
さて縁起とは「縁よりて起こる」と読む。縁起の詳しい説明をすると結構難しい議論
になる。それはこの解説シリーズの趣旨から少々外れた専門的な話になってしま
うので行わない。代りに縁起の意味として次の簡潔な説明を挙げておく。これはお
そらく釈尊が実際に言われたであろう言葉に近い文句であると考えられる。
縁起の意味:
「此これがあるとき、彼かれがある。此れが起こるとき、彼が起こる。
此れがないとき、彼がない。此れが滅するとき、彼が滅する。」
この字面じづらだけから受ける印象は、何の変哲もない平凡な説明というところでは
ないだろうか。
何かに縁よって別の何かがあるというのは、ことさら説明をされるまでも
なく当たり前のことである。
釈尊はこんな退屈な文句を警句としたのか、と、まともに相手をする意欲が失せ
てしまう気持ちになりがちである。そして仏教史においても当の仏教徒がそのよう
に反応し、縁起を半ば忘却してきた、と私は考えている。
しかし、そのように受け取ってしまっては、縁起の真の意味を見失ってしまう。
我々は、何故このような一見当たり前の文句を釈尊がわざわざ示したのか、という
点にこそ注意しなければならない。注意を払いつつ釈尊の考えを理解しようと進む
とき、そこには驚くべき世界が開かれてくる。
2.3 憂・悲・苦・悶
それではテキストに従って「ささえあって」すなわち「縁起」の意味を解明してい
こう。
我々の日常生活の苦悩をテキストでは「憂い、悲しみ、苦しみ、もだえ」(憂・悲
・苦・悶)と表して
いる。これはその辛さの度合いの軽い方から重い方に並べられているといっていい
ように見える。
「憂い」の状態は辛さはまだ軽微である。心は沈みがちではあるが日常生活は続け
られる。それが「悲しみ」「苦しみ」「もだえ」に移るに従って、段々と重症に
なり、心の辛さが身体にも現れ、体調に変調を来し、生活を続けることが困難にな
っていく。そして最悪の場合は様々な悲劇的な破局に至ってしまう。
それではこの苦悩は何によって起こるのだろうか。それは
「人に執着があるからである。富に執着し、名誉利欲に執着し、悦楽に執着し、
自分自身に執着する。この執着から苦しみ悩みが生まれる。」
ということで、自分自身と自分に関わりのある世界(世間)に対する執着が苦悩を
生み出していると言っている。
この文句を読むと「富に執着」は富豪のこと、
「名誉利欲に執着」は有名人のこと、「悦楽に執着」は遊び人のこと、
「自分自身に執着」は我を張る人のこと、で、自分のことでは無いと思ってしまい
がちである。すなわち自分の生活
─慎ましい金銭しか持たず、無名で、過度な遊興にも走らず、我を張ることもほ
とんど無い日常を送っている平凡な自分─
には関係の無いことと思ってしまう。
しかし、この文での「人」とは無条件にあらゆる人であり、そこからの例外は
ありえないと考えなければならない。何故か?それは、テキストの記述は明らかに
全人類を視野に入れた議論を展開しているからである。
2.4 富・名誉利欲・悦楽への執着
富については、
慎ましい金銭しか持たない人でも、小額の「富」を持っていることに変わりは無い。
富は現代風に言えば「経済力」となろう。経済力が無い限り我々は人間として生
きていくことができない。そして近代の日本は経済力の無い人
─すなわち様々な条
件によって人間として生きていくことが難しい人─
に対しては保護、補助の仕組み
を作り「富」を配分することにより最低限の生活を保障しているわけである。
(それが実際にどれほど有効に機能しているかどうかは別問題であるが。)
したがって例え生活保護を受けている人でもここでいう「富に執着」する人となる。
また、本当の富豪の場合はさらに別の意味で「富に執着」する問題が出てくる。こ
れは鎌倉時代には「銭ゼニの病」と言われたものであるが、ここではその名を示すに
とどめる。
名誉利欲については、我々は必ず他者との関係の中に生きている。
他者との関係とはわかりやすく言えば、他者に認められたいということである。
子であれば親に認められたいと思う。すなわち親に誉められたいという欲望(利欲)
がある。
親であれば子に喜ばれたいという欲望がある。
人間関係の中で最も基本的な親子関係の中に、既にこのような名誉への欲望が根ざ
している。さらにその上に他人との関係があるが、そこにも名誉欲は不可欠である。
他者との関係で意味を持つ善や美や正義といった徳目も、よく考えるとこの他者に
認められたいという名誉欲があってこそ成り立っていることがわかる。
悦楽については、我々の五感は心地良いものを善しとして取り、そうでないものを
悪しとして捨てる仕組みで出来ている。
すなわち、眼に美しい人や花や絵を善しとして取り、醜いものを悪しとして捨てる。
耳に心地良い声や音楽を取り、赤ん坊の泣き声や車の騒音を捨てる。
舌に味の良い食物を取り、不味い食物を捨てる、等・・・。
我々の善悪の観念もこの取捨を基礎に出来上がっている。
2.5 自分自身への執着
つまり我々が人間として生きている時、そこには是非無く、富、名誉利欲、悦楽へ
の執着が備わってしまっているのである。
これは人間である限り避けることの出来ない事態である。
その避けることのできない富、名誉利欲、悦楽への執着によって、それらを追い求
める自分自身というものが形作られる。
それが真・善・美や正義を好み悪を憎む「私」である。
そしてまた他人も同種の価値判断で自分自身を作り上げるため、そこに他者との関
係の道徳=倫理が現れる。
その倫理観に根ざした「私」は「私のあるべき像すがた」として意識され、そこを
目指すことが当然である強制力を持ってくる。
それは善を求め悪を憎む私であり、人に迷惑をかけず、慈悲深く、謙虚で、健康な
私でなければならない。宮沢賢治の「雨ニモマケズ」の人物であり、親鸞の「穢エヲ
捨テ浄ヲ忻ネガフ者」(教行信証の総序の句)である。
そしてこの「私のあるべき像」こそが自分自身への執着なのである。
このような「私のあるべき像」を作ることもまた避けられない。何故ならそうしな
ければ人間としての自分の生活が成り立たないのだから。
こうして我々は自分自身に執着せざるをえず、その執着の具体的な現れが、富、
名誉利欲、悦楽への執着となる。
2.6 貪愛・無明
ではこの執着は実際どう働くのか。
それは富や名誉や悦楽を求め、獲得できたときはさらに多くのものを求める、得ら
れぬときは得られるまで煩悶する、という仕組みで動く。
これを貪愛という。
この仕組みの故に貪愛は決して満足をもたらさない。常に求め続ける状態を維持し
なければならない。ここに苦しみが生まれる。
貪愛は求める対象(富、名誉利欲、悦楽)とそれを得る主体(自分自身)があって
成り立つ。
すなわち貪愛が起こる原因には「私のあるべき像」があり、この自分自身によって
求める対象が作り出され、それを追い求め続ける苦しみの連鎖に入っていく。
そのとき「自分自身」とは「変化しない確固とした意識あるもの」として我々は
疑わない。これを仏教では伝統的に「我が」と呼んできた。
「我」は現代語で言えば「自我」という語とほぼ同じ意味であろうし、 また言葉の由来は異なるが「個人」という語とも同じものであろう。
我は本当に確固としたものとしてあるのだろうか?─実はそうではない。
いくら強固な我があると思い込んでいても、己おのれの老、病による否応の無い心身の
変化で、またそれによって引き起こされる死への恐怖によって、我は変わらずに続
くという思い込みを砕かれざるをえない。それにも関わらず、我が確固としたもの
としてあると思い込み、そこに執着することを「無明」という。
2.7 さとりへの転換
我は様々な条件によって維持され、それらの条件は常に変わりうる。従って我は
刻々と変わる一貫性の無いものとして、様々な条件が卵が重なり合うようにして集
まって形作られている、と認めざるをえない。
まさしく我々は累卵るいらんの危機に常に置かれているのである。
ここに眼が開けることを「因果の道理を知る」という。このとき同時に「因果の
道理に眼を塞ぐ心の傾向」=「無明」がはっきりととらえられる。
これはまた縁起に目覚めることである。
そうしてこの不安定な我=自分自身によって、自分と周りの人間関係が作られ、
世界が作られていることに気づく。その世界は貪愛を動力とした行為によって作ら
れ、それによって苦悩(憂・悲・苦・悶)が生産され充満している。
自他の苦悩は執着に「ささえらえて」、執着は貪愛と無明に「ささえられて」起き
ている。
また生起した苦悩は我や貪愛への執着をより強固にしていく。すなわちこれらは
互いに原因ともなり結果ともなって「ささえあって」苦しみの世界を作り出して
いる。
月例会では、割り箸三本を使って、憂・悲・苦・悶と執着と貪愛・無明との 「縁りて起こる」関係を表した。
図のように三つの要因が互いにささえあって我と世界を作り出している。
この要因のどれか一つを外せば、他の二つは倒れる。よって苦悩の世界は消滅する。
これが「執着を離れさえすれば、すべての悩み苦しみはあとかたもなく消えうせ
る。」の意味であるが、このことは実は我々が生存を止める、ということに等しい。
この文章は正しい理屈を述べているが、それを実行せよとは言っていない。
あえて実行しようとすれば自殺するしか無いだろう。
この文章の意図はそこにあるのでなく、我々の生存と世界のあり方の理屈を徹底し
て知れ、というところにある。
そうして徹底して知り、苦悩からの逃げ場が皆無であることを知った時こそ、
そこに苦悩に囚われない不動の依り所を見出す。
その立場においては「すべての悩み苦しみはあとかたもなく消えうせる」ことを
同時に知る。このように文章としては矛盾表現にならざるを得ないが、
この立場を「さとり」という。
まとめると、「変わらざる我」に執着する己の心によって自己と世界の苦悩が生み
出され、またそのような我を離れることによって苦悩の消えたさとりの立場を、
己の心に見出すことが出来る、ということになる。
2008/02/20 星 研良
月例会では、割り箸三本を使って、憂・悲・苦・悶と執着と貪愛・無明との
「縁りて起こる」関係を表した。