真宗大谷派 西照寺

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「こだわる」ということ、「こだわりを離れる」ということ


 先ず、テキストを朗読してみよう。内容は難しいものであるが、それを無理に理解しようとするより、 読み流しながら「普通と違う言葉遣い」に注意を向けて欲しい。またその語感を味わって欲しい。

真実のすがた       (仏教聖典 五八頁〜六二頁)

一、この世のすべてのものは、みな縁によって現われたものであるから、もともとちがいはない。 ちがいを見るのは、人びとの偏見である。
 大空に東西の区別がないのに、人びとは東西の区別をつけ、東だ西だと執着しゅうじゃくする。
 数はもともと、一から無限の数まで、それぞれ完全な数であって、量には多少の区別はないの であるけれども、人びとは欲の心からはからって、多少の区別をつける。
 もともと生もなければ滅もないのに、生死の区別を見、また、人間の行為それ自体には善もな ければ悪もないのに、善悪の対立を見るのが、人びとの偏見である。
 仏はこの偏見を離れて、世の中は空に浮かぶ雲のような、また幻のようなもので、捨てるも 取るもみなむなしいことであると見、心のはからいを離れている。

二、人ははからいから、すべてのものに執着する。富に執着し、財に執着し、名に執着し、命に執着する。
 有無、善悪、正邪、すべてのものにとらわれて迷いを重ね苦しみと悩みとを招く。
 ここに、ひとりの人がいて、長い旅を続け、とあるところで大きな河を見て、こう思った。 この河のこちらの岸は危いが、向こう岸は安らかに見える。そこで筏いかだを作り、その筏によって、 向こうの岸に安らかに着くことができた。そこで「この筏は、わたしを安らかにこちらの岸へ渡して くれた。大変役に立った筏である。だから、この筏を捨てることなく、肩に担かついで、行く先へ 持って行こう。」と思ったのである。
 このとき、この人は筏に対して、しなければならないことをしたといわれるであろうか。そうではない。
 この比喩たとえは、「正しいことさえ執着すべきではなく、捨て離れなければならない。まして、 正しくないことは、なおさら捨てなければならない。」ということを示している。

三、すべてのものは、来ることもなく、去ることもなく、生ずることもなく、滅することもなく、 したがって得ることもなければ、失うこともない。  仏は、「すべてのものは有無の範疇はんちゅうを離れているから、有にあらず、無にあらず生 ずることもなく、滅することもない。」 と説く。すなわち、すべてのものは因縁いんねんから成って いて、ものそれ自体の本性は実在性がないから、有にあらずといい、また因縁から成っているので無 でもないから、無にあらずというのである。  ものの姿を見て、これに執着するのは、迷いの心を招く原因となる。もしも、ものの姿を見ても 執着しないならば、はからいは起こらない。  さとりは、このまことの道理を見て、はからいの心を離れることである。まことに世は夢のよう であり、財宝 もまた幻のようなものである。 絵に見える遠近と同じく、見えるけれども、あるのではない。すべては陽炎かげろうのようなものである。

四、無量の因縁によって現われたものが、永久にそのまま存在すると信ずるのは、常見じょうけんと いう誤った見方である。また、まったくなくなると信ずるのは、断見だんけんという誤った見方である。
 この断・常・有・無は、ものそのものの姿ではなく、人の執着から見た姿である。すべてのものは、 もともとこの執着の姿を離れている。
 ものはすべて縁によって起こったものであるから、みなうつり変わる。実体を持っているもののよう に永遠不変ではない。うつり変わるので、幻のようであり、陽炎のようではあるが、しかも、また、 同時に、そのままで真実である。うつり変わるままに永遠不変なのである。
 川は人にとっては川と見えるけれども、水を火と見る餓鬼がきにとっては、川とは見えない。だから、 川は餓鬼にとっては「ある」とはいえず、人にとっては「ない」とはいえない。
 これと同じように、すべてのものは、みな「ある」ともいえず、「ない」ともいえない、幻のような ものである。
 しかも、この幻のような世界を離れて、真実の世も永遠不変の世もないのであるから、この世を、 仮のものと見るのも誤り、実の世と見るのも誤りである。
 ところが、世の人びとは、この誤りのもとは、この世の上にあると見ているが、この世がすでに 幻とすれば、幻にはからう心があって、人に誤りを生じさせるはずはない。誤りは、この道理を知らず、 仮の世と考え、実の世と考える愚かな人の心に起こる。
  智慧ある人は、この道理をさとって、幻を幻と見るから、ついにこの誤りを犯すことはない。

 今回はこのテキストの中から「執着」という言葉を取り上げて考えてみよう。
執着、すなわち「こだわること」「とらわれること」についてである。
考える材料として最近の石油高と生活、お金などを挙げて話を進める。

 さて、この原油高である。寺の会計簿でガソリン代(ハイオク)を確認してみると次のようになった。

日付1L当りの価格年初からの値上がり率
1月 4日155円 0%
5月26日156円 1%
6月16日166円 7%
7月19日188円21%(本日隣のガソリンスタンドで確認した)


画像 毎日の報道で高い高いと騒ぎ立てる割には、一月ほど前の6月中旬頃までは、急激な値上がりでは 無かったことがわかる。(ただし4月には、道路特定財源の暫定税の廃止と復活という国を挙げての 冗談事件が起ったがこの価格の変化は無視する。)
 値上がりが実感する形で大きく現れてきたのがここ1ヶ月のこと。しかしその前から燃費のかかる 業種では値上げの影響が累積して深刻になっていたようで、イカ釣り船の一斉休漁が6月中旬に起っている。 そして、最近になって一般漁船の全国一斉休漁が行われた。さすがに20%以上も値上がりすると、利益が 吹き飛んでしまうだろう、という想像は素人でもつく。そして魚が今にも手に入らなくなるか、手の届かな くなる高値になるかと、危機感を募らせる報道が行われる。
 昨日まで500円で買えていた魚が20%上がって600円になったら、やはり高いと思う。

これをどう受け取るか。
 さらに漁船の休漁という大規模な事件、石油は今後安くならず国際争奪が激しくなる、といった話を 聞くと、どんどん世の中が悪くなっていき、将来は暗いという気持ちになる。
 また、そんな気持ちで自分や家族の生活を考えると、今年の冬の灯油代は大変な額になるのではない か、今の生活を維持できるのか、貯金を取り崩さなければならないか、貯金を取り崩していったら、 老後の介護が必要になった時の資金が無くなってしまうのではないか、と、不安がどんどんふくれ上がっていく。
 これらの不安や怖れに乗って「なんとかしなければ」と自分の気持ちを追い込んでいくと、自分と自分の 周りを冷静に見られなくなり、狭い視野で色々なことを判断していくようになる。
 そして、心境をせせこましいものにし、人間関係はトゲトゲしいものになり、毎日の気分は重苦しい ものになる。それらが、さまざまなもっと悪い事態を引き起こす下地を作り出していく。 この影響が考え 方ばかりでなく、日常の習慣、動作、ちょっとしたしぐさにまでしみ込んでいって「自分」の人格を作って いく。そして「世の中の見え方」に暗い色を付け、ゆがみを作り出す。四六時中、起きている間はもちろん、 寝ている間も夢となって縛られる。
 これが「執着する、こだわる、とらわれる」者の生活の姿である。

 さてしかし、石油や物価の上昇、また世の中の動きは自分が思い込んでいる通りのものなのだろうか。 石油の価格は国と国との関係も含め、無数の人々の思惑やかけひきや打算で決まってくるものだろう。 たしかに資源としては枯渇しつつあり今後安くなるということはほとんど考えられない。しかし、 本当に自分の生活をゆるがすほどの緊急なことか?と、あえて問うてみよう
 灯油代金が払えないという怖れがあるのなら、そういう灯油の使い方をする自分の生活とは何なのか を考えてみよう。そして、そもそも守るべき生活とは、自分が思い込んでいるほど確実なものか。
 将来の介護のための貯金はもちろん備えなければならないが、しかし「将来の介護」という怖れにのみ とらわれてはいないか。
 自分というもの、自分の生活というものは、そんなに今思いこんでいるように予定通りに動いていくものか。
 決してそうではない。
自分が直面する状況は、自分が知りえないさまざま要因が重なりあって、毎日毎日新しい現実として現れてくる。 これを「縁」また「因縁」という。
 自分のこだわりにしがみついていると、その現れてきた現実に一喜一憂し、オロオロし続けなければならない。 しかしある時、そんな考え方の根元を冷静になって省みてみよう、「自分が、自分の」と思っている立場を 「ふっ」と離れてみよう、という気持ちが一瞬起るときがある。この機会を逃してはいけない
 そしてそこから、生活を考えなおし、とらえなおし、心の置き方を少しづつ変えていく。これが「こだわり を離れる」というあり方の第一歩となる。
 ここに気づくと、自分の考えにのみ重きをおくのではなく、他人の考えや心のありようも少しづつ受け入れ、 理解できるようになる。そして「こだわっていた自分」とは別の「自分のあり方」があることが見えてくる。 同時に「こだわりの考え方」がいかに根深くしみこんでいるか、ということに気づく。そして、この掃除を開始する。
 例えれば、透明なガラス窓に汚れがびっしりこびりついてしまって、全く向こう側が見えないようなものである。 掃除を始めるがなかなか取れるものではない。根気強く拭いていくと、徐々に汚れが取れ反対側も見えるようになる。 しかし、そこで油断してはいけない。汚れる原因である「こだわりの縁」が絶えず、ガラスに降りかかり、また汚そうと する。それを丹念に拭き取りながら、少しづつ透明な範囲を広げていく努力をする。この作業にはそのつど汚れを直視 する注意深さが必要だ。
 ちょっとした気持ちの変化をも見逃さず、冷静にとらえる。自分の癖になってしまっている、何かを怖れる気分、 避けようとする心の変化、あるいは不安定な気分の盛り上がりをとらえ、その気持ちに乗りそうになる自分を「外す」 また「踏みとどまる」。なぜなら、その気分に乗ってしまうと、またこだわりの環の中に入ってしまいかねないから。
 このような生活を意識して続けていると、あるとき、自分のあり方が根本から変わってきていることに気づく。 いつのまにか「自分だ」と思っていたこだわりから離れて、軽く自由で広い心境にあることに気づく。以前思い込んで いた「自分の生活」の囚われから解放されていることに気づく。

 毎日が気持ちの良い晴天が続かないように、すべてが自分の望み通りに動くわけではない。しかし、毎日を晴天と 思い込み、すべてが自分の望み通りに動くと思い込む、これが「常見」の例の一つである。
 また毎日が憂鬱な雨天が続かないように、すべてが自分の望みに反して動くわけではない。 しかし、毎日を雨天と思い込み、あらゆることに絶望してしまう、これが「断見」の例の一つである。
 天気とは晴にも雨にもなるものであるということを、受入れなければならない。
常見も断見も、心の浅いところで全てを決め付けてしまう危うさがある。これを浅ましい心といっていいだろう。 浅ましい心には辛抱強さが欠けている。辛抱強さとは、現実とは縁によって与えられてくるものだ、それを注意深く 受入れ、かつ待たなければならない、という謙虚さである。そして「自分が」という心で決め付けようという欲望を 静めることである。しかし最近はこの浅ましい心が、どんどん蔓延する傾向にある。

 「幻のようなものである」という言い方には悪い意味と良い意味の二つがある。
 悪い意味。こだわりにある者においては、自分が思い描く生活─貯金や老後や家族や健康─を追い求めるが、 それらは決して満たされることなく、現実という縁によって起る不測の事態に常に脅かされ、幻のごとく求める 手から離れていく。
 良い意味。こだわりを離れ、また離れる努力をする者においては、 自分が思い描く生活は幻のごとく去って いくということを知るから、現実の生活の中で経験する悲しみ、喜びを貴重なものとして謙虚に受け止める。 それらの記憶は縁となってさまざまな面で心を深め広くしてゆき、それまで知りえなかった自分というものを 切り開いていく。幻のごときものだからこそ、それにしがみつかず、二度とない経験として大切に記憶に止める。

 以上、厳しい生活の現実に直面されている方から見れば、閑職にある坊主のたわごとと思われるかもしれない。 操業するほど赤字を累積し破産の予感に追い詰められる漁師、自身が癌にならないのが不思議なくらいの過密 スケジュールに追いまくられる医師、劣悪な条件で国による派遣雇用と化している公立学校の非常勤講師、 ほとんど身分保障の無い現場で働かざるをえない様々な業種の作業者、等。そして老若を問わず、将来に望み を描き得ない社会情勢。
 制度的にも経済的にも、個人がじっくりと反省する機会を得ることが非常に難しくなっている今日、こんな あやふやな話につきあっている暇があるか、と。
 しかし、それゆえにこそと言うべきか、たまたま己おのれ一人の足元を見直すきっかけを得る 時こそ、千載一遇のチャンスなのである。この機会を決して逃してはいけない。自分が追い詰められていると 感じているならば、なおさら踏みとどまって熟慮しなければならない。親鸞が次のように言うごとく。

たまたま行信ぎょうしんを獲うれば、遠く宿縁しゅくえんを慶よろこべ。 もしまたこのたび疑網ぎもうに 覆蔽ふへいせられなば、かえりてまた曠劫こうごうを径歴きょうりゃくせん。(教行信証序文)

「行信」とは「こだわりを離れる」というあり方で説明した内容である。
「疑網に覆蔽せられる」とは「こだわる自分」にまた舞い戻ることである。
「曠劫を径歴する」とは「こだわる自分」に戻ってしまったら、そこから再度脱出することは非常に難しく、 死ぬまでチャンスは巡ってこないかもしれない、ということである。

                                 2008/07/22

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