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中道ちゅうどう
今回の節「かたよらない道」(仏教聖典 六二頁〜七〇頁)は、仏教の覚りの核心が凝縮されて、つめこまれた感がある。
文章も他の節と比べて多い。読むだけでも大変である。この内容はとても一時間程度で説明できるものではない。
どうか読者は後でこの節を心静かに通読してほしい。言葉の意味がわからないところが多々あるだろうが、気にすることはない。
文章から立ち現れてくる、カミソリの刃の上を歩むが如き姿勢、しかしそれは同時に他のいかなる考えにも揺さぶられることの無い
立場でもある。この一見矛盾するような感覚が一致した境地の凄さを感じ取り、味わって欲しい。
カミソリの刃の上にあるようなありさまを禅系の道元は
「百尺の竿さおの上に立って、そこから更に宙に一歩を踏み出す」と言った。
(道元の弟子の書いた正法眼蔵随聞記の第三の一に、百尺竿頭の喩えとして引いている。)
他のいかなる考えにも揺さぶられない不動のありさまを唐代の浄土教系の善導は
「水・火の二つの河の中間に走る幅四、五寸ばかりの道を渡る。常に足は水に浸され滑らされ、
火に焼かれ痛みですくわれそうになり、一歩一歩に転落の危険性がつきまとう。
しかし、この道を歩むことに迷いは無い。」と言った。
(親鸞が書いた教行信証の信巻に、善導の二河の比喩として引いている。)
時代も仏教への関わり方も違う二人の言葉ながら、どちらも覚りというひとつのものを違った角度からとらえた印象を語っている。
今回はこの節の中で覚りを表す言葉の一つとして挙げられている「中道」をとりあげる。
テキストのその部分を引用しよう。
一、道を修めるものとして、避けなければならない二つの偏った生活がある。その一は、欲に負けて、欲にふける卑しい生活であり、 その二は、いたずらに自分の心身を責めさいなむ苦行の生活である。
この二つの偏った生活を離れて、心眼を開き、智慧を進め、さとりに導く中道の生活がある。
この中道の生活とは何であるか。正しい見方、正しい思い、正しいことば、正しい行い、正しい生活、正しい努力、正しい記憶、 正しい心の統一、この八つの正しい道である。
すべてのものは縁によって生滅するものであるから、有と無とを離れている。愚かな者は、あるいは有と見、あるいは無と見るが、 正しい智慧の見るところは、有と無とを離れている。これが中道の正しい見方である。
先ず、中道の「中」の意味を明らかにしなければならない。そのために「人間生活」に必ず含まれる「家族」と「金銭」を
例に話を進めよう。
人間生活とは単純に言うと衣食住のある生活である。そして現代はその衣食住を手に入れるために金銭が無ければならない。
我々には、金銭を得るために職に就く、ということが避けることのできない条件として課せられている。大多数の人々は
その条件の下で、妥協的な形で仕事というものを選ばざるをえない。
親にとっては、わが子を育てるということも、この条件から逃れることはできない。子に希望や夢を与えることに親としての
使命を感じていても、一皮むけばそこには生活のための金銭を得る職に就くことを強要せざるをえない動機を抱え込んでいる。
金銭を得る道が絶たれるということは衣食住を確保できなくなるということであり、人としての生活の道を絶たれる
ということである。我々は常にこの恐怖にさらされている。
そして親は、自分自身が金銭を得る為の職に就かざるをえなかったつらい過去を思う。
なんとなく金銭や生活からは離れているようなイメージを与える「寺」に住まう坊主も同じようにこの恐怖に囚われている。
何故なら坊主といっても家庭を持ち家族を持つ故に衣食住にこだわらざるを得ず、それらを得るための金銭にこだわらざるを
得ないからである。よって一般の職業と全く同じ立場にならざるをえない。
さて、そのような否応なしに金銭を求めざるをえない立場にある我々は、さまざまな矛盾の経験を重ねつつ人生を歩む。
そうして歩みつつ考える。
衣食住を得る行為の底には何と恐ろしいほどの量のさまざまな苦しみの要因が横たわっていることだろうか。
金銭というものは自分や家族が人としての生命をつなぐ糧でありながら、何と空しさ・脆さ・卑怯さ・傲慢さ・裏切り
を内に含んだものなのだろうか。
そうして生命の糧を得る引き換えに生命を空しく費やす時間を支払わなければならない。
子として親を見るに、親はその金銭のために何と多くの犠牲を払っていることだろうか。
親として、これから職に就かざるを得ない子を見るに、何と苛酷な世間に子を送り出さなければならないのだろうか。
そして、金銭を得るということは間接的に他者を殺しているということと同じである、また自分を殺しつつあることと
同じである、という点に思い至る。
このような人間生活についての、避けることのできない問題にぶち当たったとき、我々は苦しさのあまり、
その問題の本質を直視することを避けるようになる。そして、苦しさを紛らわす妥協点として
「過度に金銭を求めることは良くない」─それはより多くの他者を殺すことであり、家族に限界を越える負担を強いることであり、
人格崩壊に繋がりかねない危険を呼び寄せることである─といった判断が現れる。
それは常識あるいは良識となり「何事もほどほどに」といった妥協的な考え方として身についてくる。
問題の矛盾の本質を直視することを避けているために「過度」か「ほどほど」かという程度問題にすりかえざるをえないのである。
そこから「中程度」といった言葉や、「一億総中流」という一昔前の流行語も作られた。
そのような「ほどほど」としての「中」が日常語の意味として根強くある。しかし、この考え方の枠の中で自分自身の悩みの
解決を求めるときは、必ず袋小路にぶち当たり、生きる意欲を失い、無気力になり、あるいは鬱病にかかる危険性を呼び込む。
もともと問題を直視することを避けているから当然である。「ほどほど」には人間生活の矛盾の解決に至る出口は無い。
また、「ほどほど」に妥協しないにしても、金銭を得なければならないという脅迫感を解消するために、
(1)「心配しなくても良いほどの金銭を得る=大金持ちになる」という極端な方向。
に走るか
(2)「問題の原因である金銭を得ることを止める=貧困になる」という極端な方向。
に走る誘惑に駆られる。
(1)がテキストで言うところの「欲にふける卑しい生活」であり(2)が「いたずらに自分の心身を責めさいなむ苦行の生活」
である。何れの生活も待っているのは、問題の解決ではなく身の破滅である。
この破滅への道を歩んでいることをうすうす感じながら、立ち止まって反省することのない者をテキストでは「愚かな者」
と言っている。そしてその愚かな者が歩む(1)の立場を「有」といい、また(2)の立場を「無」という。
どちらにせよ、自分自身を省みず、安直に答を求めようとする姿勢を「有無の見」また「有無に囚われている」という。
しかし仏教の「中」の意味は、「ほどほど」とは全く異なるということを注意しなければならない。
そして「有」の立場でもなく「無」の立場でもない、その二つの囚われから解放された立場を「中」というのである。
テキストにあるとおり中道とは覚りであり、覚りを歩む者の生活の姿勢・内容を表す言葉である。
すなわち、カミソリの刃の上に立つような緊張感を持つものであり、同時にいかなる意見にも揺さぶられない安定感を持つもの
である。
「ほどほど」という出口の無い絶望の袋小路を突破し、「有」「無」の何れの破滅の淵にも沈むことの無い立場がここにある。
金銭まみれのこの世間にありながら、それを乗り越えていく方向がこの中道に示されている。
この仏教の「中」の立場はどうしたら得られるのだろうか。
それは人間生活の根本にある矛盾からは逃れることができない、ということを真正面から受け止めるところから開かれる。
ほどほどの立場では「矛盾から逃れることはできない」と知りながらそれを直視することを避けようとし、
やはり逃れようとしているのである。そして「有」「無」の立場では無反省で安直な解決に固執する。
そのような心の姿勢を見極め、それを「捨てる」。
これが道元の言う「百尺の竿頭から宙に一歩を踏み出す」時であり、善導の言う「水火の二河の中間を通る道に一歩を踏み出す」
時である。
この「捨てる」決断は、本人が心底、矛盾から逃れる道は無いと知って行うしか無い。
蓮如の言葉で言えば「一人一人のしのぎ」である。(蓮如上人御一代聞書 一七二)
このとき人は「ほどほどの世界」や「有無の世界」すなわち「人間生活」を「捨てる」ことにより「死ぬ」。
死を覚悟して、竿の先から宙に一歩を踏み出す。百尺(30メートル)の空中を落下して地面に叩き潰された、
と思いきや、なんと、自分はそもそもから、竿の先ではなく元の地面に立っていたではないか、と知る。
また死を覚悟して、平均台のような細い道に足を踏み出す。一歩一歩は水に滑らされ、火に炙られる苦しみを伴う、おそらく
数歩も耐え切れまい、と思いきや、なんと、道の存在が足裏を通して確固としたものとして感じられ、その安定感が苦しみや
恐怖に打ち勝つものであることを知る。
そうして死を覚悟した自分はしかし生きていて、その世界は「捨てた」はずの人間生活であるがその只中にあって、ほどほどの袋小路や有無の見
の破滅の淵からは解放された「中」の立場を得た自分を知る。
この自分の考えと行動の基準となっていくものがテキストでいう「八つの正しい道」(八正道)である。
「中」の生き方においては「ほどほど」というなまぬるい絶望の袋小路や「有」「無」の破滅の淵に誘われそうになる心の傾向を
捕え、その芽を摘み取り、乗り越えていく姿勢が要点となってくる。
つまり金銭にまみれる生活の中にありながら、空しさ・脆さ・卑怯さ・傲慢さ・裏切りなどを乗り越えていく姿勢である。
その乗り越えの経験の中に、都度新たに解放される自分を認め、その自分と共にある家族も変わるものであることを、
認めることができるようになる。
毎日の具体的な生活の中で八正道がどのように現れるかがポイントで、そこを説明しないとこの文章全体が
片手落ちになる面があるのだが、これについては機会を改めて書くことにする。
2008/09/22