真宗大谷派 西照寺

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と仏性ぶっしょう


 このように、人には仏性ぶっしょうがあるというと、それは他の教えでいう我と同じであると 思うかも知れないが、それは誤りである。
 我の考えは執着心しゅうぢゃくしんによって考えられるけれども、さとった人にとっては、 我は否定されなければならない執着であり、仏性は開きあらわさなければならない宝である。仏性は我に似ているけれども、 「われあり」とか「わがもの」とかいう場合の我ではない。

 我があると考えるのは、ないものをあると考える、さかさまの見方であり、仏性を認めないことも、あるものをないと 考える、さかさまの見方である。
 (仏教聖典 82頁)

 「我」という言葉は意味をいろいろにとることができるので扱いが難しい言葉です。基本的には「自分、 自分自身」という意味ですが、「我を張る、我を通す」といった言い回しでは「周りの迷惑を省みない自分勝手な者」 という悪い意味合いとなります。しかしまた我を「自分」といいかえて考えると、「自分の主張は堂々と述べる」 「自分の責任は自分で取る」「自分の目標をなしとげる」とかいった言い回しで、積極的にものごとに関わり困難に たちむかい解決していく、といった善い意味合いがあります。独立自尊と言ってもよいですし、現在の学校教育の 基本もこの辺にあるのでしょう。
 このような日常の言い回しでは、どちらかというと悪い意味合いに「我」が、それよりもう少し広い範囲でかつ善い 意味合いを含むときは「自分」がそれぞれ使い分けられているように思われます。

 そして悪い意味合いでないかぎり、「自分」を立てそこで周囲と関わりを作っていくことは、生活していく上で 必ずすべきことで、そうしなければ「私」はいません。
「私」は悪い意味合いの「我」と善い意味合いの「自分」をあわせ持ち、毎日を悩みながら生きているのですが、 その悩みを解決するために、次のような考えが出てきます。

自分の中の「我を張る」といった悪い部分を取り除き「主張を堂々と述べ、周囲と協力し、困難に打ち勝っていく」 という善い部分を残して、それを育てていけばよいのだろうか。

と。普通、「道徳」や「善悪の判断」はこの考え方の上に立っていますし、実際この考え方を守らなければ私たちの 日常生活はなりたちません。しかし、この考えは完全に正しいのでしょうか。なぜなら、私たちはこのような考え方を しなければならないと自分に言い聞かせつつ、しかしこの考えを全うすることができずに毎日苦しんでいるからです。
 そして、今回の仏教聖典の引用にある仏性はこの苦しみを解決してくれるもののように受け取れます。そうであれば 是非ともその仏性を手に入れたいものです。そのためには引用文で言われている「我」と「仏性」がどのようなもの なのかを明らかにする必要があります。この引用で言われている我について考えられることは次の二つです。

1.我は悪い意味を指している。したがって「我は否定されなければならない執着である」というのは、 その悪い部分を取り除くことである。そうすれば善い意味の「自分」が残る。それが仏性である。

2.我は悪い意味合いの「我」と善い意味合いの「自分」の二つとも指している。したがって「我は否定さ れなければならない執着である」というのは、悪い我ばかりでなく善い自分をも取り除いてしまうことである。
(しかし、このようなとらえ方に意味があるのか、悪い我と善い自分をともに取り除いてしまったら、あとに何が 残るのか、そのとき「私」はどこに行ってしまうのか、といった疑いがこの解釈に対して起ります。)

 今回はこの二つの場合を吟味し、我と仏性の意味を明らかにしてみましょう。

1の場合を考える

 我を張るということを私の体験を省みながら検討してみます。
 自分の考えが正しいと思い込み、人の意見を聞かず、自分の考えに背く者は間違っていると決め付けます。 これを引用では「執着心」と言っています。「我執がしゅう」とも言います。
 この立場では自分が正しい、自分が善いという考えを頼りに、その考えを押し通して生活しようとします。そこに 当然ですが家族や他人と摩擦や争いが起ります。家庭内の不和や暴力を引き起こすさまざまな原因を作り出して いきます。他人を支配しようとし、勝つか負けるかの世界を作り出してしまいます。しかし、その自分に対して 周囲は抵抗しますから、我を通しきることは出来ないばかりか、こちらが強く出れば出るほど、周囲は激しく 反発します。そのストレスが精神的・身体的異常、病気を呼び込みます。つまり、我を張るということは自分自身に 対しても周囲に対しても、争いや苦しみや不安や恐怖──ひとことで言えば「悪」を引き起こし呼び寄せることに なるのです。

 我を張るのが悪いことだというのは分りました。それでは、自分の気持ちの中のそのような部分を取り除いて いこう──そうすれば悪を引き起こす原因が無くなるので、善いことができるようになる──のでしょうか?  これを更に詳しく考えてみましょう。

 先ず、我を張る自分を反省し、我執の強さをほとんど目立たないくらいに静めたとします。(それは反省の深さと 注意深さによって可能でしょう。) すると、自分の内外に強いストレスはかからなくなりますので、他人からは 柔和になったとか、円くなったとか良い評価を受け、心身的にもより健康な状態になるでしょう。
 しかしそれで自分の「悪い部分」は取り除かれたのでしょうか?──そうではありません。我を大きくしていこうと する力が静まっただけのことで、「自分は自分だ、俺は俺だ」と思っている「私」は残っているのです。そしてよく 考えてみると、この「私」が無ければ、生きていられないことがわかります。
 「俺は俺だ」と思っている私があってこそ心と身体があるのであり、心身を生き長らえさせるために衣食住を必死に 求めます。また自分に密接に関わる者として家族があり、家族を養うために必死で働こうとします。その姿は家族に とっては「お父さんは自分を犠牲にして私達の生活を守ってくれる」という「善」と映るのですが、父たる自分に とっては、つきつめれば「俺は俺だ」と思っている「私」を守ることが動機なのです。自己犠牲は尊いことですし 軽んずることはできませんが、その行為の底にはこの動機が必ずあります。そして人間である限りこの動機を避ける ことはできません。この動機が、消そうと思って努力すれば消えるようなものではないことは、少し考えてみれば わかります。
 そしてこの動機に立つ自分は、消したと思った「我」が状況によってはまた頭をもたげてくる自分であること、 自分はそれしかないこと、そのような自分から変わりようがないこと、が分ります。こうして自分というものを 悪である我と善である自分の二つに分けることはできないこと、したがって「悪である我を消せば善である自分が 現れる」という考えは成り立たないことがわかりました。

 ここで再度言いますが、だからといって悪をおさえる努力をすることが無駄だと言っているのではありません。 悪をおさえる努力は可能な限りすべきで、それは世間に生きる我々にとっては責務と言ってよい、重要なものです。 しかし、その努力だけでは自分の苦しみの根本的な解決にはならない、ということを指摘したのです。根本的な解決策は 別に求めなければなりません。それはどうも2の立場にしかなさそうです。

2の場合を考える

「我は否定されなければならない執着である」というのは、悪い我ばかりでなく善い自分をも取り除いてしまうことで ある。──これは一体、どういうことでしょうか。言葉の意味だけを考えれば、悪い我と善い自分を立てるその底にある 「自分は自分だ」と思っている「私」を消してしまう、ということになります。これは「自殺したほうが良い」と言って いるようなものです。生きているかぎり「自分は自分だ」と思わないわけにはいかないのですから。これが結論でしょう か?理屈としては筋が通っているように見えます。しかし決してそうではありません。なぜなら、自殺すれば自己犠牲を 払って守ってきた家族に対して、大きな悲しみと生命の危険(経済的苦境)という「悪」の爆弾を落とすことになるから です。
 ここで理屈の上では動くに動けなくなります。・・・・・どうすればこの状況を解決できるでしょうか。
 道は一つしかありません。
動くに動けぬ袋小路に至った理屈は「自分は自分だ」という考えの上に成り立っています。その理屈が行き詰まり、 動くに動けなくなったのですから、それを成り立たせている「自分は自分だ」という考えを「自殺しないで」投げ捨てる しかありません。──いったい、そんなことが可能でしょうか。
 しかし、そのようにためらっている間は決して袋小路から抜け出せません。不可能だとしても道はこれしか残されて いないのですから。

 今現在の心において「自分」を投げ捨て、「自分の向こう側」に飛び込むのです。
「自分の向こう側」とは既にたとえ話の言い方になってしまっていますが、是非無くこのようなたとえを出さざるを えません。なぜなら言葉というものは「自分は自分だ」と考えるところに現れるものであり、「自分の向こう側」は 言葉では表すことはできないものだからです。
 そうして「自分の向こう側」に飛び込んだとき、はじめて「自分は自分だ」と思い込み、楔くさびのように 深く打ち込まれて、そこで身動きが取れずにいたものが、実は陽炎かげろうのようなもので、頼りとするに 足るものではなかったことを知ります。それが「我は否定されなければならない執着である」と解ったときです。
 そしてそのとき、心の拠って立つところが換わります。心はあくまでこれまでの「自分」ですが、その心 の拠って立つところは「自分の向こう側」になるのです。そして「自分は自分だ」という考え方をえぐり出し、忍耐強く 修正していこうとする姿勢が芽を出します。これが「仏性」です。
 この芽を守り育てていくことが仏性を見出した者の日常生活になっていくのですが、それが本来の意味での「修行」 です。つまり修行とは山に籠って特別なことをするようなものではなく、我々の毎日の生活を仏性を見出した立場から 行うことです。その詳しい内容は別の機会に解説することにします。

                                 2009/01/25

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