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人の性質のとらえ方について
「人の性質」という今回の節はなかなか意味深長な文章からなっています。短い節なので読んでみましょう。 文章には分りやすくなるように見出しと箇条分けを追加してあります。
一、人の性質は、ちょうど入口のわからない薮やぶのように、わかりにくい。 これに比べると、獣の性質はかえってわかりやすい。このわかりにくい性質の人を区分して、次の四種類とする。
苦くを及ぼす範囲による四分類
1 一つには、自ら苦しむ人で、間違った教えを受けて苦行する。
2 二つには、他人を苦しめる人で、殺したり盗んだり、そのほかさまざまなむごい仕業しわざ
をする。
3 三つには、自ら苦しむとともに他人をも苦しめる人である。
4 四つには、自らも苦しまず、また他人をも苦しめない人で、欲を離れて安らかに生き、
仏の教えを守って、殺すことなく盗むことなく、清らかな行いをする人である。
二、またこの世には三種の人がある。岩に刻きざんだ文字のような人と、砂に書いた文字のような人と、 水に書いた文字のような人である。
怒りの強さによる三分類
1 岩に刻んだ文字のような人とは、しばしば腹を立てて、その怒りを長く続け、怒りが、
刻み込んだ文字のように消えることのない人をいう。
2 砂に書いた文字のような人とは、しばしば腹を立てるが、その怒りが、砂に書いた文字の
ように、速すみやかに消え去る人を指す。
3 水に書いた文字のような人とは、水の上に文字を書いても、流れて形にならないように、
他人の悪口や不快なことばを聞いても、少しも心に跡あとを留めることもなく、
温和おんわな気の満ちている人のことをいう。
また、ほかにも三種類の人がある。
驕慢きょうまん(おごり、たかぶり)の強さによる三分類
1 第一の人は、その性質がわかりやすく、心高ぶり、かるはずみであって、
常に落ち着きのない人である。
2 第二の人は、その性質がわかりにくく、静かにへりくだって、ものごとに注意深く、
欲を忍ぶ人である。
3 第三の人は、その性質がまったくわかりにくく、自分の煩悩を滅ぼし尽くした人のことである。
このように、さまざまに人を区別することができるが、その実じつ、人の性質は容易に知ることはできない。 ただ、仏だけがこれらの性質を知りぬいて、さまざまに教えを示す。
(仏教聖典94〜96頁)
最初の例は人を自と他に分けてそこに起る苦の影響範囲で人の性質を分類しています。
二番目の例は、怒りの強さの度合いで人を分類しています。
三番目の例は、驕慢(おごり、たかぶり)の強さの度合いで人を分類しています。
このように「苦」「怒り」「おごり、たかぶり」といった「悪い感情」、すなわち煩悩(怒りと驕慢は煩悩に含まれます)
と、煩悩のもたらす結果(苦は煩悩の結果として感じるものです)の度合いによって分類されています。
その度合いの強い人が「悪い状態にある人」であり、度合いの弱い人が「良い状態にある人」です。
ここで、比較のために世間で人の性質を評価する場合どうするかを考えてみましょう。
世間は人の評価があふれている場といえます。例を見つけるには事欠かないわけですが、
分り易い例として小学校の通信簿から拾ってみます。ここに私の息子が小学校の時の通信簿を持ってきました。
平成11年度、3・4・5・6年用です。
表紙には「めざす児童像」としてこの学校の子供育成の目標が掲げてあり「やさしい子」「つよい子」
「かしこい子」とあります。
開いて左側のページは各教科の評価です。これらがそれぞれ良い方から悪いほうへ「よくできた」「できた」「がんばろう」
の三段階で評価されています。
右側のページには「生活のようす」とあり、本人の日常の振舞いを14項目に分けてそれぞれを
「すすんでできた」「できた」「がんばろう」の三段階で評価されています。
この「生活のようす」が今回の話題と関連があると思われますので、ここに14項目を書き写して、
私なりに対応する語句を当てはめてみます。(私の語彙ごい能力不足で不適当な言葉を割り当てている場合は、
お知らせ頂くと助かります。)
| 1 | 健康や安全に気をつけて生活することができる | 注意力 |
| 2 | 礼儀正しく節度ある生活ができる | 礼節 |
| 3 | 物や時間を大切にし用具の準備や後始末をきちんとできる | 倹約・整理能力 |
| 4 | 正直に明るい心で楽しく生活できる | 正直・快活 |
| 5 | 自分から進んで仕事を見つけ、積極的に取り組むことができる | 積極性 |
| 6 | 学習や仕事を最後までやりとおすことができる | 忍耐力 |
| 7 | 自分の言動に責任をもち、信頼される行動をとることができる | 責任感 |
| 8 | 工夫しながら物事にとりくむことができる | 創意工夫 |
| 9 | 相手のことを思いやり、親切にすることができる | 同情心 |
| 10 | 相手の気持ちや立場を理解し、誰とでも協力しあうことができる | 協調性 |
| 11 | 自然やいのちあるものを大切にすることができる | 慈悲心 |
| 12 | 働くことの大切さを知り進んで働いたり奉仕活動をすることができる | 社会参画性 |
| 13 | 相手の立場に立って公平・公正に行動することができる | 正義感 |
| 14 | 約束や社会のきまりを守って人に迷惑をかけないようにできる | 義務感 |
通信簿というものは、子供を社会に適応できるように育てる経過の記録と言えるでしょう。
その意味で大人の価値観がにじみ出ているものといえます。
ここでは通信簿に表れた子供の評価基準の特徴を見てみます。そしてそれは大人の世界における
評価基準につながるものであり、すなわち私達が人というものをどう見るか、人の性質をどうとらえるか、
そのとらえ方に通じるものがあるのです。
そこで、今挙げた14項目に私がつけた言葉をもう一度並べてみましょう。
1 注意力、2 礼節、3 倹約・整理能力、4 正直・快活、5 積極性、6 忍耐力、7 責任感、
8 創意工夫、9 同情心、10 協調性、11 慈悲心、12 社会参画性、13 正義感、14 義務感
こうして見てみると、大人が子供に求める期待像がはっきりしてきます。そして、これらを全て満たすことは
大人ですら非常に困難であることを思い知らされます。
さて、この14項目の特徴に目を向けてみると、すべての項目が努力してそれを達成するような性質のものである、
と言えます。したがって評価のしかたも
「すすんでできた」「できた」「がんばろう」
です。
これが大人の社会にも通づる、人の評価のしかたで、人の性質のとらえかたにつながるものです。
積極的に外に向って他人との関係を築いていくことを中心とした、分りやすいとらえかたです。
さてそこで、改めて本日のテキストを見てみましょう。通信簿の例と同じく三つの性質のとらえ方の
グループに名前を付けてみます。
1 苦の影響度、2 怒りの強さ、3 驕慢の強さ
これらは、努力して達成するようなものではなく、消していく方が望ましいものです。
したがって評価のしかたも通信簿にならって書けば次のような四段階くらいになるでしょう。
「ほとんど無くなった」「かなり弱くなった」「まだ強い」「とても強い」
これは仏教における人間の基本的なとらえ方の特徴を表しているといえます。
仏教でも通信簿と同じような積極的な人間の見方はもちろん有って、それは非常に重要なものなのですが、
さらにそれより基本的なものとして、この「消していく」とらえ方があります。これは「煩悩を消していく程度」
による人の性質のとらえ方ということになります。
そしていつの時代にも誤解され混乱の元にもなることですが、テキストの言い回しのように、
文字通りに煩悩を消すということは、私達が生きているかぎりは完全にはできないことです。
生きているかぎりは腹が減ります。すなわち食欲という煩悩が起ります。
そして他の生物を殺して飢えを満たさねばなりません。そうして生存を続けるかぎり、性欲が表れ、
また他人に対して怒りやおごり・高ぶりが表れます。これは避けようがないことです。
生身しょうしんにおいて仏(覚者)となられた釈尊も、それは避けることのできない問題であったはずです。
なにしろ仏になられてからも約五十年間、八十歳まで生きられたのですから。
そして生きているかぎり消すことのできない煩悩を抱えながら、それをいかに消していくか、
という矛盾した問題を解決することに仏教は取り組みました。そこから煩悩を静め、制御していくという方法を柱とした、
性質のとらえ方が作られました。
この方法は自分の外に向って解決を求めるのでなく、自分の内に向って解決を求めるという姿勢が強いもので、
通信簿とくらべてわかりにくいものです。しかし、外に向かう姿勢では自分の苦しみの根本の問題を解決できない、
と悟る時が来るものです。その時私達は答えを内に向かって求めるべきこと、そのわかりにくさに耐える決意をします。
私達は苦や怒り、驕慢といった煩悩を内に見つめ、それらを静め、制御しようと反省する中で、その煩悩の深さが、
掘っても掘っても底無しのように続く鉱脈のようなものであることを思い知らされます。
そこを指して真宗の宗派用語では「罪悪ざいあく深重じんじゅう煩悩ぼんのう熾盛しじょう」
と表します。
しかしこのように知ることは同時に、その煩悩を静め、制御していこうという覚悟がより強く固まっていくことでもあり、
煩悩の僕しもべとなるような軽はずみな行動から解放され離れていくことでもあるのです。
この反省に立って釈尊の生涯の記録を改めてたどってみると、釈尊は生身の人間として煩悩を静め、
制御する力に群を抜いたものがあった、と納得せしめられ、釈尊に向かって我が頭こうべが下がる経験を得ます。
それが釈尊が仏と敬い慕われた理由の一つであったことでしょう。
そして、煩悩を静め制御するという生活から体感される境地が、心の平安であり、清清すがすがしさであり、
湧き上がる喜びであったことを知ります。
そこから、真の平和ともいうべきものへの方向がおぼろげながらも見えてきます。
二千年前の大乗仏教徒はその方向を「浄土」と名づけたと私は考えています。
2009/04/19