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「生きている」ことの中身
今回の節は「現実の人生」というタイトルで次の六つ話から成っています。
1.河の喩たとえ、2.井戸の喩、3.四匹の毒蛇の喩、
4.母と子の話、5.閻魔えんま王の話、6.キサーゴータミーの話
これらの喩は、それぞれが一風変わっていて面白いものですが、実は喩の奇抜きばつさから受ける印象ほどには 簡単ではないのです。本日はこの中から1.川の喩、2.井戸の喩、6.キサーゴータミーの話を取り上げます。はじめに 川の喩と井戸の喩を読んでみましょう。
河の喩
ここに人生にたとえた物語がある。ある人が、河の流れに舟を浮かべて下るとする。岸に立つ人が声をからして叫んだ。 「楽しそうに流れを下ることをやめよ。下流には波が立ち、渦巻うずまきがあり、鰐わにと恐ろしい 夜叉やしゃとの住む淵ふちがある。そのままに下れば死ななければならない。」と。
このたとえで「河の流れ」とは、愛欲の生活をいい、「楽しそうに下る」とは、自分の身に執着することであり、 「波立つ」とは、怒りと悩みの生活を表わし、「渦巻き」とは、欲の楽しみを示し、「鰐と恐ろしい夜叉の住む淵」とは、 罪によって滅びる生活を指し、「岸に立つ人」とは、仏をいうのである。(九六頁)
井戸の喩
ここにもう一つのたとえがある。ひとりの男が罪を犯して逃げた。追手が迫ってきたので、彼は絶体絶命になって、 ふと足もとを見ると、古井戸があり、藤蔓ふじつるが下がっている。彼はその藤蔓をつたって、 井戸の中へ降りようとすると、下で毒蛇が口を開けて待っているのが見える。しかたなくその藤蔓を命の綱にして、 宙ちゅうにぶら下がっている。やがて、手が抜けそうに痛んでくる。そのうえ白黒二匹の鼠ねずみが現われて、 その藤蔓をかじり始める。
藤蔓がかみ切られたとき、下へ落ちて餌食にならなければならない。そのとき、ふと頭をあげて上を見ると、 蜂の巣から蜂蜜はちみつの甘いしずくが一滴二滴と口の中へしたたり落ちてくる。 すると、男は自分の危い立場を忘れて、うっとりとなるのである。
この比喩たとえで、「ひとり」とは、ひとり生まれひとり死ぬ孤独の姿であり、「追手」や「毒蛇」は、 この欲のもとになるおのれの身体のことであり、「古井戸の藤蔓」とは、人の命のことであり、「白黒二匹の鼠」とは、 歳月を示し、「蜂蜜のしずく」とは、眼前の欲の楽しさのことである。
河の喩について考えて見ます。この喩では「河の流れを下る(愛欲の生活をする)」こと、「楽しそうに流れを下る
(自分の身に執着する)」ことを、止めなければならないような言い方がされていますが、さて、自分の生活と身体を反省して、
このようなものだと知ったとしても、そもそもそこから離れることはできるのでしょうか。
これまで色々な言い方で申し上げてきた通り、私たちの愛欲や執着の生活が「止めようと思ったら止められること」
「離れようと思ったら離れられること」、そのようなことがらから組み立てられているのであれば、あまり悩む必要は無いのです。
そういうものであれば、それこそ「努力して」河の流れから離れる、あるいは井戸の喩でいえば、藤蔓を登り返して追手に
立ち向かうという、勇気ある決然とした態度を取れば良いのです。しかし、その立ち向かう相手は実は私たち自身の心であり、
身体であるのです。このとき私たちにはそのような力があるのでしょうか。
自分の愛欲や執着を深く反省すればするほど、自分というものがそこで成り立っているものであること、
愛欲や執着を離れては自分というものがありえないことを、思い知らされるものではないでしょうか。少なくとも私はそうです。
若いときは、自分というものの立場を深く反省すること少ないために「希望」や「可能性」といった言葉のイメージにつられて、
さも自分が何か全く別のものに成り得るような想像を懐きます。そして想像を懐く多くの人々の中のごく少数の人々が、
たまたま自分が想像した者になることもあるでしょう。これが世に言う成功物語です。また学校勉強のやりかたでもあると思います。
このような想像が無ければ、私たちは積極的に日常生活を営むことはできません。が、しかしまた、このような想像は
信頼するに足るものでしょうか。私たちは、自分が生きているという内容を反省すればするほど、自分というものへの
期待を込めた想像は、取るに足りない泡あぶくのようなものであることを思い知ることになるのではないでしょうか。
ともすると、このような反省は消極的で、非社交的で、好ましくないもののようににも思われがちです。
何故そんな陰気な考え方をするのか、と。
しかし私はこの反省が大切だと思います。実はこのとき「これで本当に良いのか」という、静かな疑問が芽生えているのです。
このときの心情は、自分が生きてきた人生の長さが多いほど、積み上げた経験への愛いとおしさが強くなると同時に、
そんなものは取るに足りないという相反する感情が入り混じるものとなります。
そして「これで本当に良いのか」という心の内に湧いた疑問が、河の喩でいう「岸から呼びかける声」、
すなわち仏の声であろうと思います。
このとき、私たちは自分の生というものを、何かを解決していくようなものとしてでなく、また何かを成し遂げようと
しているものでもなく、今現にあること、そのようにあらねばならぬこと、そこから離れられないことを、
深く愧はじる立場を自覚することになります。これが慚愧ざんぎです。
普通「恥じる」というと自分の為してしまった行いを、人に向かって、あるいは自分自身に向かって恥じるわけです。
この気持ちの起きることは、自分の行為を反省するという点で尊いことですが、十分ではありません、
何故なら自分が生きてある、ということそのことを恥じるまでには至っていないからです。これに対して慚愧は「慚」も
「愧」も「はじる(はぢる)」という意味ですが、安心決定抄(あんじんけつじょうしょう)という鎌倉時代の書物では
慚愧を次のように説明しています。
「慚愧の二字をば天てんにはぢ人にんにはづと釈す」と。
自分が生きてあること、生きねばならぬこと、そうすることが避けられないものであることを知り、またそれを
「はじる」気持ちが起きたときそれは「人にはぢる」ばかりでなく「天にはぢる」ことになります。
これが河の喩や井戸の喩が自分の事として分かった時です。親鸞はその時の気持ちを次のように表しています。
誠まことに知りぬ。悲しきかな、 愚禿鸞ぐとくらん、 愛欲の広海こうかいに沈没ちんもつし、 名利みょうりの 太山たいせんに迷惑めいわくして、定聚じょうじゅの数かず に入ることを喜ばず、真証しんしょうの証さとりに近づくことを快たのしまざることを、 恥はづべし傷いたむべし (『教行信証きょうぎょうしんしょう』信の巻から)
そこに「これで本当に良いのか」という反省の声が自分の心の中に聞こえ、それが自分の声でありながら「仏の声」になるのです。
そして、どうしようもない自分をどうしようもないままに受け入れ、また世界を受け入れるという立場を見つけることができます。
そのとき、私たちは自分の煩悩の生を受け入れると共に、しかも煩悩に囚われない立場を、かすかではあるが発見することになるで
しょう。
次のキサーゴータミーの話はこの発見を成し得た人の逸話と言えます。
キサーゴータミーの話
裕福な家の若い嫁であったキサーゴータミーは、そのひとり子の男の子が、幼くして死んだので、気が狂い、 冷たい骸むくろを抱いて巷ちまたに出、子供の病を治す者はいないかと尋ね回った。
この狂った女をどうすることもできず、町の人びとはただ哀あわれげに見送るだけであったが、 釈尊しゃくそんの信者がこれを見かねて、その女に祇園精舎ぎおんしょうじゃの釈尊のもとに 行くようにすすめた。彼女は早速、釈尊のもとへ子供を抱いて行った。
釈尊は静かにその様子を見て、「女よ、この子の病を治すには、芥子けしの実がいる。町に出て四・五粒 もらってくるがよい。しかし、その芥子の実は、まだ一度も死者の出ない家からもらってこなければならない。」と言われた。
狂った母は、町に出て芥子の実を求めた。芥子の実は得やすかったけれども、死人の出ない家は、どこにも求めることができなかった。 ついに求める芥子の実を得ることができず、仏ほとけのもとにもどった。かの女は釈尊の静かな姿に接し、 初めて釈尊のことばの意味をさとり、夢から覚めたように気がつき、わが子の冷たい骸むくろを墓所ぼしょにおき、 釈尊のもとに帰ってきて弟子となった。(百一頁)
2009/05/23