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迷路
仏教聖典102ページ「迷いのすがた」。ここには、私達の毎日の生活の避けることのできない 穢きたないあり方、できるだけ見ないで済ませたいと思い、無意識に避けている面が容赦なく描かれています。 抜き出して引用してみましょう。
この世の人びとは、人情が薄く、親しみ愛することを知らない。しかも、つまらないことを争いあい、激しい悪と苦しみの中にあって、 それぞれの仕事を勤めて、ようやく、その日を過ごしている。
立場の高下にかかわらず、富の多少にかかわらず、すべてみな金銭のことだけに苦しむ。 なければないで苦しみ、あればあるで苦しみ、ひたすらに欲のために心を使って、安らかなときがない。
富める人は、田があれば田を憂え、家があれば家を憂え、すべて存在するものに執着し て憂いを重ねる。あるいは災いにあい、困難に出会い、奪われ焼かれてなくなると、苦しみ悩んで命までも失うようになる。 しかも死への道はひとりで歩み、だれもつき従う者はない。
貧しいものは、常に足らないことに苦しみ、家を欲しがり、田を欲しがり、この欲しい欲しいの思いに焼かれて、 心身ともに疲れはててしまう。このために命を全うすることができずに、中途で死ぬようなこともある。
親子、兄弟、夫婦、親族など、すべて、それぞれおのれの道がなく、守るところもない。 ただ、おのれを中心にして欲をほしいままにし、互いに欺あざむきあい、心と口とが別々になっ ていて誠まことがない。
だれも彼もみなよこしまな思いを抱き、みだらな思いに心をこがし、男女の間に道がなく、そのために、 徒党を組んで争い戦い、常に非道を重ねている。
互いに善い行為をすることを考えず、ともに教えあって悪い行為をし、偽り、むだ口、悪 口、二枚舌を使って、互いに傷つけあっている。ともに尊敬しあうことを知らないで、自分だけが尊い 偉いものであるかのように考え、他人を傷つけて省みるところがない。
すべてのものは怠りなまけて、善い行為をすることさえ知らず、恩も知らず、義務も知らず、ただ欲のままに動いて、 他人に迷惑をかけ、ついには恐ろしい罪を犯すようになる。
恩愛のきずなにつながれては憂いに閉ざされ、長い月日を経ても、いたましい思いを解 くことができない。それとともに、激しい貧りにおぼれては、悪意に包まれ、でたらめに事を起こし、 他人と争い、真実の道に親しむことができず、寿命も尽きないうちに、死に追いやられ、永劫に苦しまなければならない。
ただおのれにのみ何でも厚くして、他人に恵むことを知らない。そのうえ、欲に迫られてあらゆる煩悩を働かせ、 そのために苦しみ、またその結果によって苦しむ。
ここに描かれた悪や罪は約二千年前の文章にもかかわらず、現代の私達にとっても生々しく、納得させられものがあります。
私達にとっては悪いことは善いことよりもはるかに分り易いもののようです。
これらの経典の文章が書かれてから現代まで二千年の歳月が経て、文明の進歩によって私達の生活の外面上の快適さや豊かさは、
比較できないほどに改善されたことでしょう。しかし私達一人一人の心の問題は当時と全く変わらない苦しみの中にあり、
これからもある、ということを思い知らされます。
さて、今回の節の内容を次のような図にしてみました。
私達は親の庇護のもとに生れ育ち、長ずるに従って、世間との関わりを持ちはじめ、将来への希望を抱き、恋をし、
仕事に就きます。そうした歳月を過す中で、自分のため家族のため、あるいは自分に関わりのある人のため、
良かれと思うことを、一所懸命になって成し遂げようと努力します。
若い時には野心を抱き、学校勉強で他人との競争の中にありますが、どんなに純真な子供でも競争に勝てば傲慢が、
また負ければ妬みが表れます。
職に就き、自分の労働の対価である給料を受け取るようになると、それが自分が欲しい量すなわち金銭欲を満たしているか
どうかで、満足にも不満にもなりますが、しかし、欲しい量というのは、実は他人と比べて、多いか少ないかということなのです。
少ない時は多い者への妬み・怒りが、多いときは傲慢となりそれが更により多くの対価が欲しいという金銭欲に変わります。
異性に恋をして(愛欲)めでたくそれを成就したとしても、その裏側には他の同性(つまり恋敵)との争いがあり、
そこに怒り・妬み・傲慢が表れます。また家庭を持ち社会生活を送るということは、自分の持ち物(自分自身、配偶者、子、家、
土地、財産・・・)を他と比較し他より良いものを得ようという欲望がつきまとうものであり、そこから逃れることは出来ません。
配偶者に対して不満を抱き、他の異性と比較してそちらに心が傾けば(浮気)、自身の愛欲に囚われると共に、
配偶者の怒りを招きます。家族のため働くということは、実は裏側にこのような他との比較がつきまとい、その比較の中で、
不満足ながらも妥協点を探して、無理やり納得するという面があります。そうして年月が過ぎ家族が成長し、
自分というものが世間にも認められていく中で、更により多くを認めて欲しいという名誉欲に囚われます。
こうして私達は愛欲や金銭欲、傲慢、妬み、名誉欲などの煩悩の様々な側面に囚われながら、その間を右往左往し、
自分は正しい道を歩んでいると思いつつ、実は煩悩の迷路の中を何年もさまようのです。自分でもうすうす、
出口の無い迷路であると感じつつも、そこから抜け出す方法が見つからないので、愛欲で行き詰まれば、
金銭欲に出口を見いだそうとし、金銭欲で行き詰まれば名誉欲に逃げ込もうとします。こうして月日を経ることを
「人生経験を積む」とも言いますが、しかしあるとき、はっと気づくのです。自分は様々な欲の間を這いずり回り、
空しく時を費やして来ただけだった、と。そのときはじめて、迷路の中を動き回る愚かさを知り、立ち止まります。
今回の節の内容は、そのように立ち止まった人が省みた自分自身の心の姿を、表わしたものと言えます。
自分自身の心がこのように絶望的なものである、ということは分りました。これ以上空しくさまよって力を浪費してはなりません。
力はこの迷路を抜け出すために使わなければなりません。
しかし、どこにその出口はあるのでしょう。立ち止まって知ったことは、どこにも出口が見いだせなかったという事実です。
更に言えば、出口を見出そうとして動き出せば、また元の迷路をさまようことになるのです。私達が生きるということは、
事実上この迷路の中を動き回ることでしかありません。
さて、どうすれば良いのでしょう?
このとき、非常に判りにくい形でうっすらと心の中に浮かび上がってくるものがあります。それは、
迷路をさまよい歩かなければならない根本の問題は何か、ということです。
それは「自分が何とかしたい、ああしたい、こうしたい」という思いです。その思いから、自分の望みを抱き、恋人を求め、
家族の安泰を求め、豊かさを求め、世間を気遣い、平和を求めてきました。家族のため、人のため、世のためと思ってきましたが、
それは私の思いの中にある、家族であり、人であり、世でした。
すなわち、自他に善かれと思って願い行ってきたことは「自分の思い通りになる」家族や、世間を求めていたことであったのです。
そして、思い通りにならなければ、それを従わせようとします。
迷路の中で立ち止まるとき、ここにすべての苦しみの根本があったと、うすうす気づくことになります。そして、ともかくも、
自分の思いを押し通すことは止めよう、人の思いを慮おもんぱかろう、という気持ちが芽生えます。
劇的でも感動的でもありませんが、この芽生えた思いから、迷路を離れるあり方が見出される、と私は考えます。
私達は「人間」です。人間とは「人と人との間」です。私達は、誰にも頼らず自分の考えで自立して生きている、
と思い込みがちですが、それが先程の「我が思い」というものを作り出し、恐るべき迷路を作り上げるのです。
しかし、「我が思い」は、そんなに立派でも完全でも偉いものでも無いと知ったとき、他人(先ずは自分のすぐ側に前から居た家族)
の思いを省みる心が起きます。それが、自分は一人で生きているのではないということを本当に思い知っていく第一歩となります。
そして「我が思い」を「人と人との間にある思い」に換えていくのです。
そのとき、「共に生きる」ということが、新しく拓けていく心境の中に実感され、毎日の生活の中で、
迷路の囚われから徐々に解放されていくことを知るでしょう。
因みに、この迷路からの離れ方は、立ち止まった点から一気に跳躍して外に出るようなものではありません。
私達は手っ取り早い解決法としてそれを望みます。その誘惑は非常に強く、仏教の中でも苦行や特別な修行で覚る、
という考え方を生み出してしまいました。しかし、そのようなやり方で覚れると思うのは幻想です。
覚りとは、迷路の中に在って、迷路の障壁が段々と透けてきて外側が見えてくる、そして外側にいる他人の我が思いに苦しむ姿を、
共感して見ることができ、そこに手を差し伸べようという意欲が湧いてくる、そういうものだと思います。
2009/06/22