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本願を知るタイミング
今回の節、仏教聖典109ページ「仏の願い」は無量寿経から取られています。以下の文章で節の内容を引用しましたが、 これらは原本の無量寿経では法蔵菩薩の願文になります。引用には原本との対応がつくように願文の番号を付加しました。
先日、梅雨の晴間の午前中に、ふと思い立って、ずっと気になっていた雨樋あまどいの掃除をしました。
皆さんご覧の通り、西照寺の建物はほとんどが二階建てです。二階屋根の雨樋掃除となると大ごとで、素人の私では出来ませんが、
一階屋根であればハシゴを掛ければ何とかなります。
一年ほど前に、屋根の板金屋さんに頼んで全部掃除してもらっていたのですが、二ヶ月もすると詰まってしまい、
ずっと気になっていたのです。そして大雨が降ると溢れかえる場所が三カ所あり、それが全部一階屋根のあたりだったので、
掃除を始めることにしました。
汚れてもいいように長袖のトレーナーとズボンに着替え、ゴム手袋をして炎天下の作業となりました。
初めに別棟の北側ところです。水平の軒樋のきといが縦樋たてといと合わさるじょうごの部分が
詰まっています。雀が巣を作る為に運んだ草や枝が大部分です。西照寺にお見えになる方から「いつも鳥の声が聞こえていいですね」
と言われることがありますが、雀が運ぶ草や枝の量は半端ではなく、それがあっという間に雨樋を詰まらせます。
じょうごが詰まっているので、軒樋の水が抜けられず、溜まって腐りかかっていました。ボウフラが湧きそうです。
ドロドロの真っ黒な草の固まりをほじくり出していると、水の通り路ができ、腐った水はすぐに流れていきました。
次に会館西側のところです。ここは、二階の雨水を落としてくる縦樋と一階部分の屋根の軒樋が合流し、
さらに庫裡との渡り廊下の屋根の樋も合流して、寄せ枡ますという継ぎ手で接続されており、複雑な形をしています。
その寄せ枡が詰まっており、雨水は樋の外側を伝って流れてしまうようになり、壁や床が水浸しになります。
ここの掃除はやっかいでした。はじめは、軒樋の穴からゴミを取り出していましたが、その先にも詰まっています。
掃除用のワイヤーでほじくり出そうとしましたが、寄せ枡の手前でつっかえてしまいます。寄せ枡につながっている樋を外して、
そこからゴミをほじくり出すしかありません。その作業をしていると異臭がしてきました。
渡り廊下側のじょうごを覗くと雀の死骸が詰まっており、ウジが湧いていました。二日前にまだ飛べない雛が屋根の上で
鳴いているのを見ましたが、見えなくなったと思ったら死んでここに詰まってしまったようです。
夏の日射は厳しく屋根のトタンや瓦はあっという間に四十度を超えてしまいます。飛べない雛にとっては過酷な環境だったのでしょう。
死骸を取り除いた後、もとの寄せ枡の作業に戻り、ぎっしり詰まった泥をほじくり出して、何とか開通しました。
最後に庫裡くりの一階屋根に二階から降りてくる縦樋の出口の掃除です。ここは縦樋の出口のところが
いつもぎっしりと詰まります。ここは前に板金屋さんが掃除をしたときに、丁寧に針金で固定してくれていましたが、
それが却って邪魔になりゴミを取ることができません。まず、ペンチで針金を切って樋が動けるようにし、
それから根気よくゴミをほじくり出して終りました。
とりあえず気になっていた場所はすべて終わり、詰まりの原因を取り除くことができたので、一段落です。
ゴム手袋の中は行き場の無い汗が溜まり、作業着は汗とゴミまみれになっていました。しかし、これで雷雨がきても大丈夫です。
長々とこんな話をしたのは、私の心境の変化というものをお話したかったためです。一年前に業者に頼んで、掃除をしてもらい、
それから半年も経たないうちに詰まってしまって、それから自分で掃除してみようと思っていたのですが、忙しかったり、
天候が合わなかったり、気分が乗らなかったりで延び延びになっておりました。それがふとした拍子で動き出すものです。
これはどうしたわけだろう、ということを考えました。なにも自分でやらずに、また業者に頼んでも良いのに。
なぜ、自分で動こうと思ったのか。こんなことは数年前の自分ではなかなか出来ないことでした。
(どうしようもなくなると渋々は動き出しましたが。)それが最近は何事につけ、やれることは自分でやろうという気持ちが、
フィ、と起り、体が動きます。どうしてなのでしょう?
それはつまり、私自身が頭ばかりで動くものではなく、身体を持っているということを、より深く認めるようになったためだ
と思います。
頭のみが先走って動くと、雨樋の掃除は業者に頼めば良い、という発想になります。そして業者に頼む、
すなわち人を支配する道具となるのが、銭ぜにです。頭は銭によって他人を思い通りに動かし、
満足のいく結果を求めようとします。しかし、銭によって働かされる人々がどんなに誠実であったとしても、
銭を払う自分の求める満足が得られるかどうかは、結果がでてみないとわかりませんし、往々にして期待は満たされないものです。
そこに、銭を払う側にも受け取る側にも怒りや妬みや軽蔑が生まれる要因を抱え込みます。
そして、銭を才能や権力と置き換えてみても同じことです。人は皆、自分の才能を磨き上げ、
権力を付けて満足を得ようと努力します。しかし、それはなかなか実現するものではなく、今ある自分の境遇や立場に不満を抱き、
悩みを抱え込み、将来にその不満や悩みを解消する道をさがして過すようになります。そして日々死に近づいてゆき、
死後自分はどうなるのだろうか、という恐怖を起し死後の世界を求めるようになります。
自分の望みが叶えられないうちは死んでも死にきれないという焦りを抱くようになります。
そして、その頭に支配された身体にはストレスがかかるようになり、病気を呼び寄せることになります。私達はあまりに頭で、
身体を支配しようとしすぎます。
しかし、あるとき、ふと気づきます。自分の頭で世界に色を付けて見る事に疲れた、
そんな事をしなくても自分は生きているではないか、そして生きているということは、死後の世界にこだわる事ではない、と。
また人を支配する為でもないし、銭を蓄える為でもないと。
そのとき、今生きている自分、これで良し。という声が聞こえ、そこから自分と世界の関わり方、感じ方ががらりと変わることを、
一瞬経験します。
例えば、雨がじめじめと降る毎日が続いたのに、あるときからりと晴れ上がっていたようなものと言えば良いでしょうか。
しかし、このたとえだけでは充分に表わしていません。
皆さんは次のような経験はありませんか? 数日間の短い旅行で自宅を離れ、また帰ってきたとき、
自分の住んでいた場所が旅行の前と違って、何かとても新鮮で生き生きとしたものに感じられるということを。
そこは、自分がいつも居る場所です。何が変わったかを挙げようとしても、何も変わってはいないのです。しかしまた、
言葉にできないところの何かが確実に変わったのです。
さて、その自分が生きているということのとらえ方の変化には、安らぎが付いて来ます。その安らぎは、それまで
「自分は自分だ」として生活していたところでは決して得られなかったものです。それは「自分は自分だ」
という立場で真剣に求めれば求めるほど、そこから遠く離れていってしまうようなものでした。
(まるで青い鳥の寓話の様ですが、おそらくこれは偶然ではありません。洋の東西を問わず、
人の在り方のしくみは一つであるはずだからです。)
また、その安らぎは「自分は自分だ」という立場では、目覚めている間も、眠っている間も決して得られるものではなかったことも
知ります。そして、この安らぎは目覚めている間の経験でありながら、どんな眠りよりも深い休息を与えてくれるものであることを
知ります。
なるほど、これが求めていた覚りへの道、「仏となるべき身の上」なのだな、ということにつじつまが合います。
(十一願)
たとえ、わたしが仏と成ったとしても、わたしの国に生まれる人びとが、確かに仏と成るべき身の上となり、 必ずさとりに至らないならば、誓ってさとりを開かないであろう。
これはまた「自分は自分だ」という立場で考え、作り上げていた世界、無限の過去から無限の未来、果ての無い世界、 自分が生まれる前、死んだ後の世界、そういうものに対する希望や恐怖の背負いきれない重荷をすっと取り上げ 解放してくれるものでもあります。
(十二願)
たとえ、わたしが仏と成ったとしても、わたしの光明に限りがあって、世界のはしばしまで照らすことがないならば、 誓ってさとりを開かないであろう。
(十三願)
たとえ、わたしが仏と成ったとしても、わたしの寿命に限りがあって、どんな数であってもかぞえられるほどの数であるならば、 誓ってさとりを開かないであろう。
また、この一瞬の感じ方は「真実」というものが、必ず一つであるべきこと──自分や他人の考え方の違いや、
人種や文化や宗教の違いで異なるものであってはならないこと──を、確信させます。
つまり、「自分は自分だ」という立場では、自分の考えが正しく、人種や文化や宗教が違う他者を認めようとはしないものです。
しかし、この安らぎの立場にある時、相手が様々な面でどれだけ自分と違っていようとも、相手の中に自分と同じ安らぎの立場を
認めていこうという姿勢になります。
(十七願)
たとえ、わたしが仏と成ったとしても、十方の世界のあらゆる仏が、ことごとく称讃して、わたしの名前を称えないようなら、 誓ってさとりを開かないであろう。
以上のようなことが、この一瞬の感じ方の中にこもっています。そして、この一瞬の経験を大切にし、忘れないようにし、深め、
広がりを持つものにするための努力をしていく生活が始まるのです。
(この経験は油断すると忘れます。よくよく注意して忘れないようにしなければなりません。しかしそれはこの経験にしがみつくことでは
無いのです。)
その生活の中で、初めに感じた一瞬がもう一度起り、更にまた起る。そういうことを意識して求める自分なりの作法が
身に付いていくことになります。
(十八願)
たとえ、わたしが仏と成ったとしても、十方のあらゆる人びとが真実の心をもって深い信心を起こして、 わたしの国に生まれようと思って、十返わたしの名前を念じても、生まれないようなら、誓ってさとりを開かないであろう。
ずいぶん偉そうなことを書きましたが、これは私が私自身に与える生活規範の備忘録──仏教用語で言えば「戒律」──
でもあるからです。
さて、そこで話は初めに戻ります。私はなぜ雨樋の掃除を、フィ、とやれるようになったのでしょうか。
それは上に書いた一瞬の体験をきっかけとして、自分の生活の見直しをしてきていることの表れのようです。
2009/07/20