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阿弥陀経の説かれたわけ
皆さんの中でお気付きになった方もいらっしゃるかもしれませんが、本堂正面の向拝の柱と階段、回廊の一部が塗り直しされています。
これは塗装屋さんの仕事ではなくて、実は私が一人でやっています。これまで、空いている時間を見つけては、
延べ三日ほどかけてここまでやりました。回廊があと三分の二ほど残っていますが、報恩講までには仕上げたいと思っております。
今日はなぜ、この仕事を自分がやろうと思ったか、といういきさつを話すことから始めます。
さて、私はいつも別棟の二階で住職の仕事をしていますが、この別棟が建ってから十二年ほど経ちます。
別棟の裏側の部分が物置になっておりまして、そこには建築直後に移しておいた古い整理棚や農器具、
大工道具などが雑然と積まれて朽ちるままになっておりました。この一,二年は母が亡くなったこともあり、
母が使わなくなったものをとりあえず置いたり、半年ほど前に墓所を整備した時に取っておいた庭の土を積んで置いたりと
足の踏み場も無いほどになっておりました。
なんとかしなければと、ずっと気になっていたのですが、十月になってふと思い立って片付けることにしました。先ず、
通路に積んであって道ふさぎになっていた庭の土を片付けました。土は結構大切で生ゴミのコンポストの材料や
庭のちょっとした整備の時に必要になるので、取っておかなければなりません。これを袋に詰めて会館裏の空き地に移しました。
その後、別棟建築後十二年間、一度も手を触れることの無かったいろいろなものを分類し、七割方は粗大ゴミとして出しました。
そのうち使うかもしれないと取っておいたものの多くは、結末はだいたいこんなところです。
こうして物置の整理が一段落すると、本堂の柱や回廊が気になってきました。これらは四,五年前に業者に頼んで、
長年の間に表面に付着した汚れを洗ってもらいました。そのときは見違えるように美しくなったのですが、
三年程経つとまた汚れがついてきて、以前のようにみすぼらしい風情になってきました。この一年ほどそれが気になるようになり、
さてどうしたものかと考えていました。
前回のように業者に頼んでも三,四年しか持たないようでは、費用を掛けるにはためらいがあります。会費会計も乏しい現状ですから。
そんな中で自分でいろいろ調べてみると、汚れ落し用の洗剤や、塗料の良い物が見つかりました。
そこで自分でやってみようという気持ちになってきました。
十日ほど前に洗剤や塗料の効果を柱や回廊の一部で試して確認してから、この月曜日、火曜日で柱と階段を仕上げました。
金が無いので代わりに自分の体と頭を使おうといったこともあります。
しかしまた、自分で作業してみると柱や回廊の状態が良く解りますし、作業が終った後の満足感というものもかなりあるものです。
こういったことをしているうちに、また同朋の会で話す原稿を書く日にちになってきました。そして今回は浄土の荘厳しょうごん
(景色、ありさま)の話題です。引用してみましょう。
一、この仏はいま、現にいて、法を説いている。その国の人びとはみな苦しみを知らず、 ただ楽しみの日のみを送るので、極楽というのである。
その国には七つの宝でできた池があり、中には清らかな水をたたえ、池の底には黄金の 砂が敷かれ、車の輪のように大きい蓮華が咲いている。その蓮華は、青い花には青い光が、 黄色の花には黄色の光が、赤い花には赤い光が、白い花には白い光があり、清らかな香り をあたりに漂ただよわせている。
また、その池の周囲のあちこちには、金・銀・青玉・水晶の四つの宝で作った楼閣ろうかくがあ り、そこには大理石で作った階段がある。また、別の場所には池の上につき出た欄干らんかんがあり、宝玉ほうぎょく で飾られた幕で取り囲まれている。また、その間にはよいにおいのする木々や花がいっぱいに咲いた茂みがある。
空には神々こうごうしい音楽が鳴り、大地には黄金の色が照り映えて、夜昼六度も天の花が降り、 その国の人びとはそれを集め花皿に盛って、ほかのすべての仏国へ持ってゆき、無数の仏に供養する。
二、また、この国の園には、白鳥、孔雀、おうむ、百舌鳥もず、迦陵頻伽かりょうびんがなど数多くの鳥が、 常に優雅な声を出し、あらゆる徳と善とをたたえ、教えを宣布せんぷしている。
人びとはこの声を聞いて、みな仏を念じ、教えを思い、人の和合を念ずる。だれでもこの声の音楽を聞くものは、 仏の声を聞く思いがし、仏への信心を新たにし、教えを聞く喜びを新たにして、あらゆる国の仏の教えを受ける者との友情を新たにする。
(119頁〜120頁)
これは阿弥陀経の一節です。阿弥陀経はご法事で読むお経で、皆さんも読経を聴けば「ああ、あれか」と、
耳になじんでいる方も多いと思います。法事で読み上げているお経の内容は、実はここに書かれているようなことだったのですね。
さて、ここに書かれている夢のような、おとぎ話のような世界は、とても私達の世界に関係のあるようなものとは思えません。
理屈で言えば荒唐無稽こうとうむけいといっていいような、とてもまともには信じられない内容です。
しかしまた、私達に無関係と断言することも、なんとなくはばかられます。それは何故でしょう。
本堂の柱を掃除する自分に重ね合せて考えてみました。
お釈迦様の在世当時、弟子の一人に周梨繁特しゅりはんどく(チューダパンタカ)という人がおりました。
この弟子はとても頭が悪く、お釈迦様の教えを覚えることも、それを考えることもできない人でした。お釈迦様はこの弟子に
「塵ちりを払い垢あかを除く」という短い一句を何とか覚えさせ、毎日庭の掃除をするように命じました。
周梨繁特はこの句を忘れないように唱えながら、何年も掃除を続けました。そしてあるとき、ふっと覚りに達したと言われています。
仏教は、ある面で理屈を徹底して追求します。しかしその追求の目標である覚りは、あくまでも理屈を超えたところにある、
ということも言います。周梨繁特の話は覚りというものが理屈を超えたところにあるということを、
力りきまずに教えてくれる良い話です。
そして私の本堂の清掃作業も、周梨繁特と同じような経験を積むことにあったのか、とも思い合わせられます。
阿弥陀経は、その覚りの、理屈を超えた内容をこのような絵画的な美しい文章で表したものと言えましょう。
お釈迦様の教えの内容が、二千年ほど前にこのような美しい経典となった。それからめぐりめぐって今日、西照寺という形あるものの
縁となり、ここにある。
そして、阿弥陀経の意味(荘厳)をより明らかにするために、自分は本堂の掃除をしていたものであったか、
と思い合わせられるのです。そして私が作業を終えて、満足した心境にあったとき
「その国の人びとはそれを集め花皿に盛って、ほかのすべての仏国へ持ってゆき、無数の仏に供養する。」
そういう浄土の働きが、その場にかもし出されていたのではないか、と思います。
浄土が有るとか無いとか、また有るというならそれを証明してみろ、といったような理屈で理解しようとすると、
浄土は本当に荒唐無稽なものとなり、私達がつかもうとする指の間からすり抜けていってしまいます。
しかし、自分の体験を通して、その体験を本当に受け入れていく反省を通していくとき、お釈迦様から始まる時が、
現在に有るものとして感じられ、阿弥陀経の内容も本当のこととして受け取ることができるのではないでしょうか。
ずいぶん大げさな話ではありますが、私はこのような姿勢ではじめて阿弥陀経が説かれた意味が理解できるものと考えています。
2009/10/17