真宗大谷派 西照寺

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心を清める、の意味


 仏教では私達の身体を次の六つの言葉で表わします。
げん、耳、鼻、舌ぜつ、身しん、意、 これらはそれぞれ根こんといます。六つあるので六根ろっこんです。 「六根清浄」という言葉はここから来ています。根とは身体の部分という意味です。我々はこの六根を必ず持っています。
 さきほどの前住職の話で出た平澤さん(平澤 興。脳神経解剖学。京都大学第16代総長 )の歌

「今朝もまた、覚めて目も見え手も動く、ああ有り難や この身このまま」

を聞いて納得できないと言ったお婆さんの話ですが、じゃあ眼が見えなくなったら、耳が聞こえなくなったらどうするかと聞いた。 この問答を私なりに考えると次のようになります。
 眼が見えなくなっても、耳が聞こえるでしょう。──耳が聞こえなくなったらどうするか。 ──鼻があるでしょう。匂いが嗅げるでしょう。──鼻がダメになったら。──舌があるでしょう。 味わうことができるでしょう。──舌もダメになったら。──身があるでしょう。 何かに触って感じることができるでしょう。──身もダメになったら。・・・・・ということは無いのですよ。 全部ダメになったら死ぬのですから。
 つまり生きているということは、こういうことです。六根を持っているということです。そして六根のそれぞれに囚われるのです。 どう囚われるかというと、それぞれの根にとって善いものを選び取り、悪いものを捨てようとします。眼は美しいものを選び、 醜いものを嫌います。耳は心地よい音を選び、不快な音を嫌う。鼻は香りは良いけれども、臭いのは嫌だ。 というふうに他の根も働きます。
根の六番目の意は実は他の五つの根のそれぞれにくっついているものです。眼はものを見れば、意こころで判断してこれは美しい、 醜いと分別する。そういうふうに他の根にも意がくっついています。六根、つまり身体を持っているということは、 このようにならざるを得ません。そうでないと生きていけませんから。
 それでお婆さんの話に戻りますが、この人は六根の働きがなくなったらどうしよう、と恐れています。眼が見えなくなる、 耳が聞こえなくなるのは嫌だ。・・・・六根の働きをなくしたくないと、しがみつきます。そこから様々な苦しみが生まれてきます。 このお婆さんに私だったらどう答えるか、と考えていたのですが、結局、意こころに行きますね。六根を通して、 自分が欲しいと思うものにしがみつく、その気持ちから離れることができれば、有り難いのではないですか、と。

 話をしていて思い出したのですが、私が先生と仰いだ哲学者の今村仁司という方がいらっしゃいました。 2007年の5月5日に亡くなりましたので三年経ちます。そして今村先生が亡くなる直前まで書いていた本(『親鸞と学的精神』)が 先日出版されました。難しい本なのですが、それを私も求めて読んでみました。
 読んでいて驚いたのですが、 その内容が大変な深まりを見せていました。生きていらっしゃった時には、我々が今村先生と一緒に勉強している中で、 そういう内容の方向性がある程度見えていたのですが。この本は、亡くなる数ヶ月前から集中して書かれたのかと想像しています。 そして書き終わられて何日もしないうちに、入院されて(癌でした。)1ヶ月少しで亡くなりました。この本を書くのに、 最後の力をふりしぼったということになるのでしょうが、その内容の深まり方がものすごい。よくここまで出来たな、と驚かされます。
 何故できたのだろう、と考えました。今村先生は、自分は近いうちに死ぬということは当然分っておられました。 その中で何故この本が書けるくらい集中できたかというと、おそらく癌を忘れていたからです。癌を忘れて毎日、 本を書くことに没頭したのでしょうね。癌で亡くなったのは、悲劇です。私も亡くなられてから半年くらいは 何もする気が起きないくらい落ち込みました。しかし、今村先生ご自身はこの本を書いておられた時、幸せでなかったか、と思います。 入院の20日ほど前に、今村先生と我々との最後の会合を先生が勤められている大学で行いました。その時に先生は 「最近、急に頭のピントが合うようになってきた。」と仰っいました。それまで研究してきて、 もう一歩のところではっきりしなかった色々な事が、おそらく霧が晴れるようにはっきりしてきたのでしょう。 このふっと言われた言葉が、この本を読んでいて、ああそう言うことだったのか、と納得しました。
 「有り難い」ということはそういうことではないでしょうか。癌が治ることが有り難いことでは無いのです。 前住職の話でもありましたが、癌を治したいということにこだわってしまうと、それが治っても今度は別の苦しみが現れます。 お金が欲しいとか、自分を看病していた配偶者が倒れてしまったとか。今度はその看病疲れで配偶者を殺してしまうとか。 苦から苦を経めぐる。
癌も含めて、病気というものは六根のどれかが正常な働きをしなくなることと言えますが、病気を治す、 つまり正常な働きに戻すことが、幸せになることかというと、そうではありません。正常な働きに戻せたとしても、 六根の囚われから抜け出すことはできないのですから。六根の囚われを忘れ、病気を忘れることができるとき、 幸せは訪れると言えましょう。

 次の話題に移ります。欲の話です。いつもの通り私の経験をお話しします。
この前の報恩講の時にも申し上げましたが、本堂・会館の増改築と、本堂の荘厳仏具補修が必要な時期になってきています。 それが私の頭の上に乗っかっています。増改築は、今の中庭の部分を土間にして、屋根を掛けて、 回廊を全部回してガラス戸で仕切るようにしたら、今の手狭な状況は改善されるだろうなと思っています。 そういう構想はしばらく前から練っていて、去年、ここを建てた棟梁にいくらくらいで出来そうか聞きましたら、 二千万くらいと言われました。また仏具補修の見積りも出てきて大体五百万くらいかかる。 そうすると合せて三千万もあればやれそうかとなります。よその寺が寄付を集めて何かするというと、億の単位で集める。 よそにくらべれははるかに少ない。それくらいだったら皆さんにご寄付願ってもなんとか出して下さるのではないか、 と皮算用が働きます。
 そして、寺の事だから無私の行いだというイメージがありますが、実はこれは欲ですね。結局、欲に囚われてこういうことを考える。 内心、寄付を取られるのではないかとびくびくしていらっしゃったかもしれませんが、そういうことではありませんので。(笑)
 欲だ、ということに気がついたらすっきりして、今あるものでいいじゃないか、金の回る範囲でできることをすれば、 それで良いではないか、いつまで終らせなければならない、と無理に事業を立ち上げてするものでもないだろう。 と気持ちを整理しました。

 もう一つお話しします。皆さんの仏壇に掛けてある法名軸がありますね。この軸の法名は私が住職になって二年目あたりまでは、 前住職が書いていました。私はご存知の通り、字の書き順はめちゃくちゃで形は小学生以下ですから、書くと大変です。 画像1 一所懸命練習しても付け焼き刃で、すぐに上手くなれるはずもありません。しかし、 住職二年目過ぎから自分でしなければならないと思い、書き始めました。現在はこの下手くそな字の法名軸が仏壇に収まります。
 そして、この前も書かなければならなくなったのですが、時間があまりなかった。普通書くときは、恥ずかしい話ですが、 その法名を三十分以上は練習します。そして本番で書く。しかし、そのときは、時間も無いし、慣れてもきていたので、 ちょっと練習して書いても大丈夫だろう、と書き始めました。実は軸の紙は「鳥の子」とか呼ばれているもので、 普通の習字紙とは墨の乗り方が全然違います。だから習字紙で練習したから大丈夫というわけにはいかない。 そういうことで失敗した法名軸が何幅かあります。一幅の値段がサイズにもよりますが、六千円から一万円くらいする。 失敗するとこれがパーになる。だから書くときはこれが失敗したら一万円だと思うと、欲の固まりになります。
そしてこの前の時間が無かったときに書き出したら、見事に手が震えてミミズの這ったような字になって、失敗しました。 あせっていたことと、欲に囚われていたことで手が制御できなかった。またやらかしてしまった、と情けなくなりました。 しかし、その後で俺の字なんて、どうしようもないこんなものだと思ったら楽になりました。 それから仏具屋さんから二幅(一幅は予備)取り寄せて、ゆとりをもって練習して心を落ち着けて書いたら何とかなりました。 上手に書こうとすることも欲で、これはつまり、見栄です。そういうことで失敗する。

 色々脱線で話をしましたが、今日のテーマ「心を清める」に入ります。本文を引きながら説明します。(仏教聖典124頁〜132頁)

もし、人がその心を修め、その心を鍛練しておけば、他の五欲に引かれることはない。もし心が制御されているならば、 人びとは、現在においても未来においても幸福を得るであろう。

 ここで五欲とあるのは六根のうちの眼、耳、鼻、舌、身の五つでそれらには意があって、それに欲がくっついているということです。 それらに操られているのが心です。その心を鍛錬しておけば眼や耳や鼻から入ってくるものに操られることはなくなります。 五欲を消してしまうということではないのです。消してしまえば我々は死にますからね。同じことですが「煩悩を断つ」 という言い方がありますが、煩悩を本当に断つというのは死ぬことです。では死なないで断つということは、どういうことかというと、 それらに引きずり回されないようにするということです。欲に支配されるのではなくて、欲を支配する。我々は普通逆に考えます。 「あれが欲しい、これが欲しい」ということが自分の望みだと思っているが、実は欲に支配されている。そうではなく欲を支配して、 制御できるようになることが「煩悩を断つ」ということの意味です。そうなれば幸福を得るだろう。

貪りと瞋いかりと愚かさという三つの毒に満ちている自分自身の心を信じてはならない。自分の心をほしいままにしてはならない。 心をおさえ欲のままに走らないように努めなければならない。

 貪欲・瞋恚しんに・愚癡ぐちを三毒といいます。この愚癡は普通に言う頭が良い悪いという言い方での、 頭が悪いということではありません。頭が良い者も愚癡なのです。普通頭が良いとは何をさすかというと、外国語ができるとか、 学問ができるとか、計算の能力が勝れるとか、あるいは世渡りが上手だとか、そういうことを指します。 世間の事の何かに長ずることを頭が良いという。しかし、その頭の良さで何を求めるかというと、新たな欲望を求めます。 例えば金儲けをしたいと思ったら、頭の良い人は色々な策略を考えて、儲ける仕組を作ります。成功した経営者の話などは全部そうです。 売り上げをいかに伸ばして利益を上げるか、これはいかに欲望を拡大するか、ということです。私達だってそうです。 仕事をして金を稼ぐということはそういうことです。それを悪いとは言えない。そうしなかったら収入が閉ざされて 死ぬしかなくなりますから。悪いとは言えないが、欲望を増加させるという欠点がある。それに気付かないということが、 ここで言う愚癡です。ですから、欲望を増加させることを行っている人はどれだけ頭が良くても愚癡なのです。
 私共の宗派で「悪人」というのは、この愚癡のことを指します。欲とか怒りに身を任せていることに気付かない愚かさ、 それを持っている者ということです。従って我々全てを指します。この三毒が無ければ日常生活は出来ません。 悪いことをした人だけを指すのではなく、悪いことをしようが善いことをしようが、全部「悪人」です。 そこから逃れられる人はいません。人間に生まれたということが悪人であることです。何で悪人かというと三毒を持っているから。 そして、三毒の根っこに愚癡があるから。
 しかし、心は三毒を持っていますが、心はまたその三毒から離れようとします。そういうものに気付こうとします。 そして根本の愚癡に気付いたときに心は、三毒に支配されるものではなくて、三毒を支配するものになります。 三毒は絶対に消せません。しかし、消せないということに気付くことが、これらの支配から離れることになる。 そして三毒を支配していくものになる。それが「心を清める」ということです。

美しい色を見、それに心を奪われることを恐れて眼をくり抜こうとする者は愚かである。心が主あるじであるから、 よこしまな心を断てば、従者である眼の思いは直ちにやむ。

 欲望が悪いということで、それを絶とうとして、男であれば美人を見て欲情を起す、だから目玉をくり抜こうという考えは愚かです。 そんなことをやっても何の解決にもならない。そうではなくて、欲望を起すしくみを考えなさい。そのしくみを自分で支配するように なりなさい。それが覚りを得るということなのだ、ということを教えています。

道を求めて進んでゆくことは苦しい。しかし、道を求める心のないことは、さらに苦しい。この世に生まれ、老い、病んで、死ぬ。 その苦しみには限りがない。道を求めてゆくことは、牛が重荷を負って深い泥の中を行くときに、疲れてもわき目もふらずに進み、 泥を離れてはじめて一息つくのと同じでなければならない。欲の泥はさらに深いが、心を正しくして道を求めてゆけば、 泥を離れて苦しみはうせるであろう。

 この例えで言えば、生きている限り泥の中を歩まなければならない。しかし、それに耐えていくあり方を見つけて歩んで行くと、 「一息つく」、時々はその忍耐に答える覚りの喜びを経験することができる。

道を求めてゆく人は、心の高ぶりを取り去って、教えの光を身に加えなければならない。どんな金銀・財宝の飾りも、 徳の飾りには及ばない。身を健やかにし、一家を栄えさせ、人びとを安らかにするには、まず、心をととのえなければならない。 心をととのえて道を楽しむ思いがあれば、徳はおのずからその身にそなわる。
宝石は地から生まれ、徳は善から現われ、.智慧は静かな清い心から生まれる。広野のように広い迷いの人生を進むには、 この智慧の光によって、進むべき道を照らし、徳の飾りによって身をいましめて進まなければならない。 貪りと瞋りと愚かさという三つの毒を捨てよ、と説く.仏の教えは、よい教えであり、その教えに従う人は、 よい生活と幸福を得る人である。

 ここで言う徳とは道徳ではなくて、三毒を支配する心のあり方、清められた心を言います。また智慧も頭が良いことではなくて、 三毒をはっきりととらえる力を智慧と言います。だから、幸福は健康とかお金とか立派な家に住むとかではなく、己おのれ の心のあり方に掛かっていると言えます。それを得た時には、病気や貧乏などは気にならなくなる。

釈尊がコーサンビーの町に滞在していたとき、釈尊に怨みを抱く者が町の悪者を買収し、釈尊の悪口を言わせた。釈尊の弟子たちは、 町に入って托鉢しても一物も得られず、ただそしりの声を聞くだけであった。
そのときアーナンダは釈尊にこう言った。「世尊よ、このような町に滞在することはありません。 他にもっとよい町があると思います。」「アーナンダよ、次の町もこのようであったらどうするのか。」
「世尊よ、また他の町へ移ります。」
「アーナンダよ、それではどこまで行ってもきりがない。わたしはそしりを受けたときには、じっとそれに耐え、 そしりの終わるのを待って、他へ移るのがよいと思う。アーナンダよ、仏は、利益・害・中傷・ほまれ・たたえ・そしり・ 苦しみ・楽しみという、この世の八つのことによって動かされることがない。こういったことは、間もなく過ぎ去るであろう。」

 含蓄のある話ですね。これは忍耐を説いていると思います。我々は日常生活で何かしなければならないとき、 それだけに心を奪われて囚われる。それができなければあせるし、怒りっぽくなるなどの症状が出て来ます。しかし、 そういうことを注意して避けなければならない。それは耐えるということで結構つらい。しかし、 じっと耐えるという訓練を積んでいくと、段々とその成果が出てくる。耐えていくと、それまでは障害だと思っていた色々なことが、 ふっと消えることがある。耐えずに逃げることは簡単だが、逃げればまた同じ目に合うぞ、ということを教えている。

                                 2009/12/21

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