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自と他
今回の節は145ページの「仏のたとえ」です。前回に続き長い節で162ページまであります。読んでいない方はあとで
読んで欲しいのですが、どうもピンと来る話がありません。変な話が十三個も載っている。一応私はお経の書かれた仕組みを
知っていますので、このたとえはこんな背景から書かれたのだろう、といったことは分かるのですが。
たとえ話とはどういうものかというと、そのたとえによって表したいものがあるから作られます。そして昔はこのような
たとえを聞いた人には、それによって表したいものが分かったのだろうと思うのですが、二千年後の我々としてはどうにも
ピンと来ない。これをどう説明したら良いだろうかと、今回は非常に苦しみました。その中から一つのたとえを取り上げて
説明しようと思いますが、うまくできるかどうかは自信がありません。そのたとえを印刷したものをお渡してありますが、
話の始まりはたとえとは関係の無いところから始めて、最後にそのたとえにぶつけようと思います。
「自分」というものを色々考えてみましょう。
私達の考えには、先ず「自分」というものがおります。説教の言い方では「我」という言葉でマイナスイメージが強いですが、
これは現代語では「自分」という言葉です。「私」とか「俺」とか「あたし」でもいいです。その自分とは他と違うものとして、
世の中に一つしかないものとしてあります。同じものがあったとすればびっくりします。これはあたりまえのことです。
他と分けられている。そして「自分の外そと」に色々なものがあります。
何があるでしょうか───
家族、友人、道ですれちがう人々、つまり「他の人」。「他の人」というものは「自分」の外のすべての人です。
家族ということでいえば、親や配偶者や子供がいたとしてもそれらも「自分の外」です。
更に兄弟、その外側に親類、友人、見知らぬ人がいます。ここまでは人に関して並べてみました。
自分の外にあるものはそればかりではありませんね。動物、植物、があります。
・・・今日の住職はいったい何を言いたいんだ、というご不審があると思いますが、少しガマンして聞いてください。
その他にも、大地、空気、水があります。今「もの」に関して思いつくところを挙げています。また我々は生活している
わけですから、家、衣服、車があります。今の世の中車が無いと生活できない(運転しない方もいらっしゃいますが)。
こうして反省してみると我々は相当変な生活をしています。車が無いと生活できないなんて百年前ではありえなかった。
今は車(電車やバスも含めて)が無いと生きていけない。すると道路がある、また生活のための様々な建物、スーパーマーケット、
映画館、図書館などがあります。だいたい「もの」というとこういうものが挙げられるでしょうか。きりがありませんが。
こういうさまざまな「もの」に囲まれて「私」という自分は暮らしているということです。
では「暮らす」という点から考えるとどうでしょう。自分はこういった外のもの(人も含めて)と関係を結んでいます。
朝起きれば衣服を着ます。そのとき家族は目の前におります。朝ご飯に肉や野菜が入っていれば、その中に動物や植物が入っています。
自分が居る所は家の中で、出勤するということになれば車に乗って道路を走って会社のある建物に行くということになります。
自分の外のもので一つとして関係無いものはありません。そういう「外のもの」との関係があります。
そして「仕事」を我々はします。「私は主婦だから無職です。」とは言えませんね。洗濯する、ご飯を作る、立派な仕事ですね。
男の立場からすると「俺が稼いでお前達家族を食わせてやっているんだ」という言いぐさがあります。
私も昔家族に言った覚えがあります。しかし、これが大変な間違いだということが最近になってようやくわかりました。
面倒なことに金儲けすればするほど鼻が高くなって自分の稼ぎで家族を食わせてやっていると思い込みがちです。
「あなたにご飯を作っているのは誰よ。衣服を洗って毎日きちんと着られるようにしているのは誰よ」と女房に言われたことは
ありませんが、そういう衣食をきちんとできなかったら、給料取りの仕事ができません。そして、生活の基本的な仕事というのは、
衣食住に関わることです。ですからご飯を作るという仕事は一番の基本ですね。いくらお金を儲けてもお金を食べるわけにはいきません。
(一同笑)
おかしいですか。お金は食べられない、でも食物と交換すると食べられます。これも考えて見ると不思議なことです。
実は家族で分業をやっているわけですが、衣食住を成り立たせるためには、お金が必要です。寺だってお布施というお金を頂いて
衣食住をまかなっているわけですから、一般の職業と全く変わりはありません。そういうものを含めて仕事という、家事、
給料取りなどの「もの」が自分の外側にある。主婦である自分であれば毎日「家事」という仕事と付き合わなければならない。
給料取りであれば毎日職場に行かなければならない。そして若いときには、仕事に夢とか希望とかいうものを持ちますが、そうすると、
仕事とは金儲けのためではない、と思いがちです。自分の目標に向かって仕事をしているんだ、と。
しかしそう思い込んでも金と無関係かというと、そんな仕事は絶対ありません。そういうことが、年を取って若い時の情熱が
冷めてくると、夢とか希望とかは仕事の片面でしかなかった、ということがはっきりわかってくる。仕事はお金を儲けるために
やらなければならない面がある。そうしなければ生きていけない。
そして、話を戻しますが、「もの」をいっぱい出しましたが、それらの間には「大切さ」の軽重があります。ものとものとの間に
優先順位がつけられます。それでなにが一番大切かというと、家族ですね。その外側に家族を保護してくれる家や衣服や車
──財産が大切だということになる。さらにその外側に自分が住んでいる街などの環境が大切だとなる。
それらの大切なものが安泰であるように、政治や経済がきちんとして欲しい。
そういうことで色々なものの間に関係を付けながら、全体として何を願っているかというと、平穏無事を願っている。
自分も家族も病気にならないで欲しい、さらに死なないで欲しい。生活というところから言えば「死ぬ」などということは
とんでもない話です。まともに取り合える話ではない。私の場合は職業柄、常に考えざるをえない立場ですが、
こんな職業は特殊でしょう。
ところで、皆さんは平穏無事にこれまで過ごしてきましたか?
皆さんは即座に、そうではなかったと断言されると思います。まあ、私は皆さんのそれぞれの事情を知っているから
こう言えるわけですが。いずれ、平穏無事に暮らしたなどということは人間としてありえないことです。
億万長者を母とする現在の日本国首相ですら、そんなにお金を持っているなら、何の苦労もなく平穏無事でしょうという感じが
するのですが、現実はその持っているお金で大変な目に遭っている。ですから「平穏無事にはすまない」というあり方から
人間である限り逃れられないわけです。逆に言えば「平穏無事」とはいかにも常識的なことばですが、しかし決して実現しない
という点では絵に描いた餅です。ところが我々は毎日、この絵に描いた餅を一所懸命追いかけている。そして追いかけるときは
それが手に入るものと思って追いかける。家族であれば毎日健やかに過ごせるように世話をする。ところが家族は思ってもいないときに、
癌や脳溢血になる。皆さんご経験の通り。そういう災いが起こってしまってからも、自分の心では整理しきれないままに、
その災いから逃れようと私達は動きます。そして災いが起こるときは予想通りには起こらない。違うところから降ってきます。
それが強烈ですから我を忘れます。そうして病気になった家族であれば何とか生かそう、自分が病気であればなんとか生きようとして
頑張る。死ぬなんて可能性は考えることすら禁じる。しかし、事実はそういう自分の思いとは無関係に進みます。
これは当たり前ですよ、と言えばそれまでの話です。諸行無常とはそういうことですから。しかし当事者にとっては諸行無常なんて
絶対に認められない。
また、自分と家族がある程度の安定した生活が続けられるのは、何遍も言いますがお金があるからです。この点からは目を
背けようが無い。お金がなかったら最悪路頭に迷うしかない。そのお金を我々はどう調達しているかというと、職業を持っている人は
給料という形で、退職した人は年金とか保険とか蓄えでまかなっている。皆さんにそういうお金がなかったら、こんなところで
話を聞くなどというゆとりはとても無いと思います。生きるか死ぬかというところで必死にならないといけない。
世相は先行きそういったお金を得ていけるかどうか不安な状況です。会社がつぶれるかも知れないとか、年金が破綻するかもしれないとか、
色々な不安がよぎる。しかし、こういったことでも病気と同じように大変なことが予想もつかないところから降ってきます。
そういう事が起きた時には、仏教徒である自分であろうとも、助けてもらえるなら神社にもお参りする、祈祷にもすがる、
という気持ちにもなります。しかし、結果はお祈りしたり神さんにすがった気持ちの通りにはならない。これも経験してみて
わかる話ですね。
最初に戻ります。いろいろ話してきたように、自分というものが先ずあります。その外側に「こうあって欲しい」というものとして
さまざまなもの(家族、財産、生活環境など)を置きます。
ここからちょっと難しい話になります。家は立派でなければならない、親や配偶者は健康でいて欲しい、子は頭が良くて見目麗しく
育って欲しい、と。そういうふうに自分の外側に置きます。これが我々の心のすがたです。そしてその望みの通りにならないと、
自分が満足せずうろたえる。病気の親などダメだ、頭の悪い子などダメだ、みすぼらしい家はダメだ、と。外のものに
「こうでなければならない」という気持ちを押しつける、それを我執といい執着というのです。外のものの全体は世間ですが、
世間は自分の望みの通りでなければならない、と自分の執着を押しつけます。世間の中心には誰がいるかというと自分です。
また、皆さんそれぞれが他の人と違っている自分ですから、一人一人が考えている世間は実はそれぞれ違うのです。
しかし、一人一人が違う世間を持っているにもかかわらず、自分が考えている世間を他の人も持っているはずだ、
とそれぞれが思いこんでいます。
そういう自分自身はどうかというと、病気もしないで年も取らないでいつまでも生きていたい、と当然の如く思っています。
だから病気になったらどうしよう、という恐れを皆さん持っておられるでしょう。癌になったらどうしよう、と毎日考えているでしょう。
私も考えていますから。(笑)
その、死にたくない、自分がいつまでもあるという欲望はものすごく根が深い。その欲望が「死んだらどうなるか」
という疑問を起こし、解答を求めるのです。そういう気持ちが「天国」とか「あの世」とかいうものを作り出します。
いくら仏教で言う「極楽」はそういうものでは無いですよ、と説教しようとも、この自分が永遠にあるという欲望は、
そんな説教など一吹きで吹き飛ばす程強いですから、心の底では死んでから行く世界があるのではないか、
そこに自分が行くのではないかという気持ちは根強く残ります。しかし、そう思い込んで安心したとしても、
その行き先を確認できませんから、疑いが湧いてきます。本当にそういう場所があるのだろうか、行けるのだろうか、と。
さて、飛躍した結論だと思われるかもしれませんが、このように自分と外を分ける考え方に立っていると、必ずこうなります。
その結果として天国とかあの世とかを作り出したとしても、不安が解消できません。ではどうするか。
ここからが仏教の核心です。
答えは「自分の内と外とを分けることをやめなさい。」です。
自分の外側にいろいろなものが集まって世間がある、そういう考え方をやめなさい。
では自分とは何なのか。自分とは世間の中心に位置して、全世界を見ているわけです。死んだ後のことも含めて。しかし、
実はその自分の外側にあると思っている世間全体が、自分なのです。
つまり、自分というものの区別のしかたを変えるのです。そうするとどうでしょうか。自分というものは親であり、配偶者であり、
子供であり、動物であり、植物であり、家であり、街であり・・・ということになります。すべてが自分である。
それはつまり世間が自分の心の中にあることです。ここに気付くと、自分の心の中に無くて外にあるものなど、
ありえないということが解ります。難しい言い方になって申し訳ありませんが。
すると、子供の命は自分の命であり、同時に自分の命は子供の命だということが分かる。親、配偶者、動物、植物などに対しても
同様です。そして、そういうふうに全体を見てみるとどうでしょうか。ひとつとして変わらずにその場所に止まっていられるものが
ありますか?
ありませんね。親は老いて病気になる。子供は成長する、思ったようには育ってくれない。家は老朽化する。車は故障する。
仕事も給料が上がったり下がったりする。最初に言った「小さい自分」ではこれらに対して一々不満や悩みを抱えますが、
世間全体が自分でその世間の総てが変化するととらえられれば、家族が順調に過ごせるということも自分だし、
しかしそれは変化の中にあってのことですから、悪い方向にも行くということも受け入れなければならない、ということが解る。
そうなったとき、天国とかあの世とかはいらなくなると思います。
そして、今の自分でよろしい、全体が自分なのだと引き受ける。そういう、自分を切り替えたところを親鸞さんは「味わい」
と言います。正信偈で「如衆水入海一味(衆水海に入りて一つの味わいとなるごとし)」というところです。
その味わいが自分が感じられるものとして段々と出てくると思います。
そうなると、おそらく強いです。死ぬなんて恐くないぞなどと偉そうには言えませんが、小さな自分が死を恐れていた時とは違って、
死をきちんと受け取れるようになると思います。
それでようやく本日のテキストの説明に入ります。
十一、ある家に、ひとりの美しい女が、着飾って訪ねてきた。その家の主人が、「どなたでしょうか。」と尋ねると、その女は、
「わたしは人に富を与える福の神である。」と答えた。主人は喜んで、その女を家に上げ手厚くもてなした。
すると、すぐその後から、粗末なみなりをした醜い女が入ってきた。主人がだれであるかと尋ねると、貧乏神であると答えた。 主人は驚いてその女を追い出そうとした。すると女は、
「先ほどの福の神はわたしの姉である。わたしたち姉妹はいつも離れたことはないのであるから、わたしを追い出せば姉も いないことになるのだ。」と主人に告げ、彼女が去ると、やはり美しい福の神の姿も消えうせた。
生があれば死があり幸いがあれば災いがある。善いことがあれば悪いことがある。人はこのことを知らなければならない。 愚かな者は、ただいたずらに、災いをきらって幸いだけを求めるが、道を求めるものは、この二つをともに超えて、 そのいずれにも執着してはならない。
(157ページ)
私の説明とうまくつながってくれると嬉しいのですが、いかがでしょうか。いずれ、説明を聞かないでこのたとえ話を いきなり読んでも、単なる道徳の話で終わってしまう恐れがありますね。善いことばかりが続くわけではなく悪いことも あるのだから辛抱しろ、と。そういう程度にしかとらえられない。しかしこのたとえが語られた当時は、その背景もきちんと語られ、 生きたたとえとなっていたことでしょう。
2010/02/20