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智慧と愚痴
今回は178ページの「さまざまな道」についてお話しすると案内しましたが、ちょっと考え直して、前回の
「道を求めて」にあった話と、今回の節の話との二つの話題を取り上げることにしました。
先ず前回の節にあった第一番目の話です。
一、この宇宙の組み立てはどういうものであるか、この宇宙は永遠のものであるか、やがてなくなるものであるか、この宇宙は 限りなく広いものであるか、それとも限りがあるものであるか、社会の組み立てはどういうものであるか、この社会のどういう 形が理想的なものであるか。これらの問題がはっきりきまらないうちは、道を修めることはできないというならば、だれも道を 修め得ないうちに死が来るであろう。(一六三頁)
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宇宙が永遠であろうとなかろうと、限りがあろうとなかろうと、生と老と病と死、愁うれい、悲しみ、苦しみ、悩みの火は、 現に人の身の上におし迫っている。人はまず、この迫っているものを払はらいのけるために、道を修めなければならない。(一六四頁)
ちょっと難しい言い回しをしていますが、説明をします。
私達はこの世に涯はてがあるかどうかを必ず考えます。もし涯があるのなら、その涯にたどりつけたとするとどうなる
のでしょう。たどりつけた涯からまたその外を見ようとします。そうすると、涯の外にまた涯を探すことになり、つまり、
自分がたどりついたところは涯ではなかったということになります。
また、この世に涯が無いとしたら、どうでしょうか。どこまで行っても涯にたどりつけないとしたら、自分がここにある、
ということも、はっきりしない不安定なことになります。自分がここにある、ということをはっきりと分かりたい、
そうでなければ安心できないという気持ちを満足させることができません。
また、時間はどうでしょう。時間には、始めがあり終わりがあるのでしょうか。これも始めがあるとすれば、そこまでさかのぼる
ことができたとして、時間の始めのところに立ったとき、そこから「さらに前」の時間を見ようとします。つまり始めは無いと
言わなければなりません。また時間の終わりについても、「終わり」という未来に行けたとして、そこに立ったとき、やはり
「終わり」のさらに先を見ようとします。つまり終わりは無いと言わなければなりません。
そうすると、今、自分があるということは一体どうなるのでしょう。あるとも言えず、ないとも言えないような不安な気持ちに
なります。
また自分はこの世に生まれる前はどうだったのでしょう。やはり別の生き物としてあったのでしょうか。自分はその生き物の
生まれ換わりとしてこの世に出生したのでしょうか。
死んだらどうなるのでしょう。何か別の生き物に生まれ換わるのでしょうか。そうして極楽や天国とか言われるようなところに
行くのでしょうか。あるいは地獄に落ちるのでしょうか。そういうことや場所があるということをどうしたら確かめることが
できるのでしょう。これを解決しなければ死ぬに死ねない気持ちにもなります。
さて、そうして自分があるとはどういうことか、そうして自分はどうなるのかを求めて、私達は悩み、答えを求めますが、
そうしている間にも毎日の生活の中で、仕事や家庭や人間関係に追いまくられ、病気になって死ぬかもしれないという恐怖に襲われ、
あっという間に時は過ぎ、気がつけば人生の終わりにさしかかり、死はどうも間近に迫っています。しかし、問題は一向に解決して
いません。
経典には、極楽があると説き、そこの主である阿弥陀如来が我々を救うと言っています。そういう話を聞くと、自分の理解の
及ばない高いところで問題を解決してくれる尊いものがあるのだ、と一応納得するかもしれません。しかし、それで自分の心の
底にある「完全に知りたい」というきもちを満足させることはできません。一時黙らせることができるだけです。
納得したつもりになって、阿弥陀さんを信じたつもりになっても、しばらくするとまた疑いの気持ち=知りたいという気持ちが
頭をもたげ、心を苦しめます。そうしてまた時が過ぎてしまいます。
このようなことを繰り返して疲れ果て「どうせ分からないのだ。覚りなどというものは得られるものではない。仏教なんていくら
聞いても無駄だ。」と見限ってしまう場合もあるでしょう。実際このような人は多いのではないでしょうか。しかし、そうして
見限ってしまったとしても、心の不安は治まらないはずです。不安があるかぎり私達は答えを求めずにはいられません。
そうして不安の解決を追い求め、自分の考えの限りを尽くして答えを見つけようとした果てに、あるとき、ふっと心が静かになり、
自分がそうやって努力してきたことの全体を振り返る瞬間があります。こういうときは、日常生活の中で、ああしなければならない、
こうしなければならない、といった気持ちが静まり、何かをしようという心の騒ぎが静まる時間です。穏やかで落ち着いた一瞬が
訪れます。
そのとき、はたと解るのです。自分が努力して勤勉に求めてきたこと、そうして理解を深めたと思い、世界のことをより詳しく知った、
これが正しい道だ、と疑わなかったそのことが、実は疑いそのものだった、ということを。
阿弥陀仏とは何かを知りたいと思い、真剣にそれを求めているつもりで、いつの間にか阿弥陀を、この目の前にある茶碗を掴むのと
同じように、自分の思いで捕らえられるものとして扱ってはいなかったか。
阿弥陀仏の別名は不可思議光如来です。自分はその「不可思議(思議すべからず)」を「思議(自分の思い)」で捕らえられるという、
傲慢に落ち入っていたのではないだろうか。
この大きな勘違いにようやく気付いたのです。つまり、自分は一所懸命に努力して仏の智慧に少しづつ近づいていると思っていた。
そうして最後には覚りに至ることができると思っていた。
しかし、そのこと自体が大変な誤りであり、愚かなことであった、と解る時が来ます。つまり自分は愚か以外の何者でもない、
自分があるということは、このように愚かな者としてあり、愚かな者として死んでいくということである、とはっきり解ります。
しかし、これは絶望では全くなく、広大な明るさの中で、喜びを伴って自分の愚かさをはっきりと知るのです。この時、自分は
そのような愚かな考え方に今後は頼らない、と決断します。
だから、もう、宇宙の涯はあるか、とか、自分は死んだらどうなるかとか、このような問を立てることはしない、と決断するのです。
未練を残しつつ止めるということではありません。そのような問を立てること、そのことが間違いだ、とはっきり解って未練が
無くなるのです。
これが仏教の智慧です。つまり智慧とは
「自分が愚かだということが徹底的に解って自分というものに未練が無くなり、心が安らいだ状態にある」
ことを言います。
このとき不可思議光如来が心も言葉も及ばないところ、しかしそれははるかに遠いところではなく、それどころか自分の心の裏側に
あって自分を動かしている、ということを知ります。愚かさに気付かなかった時の自分は、自分の目や手足は自分が動かしているものと
思っていました。しかしそれは実は阿弥陀が動かしていたということに気付いたのです。
そうして自分はこれからは、阿弥陀の言葉にならない指示を聞き分けていこう、その指示に従って生きていくように努めようと
決心します。これは実は矛盾した言い方です。阿弥陀の指示は決してあるとは言えず、あるのは沈黙のみなのです。しかし、その
沈黙の中に無言の言葉を聞き分けていこうとするのです。
親鸞が自分を愚禿親鸞と名告り、法然が愚痴の法然坊と名告ったことは、実はこの智慧を得たからできたことなのです。
そうして、智慧を得た人の生活には次の三学さんがくが自然に現れます。
一、さとりを求める者が学ばなければならない三つのことがある。それは 戒律と心の統一(定じょう) と智慧の三学である。
戒とは何であるか。人として、また道を修める者として守らなければならない戒を保ち、心身を統制し、五つの感覚器官の入口を守って、 小さな罪にも恐れを見、善い行いをして励み努めることである。
心の統一(定)とは何であるか。欲を離れ不善を離れて、次第に心の安定に入ることである。
智慧とは何であるか。四つの真理を知ることである。それは、これが苦しみである、これが苦しみの原因である、これが苦しみの 消滅である、これが苦しみの消滅に至る道であると、明らかにさとることである。
この三学を学ぶものが、仏の弟子といわれる。(一七八頁)
三学(戒律・定・智慧)は伝統的な解釈では、戒を修め、定を実現し、智慧を得る、という修行の順番の形式とみなされがちですが、
これは三学の本当の意味をとらえようとしない、形式のみにこだわった考え方です。
先に述べたとおり、智慧を得たとき、すなわち、自分が愚かであることを徹底的に解ったとき、そこにはそのような愚かな自分を
頼りにしない立場が生まれます。
そうして身口意の三業を支配する自分の判断は正しいとする執着を離れます。つまり我を張らなくなります。そこに戒が自然に
成り立ちます。
また、自分が愚者であると解る明るみに絶えず帰ろうとします。ここに定が成り立ちます。
そして、自分が愚者であると知ることは、智慧そのものです。
このように、智慧を得たとき、戒、定は同時に成り立ちます。そうしてこの三学が日常生活の中で様々な形として現れたものを、
喜び受け取る姿勢を南無阿弥陀仏と言うのです。
2010/05/18