真宗大谷派 西照寺

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信・・・面倒なもの


 どうなんでしょうね、日常生活の中で「信じる」という言葉をわざわざ使う場面などあるでしょうか。 とりあえず「信じる」ということばの使い方を見てみましょう。

(1)「私は××を信じる。」
 私は親を信じる。私は子を信じる。私は夫を信じる。私は妻を信じる。私は友達を信じる。
私はサッカー日本チームを信じる。私は会社を信じる。私は国を信じる。私は神を信じる。
私は仏を信じる。私は阿弥陀仏を信じる。

(2)「私は××を信じて××する。」

私は病気が良くなることを信じて 医者の治療を受ける。
神に祈る。
仏に祈る。
阿弥陀仏に祈る。
   
私は日本チームが勝つことを信じて 応援する。
神に祈る。
仏に祈る。
阿弥陀仏に祈る。
   
私は会社が認めてくれる ことを信じて仕事を一所懸命する。
私は給料が上がる
私は仲間が尊敬してくれる
   
ついでに
私は浄土に往生することを信じて 阿弥陀仏に祈る。


 だいたいこれらの例で「信じる」の使い方は尽すのではないでしょうか。きちんと分類したわけではありませんが、 退屈ですのでこのへんにしておきます。
 よく考えてみるとわかりますが、ここで例に出した「信じる」ものやことは、私達が生活する上で欠かせない条件に なっているものが大部分です。
 例えば、朝、仕事に出かけて一日いっぱい働き、夕方の帰り道、今日の夕飯は何かなと期待して考える、そういう考えは どうして起こすことができるかというと、妻や家族が夕食を作ってくれているはずだ、という条件が満たされている からです。この「〜のはずだ」という思いをあえてことばにすれば「信じる」となるのでしょう。だから、生活の中では 「〜のはずだ」という思いは当たり前すぎて、言葉に出す必要はほとんどありません。したがって「信じる」という 言葉が生活の中で出てくることは、ほとんどないと言っていいでしょう。

 さて、そうして私達は「〜のはずだ」という条件が成り立つことを「信じて」──それが当然であるとして、生活して います。
 しかし、その「信じたもの」は私の期待にいつも答えてくれるわけではありません。ちょっとしか答えてくれなかったり、 あるいは完全に裏切ってくれることがしばしばです。そして、そのたびに私達は空しさや、不安、心細さ、怒りなどを 感じることになります。
 長く生きているほど、そういう経験を数多く積み重ねますから、私達は段々と「〜のはずだ」という自分の期待に用心 深くなり、つまり「信じる」という言葉は、ますます使いづらくなり、使った時はその言葉に白けた気分をいだくように なるのではないでしょうか。
 そういうところに「信ずる」と同じようなことばの、今回の表題の「信仰」ということばを出されても、おいそれと 応じることはできません。
 どうも「信じる」とか「信仰」ということばはうさんくさいのです。
 しかし、うさんくさい思いを持ちながらも、私達は何か本当のものを求めずにはいられない気持ちもあり、それを 「信じる」という言葉とつなげようとするようです。
 この気持ちは言葉にできないけれども、心の底から自分を突き動かします。
 その複雑な自分の心に注意しながら、今日の節「信仰の道」に目を通してみましょう。うさんくさい「信じる」の オンパレードです。誰がこんなきれい事をうのみにするでしょうか。しかし、そういう感想を持ちながらも、 この節の文章の中には何かうさんくささと違うものが流れています。そしてみなさんもおそらく、その何か違うものを はっきりさせたくてここに集まっていらっしゃる。そのあたりを今日は考えてみます。

 さて、先ほど出した「信じる」の例を反省してみると、そこには必ず「私は」ということばがくっついています。 私の望みや願いをかなえるために何かを信じる。しかし、そうして信じたものはほぼ確実に自分を裏切ってくれます。 そういうことを何度も経験するうちに、信じるということの嘘臭さがはっきりしてきて、用心深くなります。私は、 これは人として極めて正常な心の成長のしかただと思います。このような姿勢が思慮深くなったということです。
 その思慮深くなった目から見ると、「信じる」という言葉のうさんくささは、それに「私は」ということばがくっついて いるからだ、ということがわかってきます。この「私」の望みや願い、つまり欲望をかなえるための「信じる」 であるかぎり、それは結局自分を裏切りますから嘘(真実でないもの)とならざるをえないのです。
 私達は年を取るほど、そういう嘘をたくさん経験しながら、しかし、嘘でないもの(真実)を求めずにはいられません。 仏教で言う「信」とはどうも、そういうところを指しているものらしいと、段々と感づいてきます。
 そうすると、その「信」は「私」を取り去ったものに違いありません。なぜなら「私」があるかぎり、そこには 欲望があり、その欲望をかなえてくれるものへの信(信じる)は、先に見たように必ず裏切られるからです。しかし、 「私」を取り去った「信」だとすると、「私が信じる」とは言えない信となります。そんなものはことばとして 正しいのでしょうか、意味があるのでしょうか。
 おそらくことばとしては正しくないのです。信じる「私」の無い信など文法的にまちがいです。しかし、自分の心の底の 言葉になる前の希のぞみとでもいえるようなもの──欲望ではありません──からすると、この信は意味のあること なのです。
 ここに気づくことはなかなか難しいと思います。「信」ということばを使いながら、日常的な「信じる」という使い方を すべて否定しなければならないのですから。
 仏教の信はこの意味で「変な信」、「異常な信」なのです。そこを指して「不思議の信」と言ったり 「自分では決して起こすことのできない信」と言ったりします。

エーランダという毒樹の林には、エーランダの芽だけが吹き出して、チャンダナ(栴檀せんだん)の香木は生える ことはない。エーランダの林にチャンダナが生えたならば、これはまことに不思議である。いま人びとの胸のうちに、 仏に向かい、仏を信ずる心の生じたのも、これと同じく不思議なことといわなければならない。だから、人びとの仏を 信ずる信の心を無根むこんの信という。無根というのは、人びとの心の中には信の生え出る根はないが、 仏の慈悲の心の中には、信の根があることをいうのである。(一九七頁)

このように、自分の心(毒樹の林)の中に自分のものでない信(チャンダナ(栴檀) の香木)が生じるというのです。

 さて、この「変な信」、言葉にならない信が自分の心の底に、自分のものではないものとしてある、と気づいたとき、 世界はどのように変わってくるのでしょうか。
 「私が信じる」としか思っていなかった時は、私の欲望を実現するものを、私の外へ外へと求めます。そしてそれは、 先ほど確認したように、つかんだと思っても私を必ず裏切ります。つまり、私の欲望が成就した、と思ったとたんに そこは裏切りの場に変わり、空しさが蔽い、安まることのない苦しみに満たされる場に変わります。そこで、その苦しみから 逃げ出すために、また別の欲望を起こし、外へと真実を求めようとします。このように安まることのない生活を 「火宅」というのです。そしてこのような気持ちで真実を求めるかぎり、世界のどこに行っても火宅です。
 そうして世界中をのたうち回り、何遍裏切られても、その原因は「私が信じる」という心のあり方にある、ということに 気づくのは難しいことなのです。
 「私」がつかない「信」に気づくことはとても難しいのです。それがどれほど難しいかを次のたとえは、世界に満ちる火の 中をくぐり抜けて行くほどだ、と言っています。

この世界に満ちみちている炎の中に入って行ってでも、仏の教えを聞いて信じ喜ばなけ ればならない。まことに、仏に会うことは難く、その教えを説く人に会うことも難く、その教えを信ずることはさらに難い。(一九四頁)

誤解してならないことは、このたとえは、世界に満ちている火という困難をくぐり抜け克服していった先に本当の信がある、 といっているのではない、ということです。そのような考え方で求めることが、まさに信からどんどん遠ざかること なのです。そしてこの考え方には必ず「私」の努力があります。これを自力というのです。その「私」の消えたところ、 これを他力といいます。
 そして、ひとたび「私」のつかない「信」、「変な信」に気づいてみると、世界中どこに行っても逃れることの できなかった火宅は、実は自分の欲望が作り出していた幻影だったと気づきます。
 そして、自分が外へ外へと求めていた真実は、はじめから心の底に言葉ではとらえられないものとしてあって、 自分を支えていたということに気づきます。

                                 2010/06/26

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