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仏のことば
今回は「仏のことば」ということで、200頁です。本文は263頁までですので、この「仏教聖典を読む」シリーズも
あと少しとなりました。
今日の節も長いですね。209頁まであります。いつものようにぽつりぽつり拾いながらお話しします。まず、今日の
文章の出典、背景を説明します。四つのお経から取られています。これらのお経はお釈迦様が亡くなられて、あまり時間が
経っていない時に作られたものが主になっています。お釈迦様はだいたい2400年くらい前に亡くなられていますから、
それから100年〜300年の間くらいに作られたお経です。お経としては早い段階で作られています。
私達浄土真宗のお経に浄土三部経があります。大無量寿経、観無量寿経、阿弥陀経の三つです。ご法事の時によく読むのが
阿弥陀経です。これらの三部経が作られたのは、もっと後です。ですから、今日のお経はお釈迦様に近い時代のもので、
はじめの頃の形を残しています。素朴な表現です。それに対して浄土三部経は、大乗経典といって後から出てくるのですが、
もう素朴ではなくなります。建物にたとえれば、早い段階のお経が小さな小屋だとすれば、大乗経典は壮大な建築物に
なります。大乗経典は、お釈迦様の精神を引き継いで発展させたものですが、お釈迦様が話されたことばに近い素朴な
表現は無くなってしまいます。ですから、今日の文章はお釈迦様の生の声を聞くような思いで読んでいただくと良いと
思います。
この文章を読んでこられた方もいらっしゃると思いますが、素朴だということは、良いところもあるのですが、
言葉足らずのところが出てきてしまうことでもあります。私が小学生の頃、道徳の時間というのがありました。
その前は修身と言ったのですかね。今日お出でのみなさんは道徳か修身のどちらかの授業を受けたと思います。
今はそういう授業は無いのですよね。
道徳の時間の授業の内容は、格言とかありがたいお話とか、ためになるお話とかで、少々退屈な時間でした。
そして、本日の節は、読んでみると道徳の時間のお話に似ているところがある。何だこんなことか、という印象を受ける。
お釈迦様はこんな当たり前のことを話したの?と。ところが、さらにその文章をよくよく見ると、やはり何か違う部分がある。
そして、それはきちんと解説してもらわないと、わからない部分でもあります。
ここには、いろいろな細かい言葉が寄せ集められています。それぞれの文章の前後関係はあまりありません。
二、三行づつ色々なお経から引いてあります。通して読まれるときは、とりあえずわからない文章は放っておいて、
わかるところ、興味を引かれた文章に注意をむければ良いでしょう。今日、みなさんにお渡しした文章も、
私なりに興味を持った部分の抜き書きです。それでは読みながら進めましょう。
屋根のふき方の悪い家に、雨が漏るように、よく修めていない心に、貧むさぼりのおもいがさしこむ。(二〇〇頁)
これだけです。こういうことばをどうとらえたらよいか。ここで言っている「貪りのおもい」を考えてみましょう。
貪りのおもい=貪欲とんよくですね。
復習すると貪欲、瞋恚しんに、愚痴。貪りと怒りと愚かさ、これが三毒、三つの毒ですね。これは人間に
必ず具わります。絶対に人間から消せない、根本の毒ですね。
貪りのおもいは私の考えでは執着と同じです。なぜなら、貪って何かを求めるということは、それに執とらわ
れることですから。お金が欲しいと思えばお金に執われますし、頭が良くなりたいと思えば、自分の能力が上がることに
執われるわけですから。ですから貪りと執着は切っても切れない関係になっている。
そういう、貪り・執着でいちばん根本的なものは何でしょうか。腹が減ったら食物を貪り、お金がなければお金を貪り、
つまり生活していて貪らないということはありえません。貪りとか執着は悪い印象を与えることばですが、これがなければ
我々は生きることができません。
その中でもいちばん根本の執着は自分の生に執着することです。それは単に生きていたいということだけではなく
「このままで、いつまでも生きていたい」という執着です。健康で幸せなこのままの自分で何事もなくいつまでも生きて
いたい。
家内安全とはそういうことですね。これを願うのは私達の正直な気持ちです。だれもこれを悪いことだとは思わない。
みなさん正月の三ヶ日には家内安全を願って神社にお参りしますね。それは正直な願いですから、悪いとは言えない。
しかし、このお釈迦さまの言葉は、その正直な心の底からの願いに問題があるのだ、と言ってきているのです。
つまり仏教というものは、もともと人の心を逆なでするようなところがあるのです。
仏教は「諸行無常」をやかましく言います。いつまでもこのままで変わらずに生きていたいという願いに対して、
そんなことはないよ、全ては移り変わるのだよ、明日になれば一日分老いを増し、死に向かって生きているのだよ、
と言ってきます。そして世の中は必ずそう動きます。もし自分がたまたまそんなに変わらず安泰だったとしても、
知り合いに不幸があったり、災難がふりかかっています。諸行無常はいやでも認めなければならない。そういうふうに
坊主から言われればそうかなと思うでしょうが、それでも心の底から認める気持ちにはならないでしょう。
諸行無常から何とか逃れようとします。変わらない自分を何とか守ろうとします。
この気持ちの根はおそろしく深いのです。よくよく考えてみるとこれは自分の心そのものなのです。このまま変わらない
自分があるだろうと考えないと心そのものが成り立ちません。
病気になるだろう、ガンになるだろう、ということを平然と認めるような心は気違いです。自分は健康で頑張れると
思ってこそ、心は積極的に動き出せるのですから。つまり、諸行無常をいくら理屈で分かったとしても、生きている限り
この気持ちから離れることはできません。
しかし、ここからが分かれ目となります。
その変わらない自分を守ろうとする気持ちに従い、自分だけ、自分の家族だけがいつまでも変わらすに幸せであれば
良いのだ、という方向が一つ。
その気持ちを離れることはできないのだけれども、それは間違いなのだ、と認めてそこを足場にするという方向がもう一つ。
このどちらを選ぶかで生活の仕方ががらりと変わります。そこがお釈迦様の教えと道徳との違いでもあります。
道徳は自分を大切にして希望を持って生活するということを認めますね。それは間違いではないのです。しかし、
それだけでは根本的な解決にはならない。そういう自分に執着する気持ちの根本をきちんと見ないといけないというのが
お釈迦様の教えです。
もう少しこの「いつまでも生きていたい」という気持ちの分析をしてみましょう。毎日の生活はこの気持ちが、
諸行無常の実際の現実に攻撃されることです。諸行無常の具体的なものとして老いや病や事故や死に攻撃されて砕かれて
いきます。攻撃されると防がなければならないが、防ぎきれない。そこに怖れと不安が起きます。病気になりたくない、
事故に遭いたくない、仕事を失いたくない、という怖れと不安です。そしてたまたま自分がそういう怖れや不安を少しの
間まぬがれていたとしても、家族のだれかが病気になったり事故に遭ったりする。家族はいわば自分の一部です。
そして住んでいる家や町全体も自分の一部であると言える。それらが諸行無常の現実から攻撃を受けますから、
怖れと不安が必ず色々な形で出て来ます。目が覚めている時ばかりでなく、寝ているときも夢となって襲ってきます。
そして、私達はこの怖れと不安から逃れたいわけです。お釈迦様の教えは簡単に言えば、この怖れと不安をいかにして
無くすか、ということです。お釈迦様ご自身もその道を求められて、そして見つけたと仰った。お釈迦様はどんな方法で
それを成し遂げたのでしょうか。
「いつまでも生きてきたい」という執着からは逃れられない。そして逃れられないと解ったときの執着の大きさを10
とします。
先ほどの分かれ目ですが、普通はその貪り・執着から起きる怖れと不安から解放されるために、その貪りをどんどん
大きくしていきます。お金が無くて不安だと思ったら、不安が無くなるまでお金を儲けようとする。病気の場合、
治そうというのが私達の当たり前の気持ちですが、それはやはり執着です。一所懸命病院に通って、大きな病院だと
一日がかりで待って、そして医者と数分面接して、薬を処方されて帰る。それを続けていれば治ると信じてやる。
それは医療技術という科学ですから治る可能性はあるでしょう。しかし、すこし冷静に考えれば執着です。
それを悪いとは言えませんが。そういった努力をどんどん大きくしていく。
それが世間の常識です。そしてそれがたまたまうまくいった時は一時的に不安は消えるでしょう。お金を一千万円儲けたら
自分は不安が無くなるだろうと思って一所懸命ため込みます。しかしお金というものはその目標額を達成すると、
さらに欲しくなります。私も経験有ります。一千万貯めれば不安が無くなるだろうと努力していたのですが、
一千万貯まってみると今度は二千万貯まらなければ不安だということになります。だから、金持ちほどケチになるというのは
ある面当然のことです。
病気もそうです。ガンがたまたま治ったとしても、こんどはいつ再発するかわからないという不安に苦しめられます。
そして、このパターンを続ける、つまり10の大きさの執着を20,30と大きくしていく限りは、貪りをどんどん大きく
する方向ですから、決して不安から解放されません。
そこで、解放される道はどこにあるかといえば、この反対を目指すのです。10の大きさの執着は消せない。
消せないけれども、小さくしていくことはできます。10を7に、7を5にと小さくしていくことはできる。
そうすると不安もそれに応じて小さくなります。事実上、無くなったといっていいくらいにまでできる。
お釈迦様はそれをやりました。
執着が小さければ、不安から解放されたいという自分の気持ちの手のひらに載せて、それを制御することができるように
なります。
そのとき、自分がいかに毎日執着に振り回されているかということが反省の中でわかる。しかも振り回されない、
手の平に載せて制御できることもわかる。そうして、執着を管理していくように努めるようになる。
すると、不安が増大するような生活はしなくなるし、不安の影響を受けることもはるかに少なくなる。
それだけ心が平安になります。
いま、不安を解消する仕組みは説明しました。しかし、それが本当に解ったと言えるのは、それを経験したときです。
その経験の感じ方はみなさんそれぞれ違うと思います。そして、それを経験したとき、おそらく自分と世界の見え方が
変わります。同時に、自分が生まれる前はどうだったとか、死んだ後どうなるか、といった不安も非常に小さなものとなり、
あまりとらわれなくなります。そういう気持ちが徐々にできてくると思います。
いっぺん、そのようにわかるるきっかけをつかみます。そうしたら、その気持ちを丁寧に丁寧に扱って、常に自分の心に
よみがえるように、強くなるようにしていく、そういう努力が必要になってきます。
そういう見方でお釈迦様のこの短い文章は語られている、と思ってください。もう時間ですので引用文章をざっと読みます。
屋根のふき方の悪い家に、雨が漏るように、よく修めていない心に、貧むさぼりのおもいがさしこむ。(二〇〇頁)
「よく修めていない心」というのは10の執着を20,30と大きくしていく方向で不安を解決しようとすることです。
「よく修めている心」は10を7に7を5に小さくする方向です。
眠られない人に夜は長く、疲れた者に道は遠い。正しい教えを知らない人に、その迷いは長い。(二〇一頁)
「眠られない夜」とは、先ほど言った不安が現れる夢です。心の修め方を知りませんので、不安から逃れる道を求めながら、 貪りをどんどん大きくしていくとき「疲れた者」となります。
これはわが子、これはわが財宝と考えて、愚かな者は苦しむ。おのれさえ、おのれのものでないのに、どうして子と 財宝とがおのれのものであろうか。(二〇二頁)
おのれとは「いつまでもこのままでありたい」という自分ですが、それは決してかなえられません。だからおのれのもの ではないのです。
愚かな人は常に名誉と利益とに苦しむ。上席を得たい、権利を得たい、利益を得たいと、常にこの欲のために苦しむ。 (二〇二頁)
貪りを大きくしていけば必ずこうなります。今話題の相撲とヤクザの問題はこれですね。テレビに映る席に座りたいという。
大工が木をまっすぐにし、弓師が矢を矯ため直し、溝みぞつくりが水を導くように、 賢い人は心をととのえ導く。(二〇三頁)
これも心を修めるということです。
どんな人でも、もしまことに自分を愛するならば、よく自分を悪から守れ。若いとき、壮さかんなとき、 また老いた後も一度は目覚めよ。(二〇四頁)
この悪とは、貪りを大きくするような方向を言います。「 若いとき、壮さかんなとき、 また老いた後も一度は目覚めよ」これは含蓄がありますね。つまり、いっぺんだけ覚ったと思っただけではダメだと 言っています。それを何遍も大切に深めていかなければならない。若い時から老いるまで、生きている間はずっと、 目覚めを求め経験しなければならない。
執着があれば、それに酔わされて、ものの姿をよく見ることができない。執着を離れると、ものの姿をよく知ることができる。 だから、執着を離れた心に、ものはかえって生きてくる。(二〇八頁)
つまり貪りの心でお金が欲しいと求めるとますますお金のことがわからなくなります。その間違いがわかって、
お金に対する貪りを鎮める方向に努力すると、かえってお金のことがわかってくる。
巨額の冨を持ちながら、質素な生活をし、必要であればその冨を惜しげもなく手放すという金持ちの美談を聞きますが、
そういう金持ちは心を修めることができているのでしょう。
過ぎ去った日のことは悔いず、まだこない未来にはあこがれず、とりこし苦労をせず、現在を大切にふみしめてゆけば、 身も心も健やかになる。(二〇八頁)
これは現代風の言い方をしていますが、「過ぎ去った日のことは悔いず」とは自分の生まれる前のことも含め気にするな
ということです。「まだこない未来にはあこがれず」とは自分が死んだ後のことを含めて気にするなということです。
「現在を大切にふみしめてゆく」とは、現在は過去にも未来にも必ずつながっている現在だけれども、過去と未来に執われて
いては現在はありませんよ、と言ってきます。現在を大切に扱うことを続ける努力をしていけば、それが自然に過去にも
未来にも通じていく。
最後に仏教聖典からではなく、真宗では以上のようなことをどう言っているか、という例を出します。
そもそも、今度一七か日報恩講のあいだにおいて、多屋たや内方ないほうもそのほかの人も、 大略たいりゃく信心を決定けつじょうし給えるよしきこえたり。めでたく本望ほんもう これにすぐべからず。さりながら、そのままうちすて候えば、信心もうせ候うべし。細々さいさいに信心の みぞをさらえて、弥陀の法水ほっすいをながせといえる事ありげに候う。(蓮如 御文 第二帖目第一通)
「信心を決定し給えるよし」、今日の説明で言えば怖れと不安を取り除いた。信心を得るということは、教えがその人に
伝わったということですから「めでたく本望これにすぐべからず」。
しかし、「そのままうちすて候えば、信心もうせ候うべし。」、不安を解消したからといって放っておくと、一度得たと
思った信心は無くなってしまう。
「細々に信心のみぞをさらえて、弥陀の法水をながせ」、先ほどの例で溝つくりの例えが出てきましたが、同じことを
言っています。信心を得たと思ってもその溝はすぐに貪りで濁るから、常にその泥さらいを怠らず、そこに教えの水を流せ、
ということです。毎日努力しなければならない。ですから、仏教聖典と同じことを言っています。
2010/07/29