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出家修行と悪人
2010年10月16日 同朋の会「仏教聖典を読む 第33回」
出家の生活(212頁) から
西照寺としては珍しいことですが、この一週間ほど葬式が続いてしまいまして、今回の話の準備が十分にできません
でした。話題はあるのですが、筋道立って話ができるところまで用意していません。思いつくまま話していくことになり
ますが、お許しください。
さて、この前の葬式の後のご法事のお斎とき(会食)で隣に座られたご婦人と色々お話をしました。この方の
お宅の隣にお寺があるのだそうです。旦那さんがこのお寺の住職と親しくなってそこの檀家となりました、そして旦那さんが
亡くなったときに「大変立派な戒名」をもらったということです。そして自分が死んだ時に旦那さんと同じような戒名を
もらおうとしたら、ずいぶんお布施を出さなければならないでしょうね、と言われました。
私は「はぁ、そうですか」と聞いていて「私も法名を付けますが、原則は釋××の二文字です。これに位の高い低いは
ありません。立派な坊主だろうと、一般人だろうと同じです。院号というものもありますが、うちでは付けて欲しいと
言われれば付けますが、本来は釋××で完結します。そして名前に値段はありませんよ。」と返しました。
ところがその人は私の話が理解できないようなのです。なんとなくポカンとして、立派な戒名を付けるなら、高いお金を
出さなければならないのは当然だろうという表情です。まあ、私もそれ以上いろいろ言ってもしかたがないので、それだけの
話で終わったのですが。改めて世間というものはそういうものか、と思わされたわけです。
先の彼岸会で「葬式と金」という話題を出しましたが、今回の
ご婦人の話と通じるものがあると思いました。片方は金額の高い話、もう一方は金額の低い話ということで、方向は逆ですが
程度は同じです。このご婦人は随分出させられのだといったことを言われましたが、その出したことにある種の誇りを
持っているように感じました。受け取るお寺も暗黙の了解があるはずです。私は寺と一般人の関係がこうなってしまったの
はどちらのせいかというと、寺の方が悪いと思っています。しかしお布施というお金を出す方も、高いお金で虚栄心を満足
させようという動機がある。出す側の問題もあると思うのです。
お寺と檀家、葬式の関係はほとんどこれで動いている。そしてインターネットの葬式サービス業が出てきたのは、右肩上
がりの経済成長が無くなったからです。経済成長が続いて、それが終わってもしばらくその余韻があった時代は、あまり
お金のない人でもお布施をはずんで、いい戒名を付けて下さいと言うことが20年くらい前まではできた。
ところが現在は、そういういわば見栄を張る余力が無くなってきた人がどんどん増えている。そこをマーケットにして、
インターネットの葬式サービス業者が進出していると思う。ここでも優先されるのはお金です。全部の費用はこれしか
出せない。その中で坊さんに払うお布施――そういうやり方で決まるものがお布施とはとても言えないのですが――はこれ
くらい・・・、そういう配分を業者がやってくれて、寺と直接交渉しなくても良いのであれば、そのサービスに乗る人は
結構いる時代になった。
私もこんなことを言いながらも、「葬式と金」に書いたとおり、
正直なところお布施はいくらでも高い方がいいです。しかしそれを口に出して言ってしまったら坊主でなくなってしまう、
という立場に何とか踏みとどまっています。頂いたものの中で何とかやりくりする、できなくなったらそれまでだ、
というところに腹をくくらないと、坊主という仕事はやれないと思う。しかし、そういう考え方が世間の感覚とずれがある
のかな、と思わされます。そして、お金の高い低いを基準にしてしまうと、坊主も一般人も見るべきところが見えなくなって
しまう、と思います。
お金ということでいえば、現在進行中の本堂・会館の増築と修復事業ですが、ご寄付のお申し込みが事業の最低ラインを
上回り、無事着工できることになりました。しかしまた、お申し込みの内容を見るとやはり世の中は厳しいということが
実感させられます。
さて、今日のテキストのテーマは「出家の生活」です。
わたしの弟子になろうとするものは、家を捨て世間を捨て財を捨てなければならない。
教えのためにこれらすべてを捨てたものはわたしの相続者であり、出家とよばれる。
たとえ、わたしの衣の裾すそをとって後ろに従い、わたしの足跡を踏んでいても、欲に心が 乱れているならば、その人はわたしから遠い。たとえ、姿は出家であっても、彼は教えを 見ていない。教えを見ない者はわたしを見ないからである。
たとえ、わたしから離れること何千里であっても、心が正しく静かであり、欲を離れているなら、彼はわたしの すぐそばにいる。なぜかというと、彼は教えを見ており、教えを見る者はわたしを見るからである。(212ページ)
とてもわかりやすく言っていますね。立派なことです。しかし、家を捨てるとは家族を捨てるということです。無責任極まり
ないとも言える。世間を捨てる、俺はお前等とは関係ないと切り捨てる。財を捨てる、これは立派と言えそうです。しかし、
家を捨て世間を捨てる――子供を捨て、配偶者を捨て、父母を捨てるということは、これを文字通りやってしまうと、
仏教徒はとんでもない奴らだとなるでしょう。
お釈迦様は覚りを開く道に入ろうと決心した時、家を捨てました。お釈迦様はその時優先順位を付けたと思うのです。
お釈迦様のその時の第一の目的は覚りを開くことです。自分が覚りを開かずにそのままでいたのでは、家族までダメに
なってしまうという危機感はあったと思う。そこで覚りを開くためには家族をとりあえず、捨てなければならない。
この「捨てる」ということを私なりに考えるのですが、「家を捨てる」ということは「家への欲望を捨てる」ということ
だろう。家が繁栄してほしいとか子供を世間に対して恥ずかしくないように育てるとか、こういったことはさっきの話の
虚栄心と同じものです。そういうものは覚りを得るという目的の妨げとなるので捨てる。しかし、家族への慈愛ともいう
べきものは捨ててはいない。その証拠にお釈迦様は覚りを得られた後、家族のもとに帰り、父母、妻子を導いて覚りへの
道に入らせています。
「捨てる」ということを今回の増築修復事業に関係させて言うと、事業の説明文を三ヶ月ほど前に皆さんに送りましたが、
その中で寄付は布施であり、喜捨であると書きました。寄付という行為によって、お金につきまとう欲望、それを喜んで
捨てるのです。そういうきれい事で事業を進められるかという反論はもちろんわかりますし、私も住職として段取りを
進める時は、当然いろいろな策略を練ります。しかし、仏法に対して金を出すことは、すなわちその金に対する欲望を
捨てることである、という根本は決して忘れてはいけないと思っています。
釈尊の「慈いつくしみを捨てず、欲望を捨てる」気持ちはどこから出てくるのでしょうか。
さて、出家のしなければならないこととは何であるか。
慚ざんと愧ぎをそなえ、身と口と意による三つの行為と生活を清め、よく五官の戸口を守って、 享楽に心を奪われない。また、自分をたたえて他人をそしるということをせず、怠けて眠りにふけることがない。
夕方には静坐や歩行をし、夜半には右わきを下に、足と足とを重ね、起きるときのこと をよく考えて静かに眠り、明け方にはまた静坐したり歩行したりする。
また日常生活においてもつねに正しい心でなければならない。静かなところを選んで座 を占め、身と心とをまっすぐにし、貪り、瞋いかり、愚かさ、眠け、心の浮わつき、悔い、疑 いを離れて心を清めなければならない。
このように心を統一して、すぐれた智慧を起こし、煩悩を断ち切って、ひたすらさとりに向かうのである。 (214ページ)
親鸞は慚愧という言葉を解釈して「天に恥じ、人に恥ず」と言いました。恥じる心を持たなければならない。これはどう
いうことかというと、人の上に立とうとか、人を自分に従わせようとかいった気持ちの反対の気持ちを持ちなさいという
ことです。そして、心口意の三業を清め、五官――目、耳、鼻、口、身体――と、これに意が加わると六根になります。
これで形と精神的なものが一つになって人間という我々ができています。そして、五官の戸口を守れと言っています。
見て、聞き、嗅ぎ、味わい、触る、それらから起こる欲望や感情を制御しなさいという。しかし、これは欲望を消せと
言っているのではありません。欲望を消してしまっては、何遍も言っている通り、生きていられませんから。しかし、
欲望を大きくすることは慎めと言っている。欲望を消して死んだら元も子もありません。生きていて何とかしなければ
ならない。
「怠けて眠りにふけることがない。」・・・私などはさきほと言った通り、週に二回も葬式があると夕食の後にしなければ
ならないことがあっても、疲れて眠り込んでしまいます。怠けて眠りにふけるとはそういう姿です。
「静坐や歩行をし」・・・静坐とは座禅のことです。座禅とは禅宗だけが行うものではなく、仏教徒であれば生活の中で
本来誰でもやるべきことです。真宗の場合は座禅の形も作法もありませんが、「教えを聞く」とか「聞法」という言い方が
座禅につながります。座禅というのは、座って頭を空っぽにしているのではなくて、実は頭がフル回転しています。その中で
この世と自分との関わりはどうなのか、それらをどうとらえるのかといったことを、言葉を超えたところで考えている。
歩行というのは、身と心を眠らせないようにするための作法です。座禅も心を眠らせてはいけないのですが、座ると眠く
なる。形だけ座禅して眠ると叩かれます。座禅は眠る危険性がありますが歩行は眠ることができない。実は親鸞は比叡山で
この歩行の修行をやっていたようです。ところが日本の仏教の修行というものは、形だけの極端に走りがちで、修行ではなく
何日も寝ないで歩き続ける苦行になってしまっていた。苦行はお釈迦様がこんなものは意味が無いといって捨てた行為です。
親鸞もおそらく、こんなことをやっていても覚れるものか、と気づいて山を下りたと思う。
しかし、本来の歩行は違います。毎日少しづつやるのです。一日の生活スケジュールが規則的に決まっていてその中で、
静坐をしたり歩行をしたりする。そういう生活を毎日続けることで五官を制御し、心が安定して集中する形を作っていく。
とても理にかなったやりかたです。
「起きるときのことをよく考えて静かに眠り」・・・眠るのにも作法があるのですね。起きるときのことを考えて寝ろ、
というのです。眠りに身を任せてはいけない。眠るというのは煩悩です。本当は寝てはいけない。しかしそんなことしたら
死にます。つまりこれも眠りを貪るな、ということを言っている。眠りも欲望なのです。
とりあえず、私の解釈でこの文章を読むとこのように理屈は通ります。さてそれで、これを自分はやれるでしょうか。
これが問題です。
しばらく前の私であれば、こんなことはやれません、と言ったのですが、最近は違います。こんなことはやれないから
阿弥陀さんを頼むといった理屈を我が宗派はすぐ言ってしまうのですが、それはどう考えても逃げなのです。こういうことは
やらなければならない。やらなかったら人間ではなくなります。欲望に身をまかせてしまっては元も子もありません。
やらなければいけない、しかし非常に困難である。それは自分の素質をよく反省すると痛感する。頭は良くない、怠惰
である、そういったことが見えてきて、天に恥じ人に恥じるけれども何一つ善いことができないと思い知らされる。
そのとき自分が悪人であると知ります。
悪人とは悪いことを好んでするという意味の悪人ではなく、善いことを何一つできないという反省の意味で悪人と言う。
悪人だから悪いことをしてもいいのだ、阿弥陀が救ってくれるという言い方が昔も今もありますが、このような理解の
しかたで教えをわかったと思うのはレベルが低すぎる。大谷派のものの言い方でもこのような言い方に走りがちですが、
私に言わせれば非常に怠慢だと思う。
善いことを何一つできない。静坐しても歩行しても心が乱れ集中できない。しかしそれでもなお覚りを求めたい。悪人で
あるからこそ覚りへの希は強くある。こうして悪人の反省が徹底してくる。自分というものは、悪に近づきやすい性質を
持っているし、その改善の見込はほとんどない。そこで絶望してしまってもうダメだと思ったら、人間を止めましょう
ということになる。絶望するのではなく、そういう自分を引き受ける。その自分は一人ではありません。家族や世間と
関係しています。家族に対する慈しみや社会に対する責任もある。そういう悪人です。そうして、他者に関わり他者を
殺さざるをえない、他者の犠牲の上に成り立っている自分である。そのどうにもならないところから、覚っていく。
悪人である自分が、全世界を自分とする。おおげさな言い方になりますが。悪を行わざるをえない世界が全部自分に
関係してくる。自分と家族はその地域に属し、地域は国に属し国は地球に属する。地球は宇宙に属する。今このように知る
自分に過去と未来もつながっている。これら全部が自分に関わってくる。それら総てが悪で殺し合っている。そこに絶望して
も解決はつかない、しかしなんとかしなければならない。世界を自分とする、と偉そうなことを言っても何もできない。
世界すべてが自分だ、と言いながら父母や妻子や友人とは違うものとして自分を立て、そこに閉じこもろうとする悪人の
私がある。さあどうする。この動くに動けないところに、阿弥陀仏がでてくる。
真宗の宗派の言い方だと、阿弥陀仏を頼んで皆さん一緒にお念仏しましょう、という風になりがちですが、この言い方では
自分の外そとに阿弥陀仏がいるようなふうになってしまう。そして自分は悪人だから、外にいる阿弥陀を頼みま
しょうというとらえかたになる。そんな甘いものではない。自分が阿弥陀仏にならなければいけない。世界を自分とすると
いうことはそういうことです。世界を自分として世界に責任を取らないと、自分は救われない。悪人だからこそ全世界の
悪の連鎖が分かる。この悲しい殺し合いをする世界が自分だ、となったとき、それでもその中で慈しみの心を持って少しでも
善い方向にもっていこうという心に変わる。その時に、そういうことをさせるものは自分なのだが自分ではないもの
――それが阿弥陀仏というものです。そこに思い到る。
非常に変なことを言っております。自分なのだが自分でないなんて矛盾でしかありません。しかしそうとしか言えない。
阿弥陀仏が自分の外にいると思ったら、無責任になってしまいます。確認しようもないものを頼りにするというのでは
無責任です。己が責任を負わなければならない。そうでなければ完全な解決にはならない。しかしとても負えない。
悪人ですから何一つ善いことができない。この重さを感じたとき、これは言葉にならないと解る。言葉にならないものを
自分は引き受けたのだと知ります。それが阿弥陀仏です。自分が抱え込むことができるものは有限ですが、抱え込んだ外側が
必ず残ります。それも全部引き受けるというとき、それは無限・無量となる。帰命無量寿如来の無量です。はかりしれない、
しかしそれは自分が引き受けるべきものとして確かにある、と決着します。そのとき初めて南無阿弥陀仏となる。何一つ
善いことはできないけれども善いことに対する希望は決して失わない。
非常に危ない部分を脈絡なく喋っております。自力と他力ということもここに関係してきます。
引用の最後の部分を読んでみます。
もし出家の身でありながら、貪りを捨てず、瞋いかりを離れず、怨み、そねみ、うぬぼれ、た ぶらかし、といった過ちを覆い隠すことをやめないなら、ちょうど両刃もろはの剣を衣に包んでいるような ものである。衣を着ているから出家なのではなく、托鉢たくはつしているから出家なのではなく、経を読んで いるから出家なのではなく、外形がただ出家であるのみ、ただそれだけのことである。(215ページ)
これは出家の格好をしている私のような者にとっては重い戒めです。葬式を行うときは形は出家の格好で出ていきます。すると
葬儀屋さんに深々と頭を下げられて、いかにも偉そうにしていますが、中身はこういうことです。
同じことを言っている親鸞の和讃を引いておきましょう。
五濁ごじょく増ぞうのしるしには
この世の道俗ことごとく
外儀げぎは仏教のすがたにて
内心外道げどうを帰敬ききょうせり
今日は全然用意ができなくて喋ってしまいました。終わります。
2010/10/25 公開