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おちこんだ気分にご立派な言葉
2010年12月18日 同朋の会「仏教聖典を読む 第34回」
信者の道(218頁) から
本堂、会館の増築修復事業が建設委員会で進められております。皆さんから頂く寄付の範囲内で
事業を達成しなければならないため、赤字を出すことはできません。しかし、具体的に詳しい見積を取り、
金額を積み上げてみると赤字になってしまいました。
そこで、相見積りを取らなければならなくなりました。相見積りを取る業者には、はじめの業者が出した
金額はもちろん見せません。しかし、あとから見積を取った業者の多くが、はじめの業者より低い金額を
出してきました。こちらを採用すれば黒字になります。
しかし、寺としては、はじめの業者とずっと付き合ってきました。そこで、それらの業者に歩み寄りが
できないかをこれから相談しようとしているところです。
寄付は寺のため仏法のために集めると言いながら、予算を持つ立場としては業者と金銭的な駆け引きを
行わなければならない。そんな中で、五十年来境内の建物の建築を任せていた棟梁にこの事業から下りら
れてしまいました。何と言っても棟梁が建築の中心にある立場ですから、その人から下りると言われたときは
大変なショックでした。おそらく棟梁も長年の関係を切らざるをえないことに割り切れないものがあったと思います。
このように金銭的なことから互いの信頼関係を解消せざるをえないような状況になってしまいました。
そして、これまで棟梁が行っていた業者との調整や作業内容の検討、見積のチェックなどを私が行わなければ
ならなくなりました。建設委員長からは金を節約して上げるのだから、それくらいの手間は負わなければ
ならないと言われましたが、全くその通りで、自ら手を動かさずに偉そうに控えていたのでは事が進みません。
また事業の内容を一番把握しているのは私ですから、やはりやらなければなりません。さて、そういうことで
落ち込んだ気持ちで作業を行っています。
色々な思いがよぎります。棟梁との長年の交流がこんな結末を迎えてしまったこと、皆さんから頂いた
寄付は大切に使わなければならないこと、来年前半の完成をめざしてもたもたしていられないことなど。
沈んだ気持ちで多くの作業をこなしていかなければならないので、毎日とても疲れます。そして、今月も
同朋の会が翌日に迫ってきました。話の中身を考えなければなりません。
今回は「信者の道」です。読んでみるとずいぶん立派な内容が書いてあります。
慈悲を心のもととするから、すべての人に対して好ききらいの思いがなく、心が正しく清らかであるから、 進んであらゆる善を修める。(220ページ)
自ら教えを得て、広く施し、敬うべき人を敬い、仕えるべき人に仕え、深い慈悲の心をもって他人に 向わなければならない。利己的であったり、思うままにふるまうのは、道を行う人の行いではない。(221ページ)
今の心境の自分にはこういうことばはとてもよそよそしく感じる。棟梁は増築部分の屋根の収まりを考えて夜も
寝られなくなると言っていましたが、そこまで考えてくれていた棟梁に疑いと恨みの気持ちを起させてしまった
のではないだろうか、そういう後悔を起します。こんな自分はとても「善を修める」と言えた立場ではない。
しかしまた、この結果に至ったことは避けることができなかったという思いもあります。寺をめぐる時代の変化は、
建設委員会を立ち上げることを要請しています。委員の皆さんには本当にご苦労をして頂いております。特に十二月
はじめからの事態の慌ただしい展開の中では、毎週の打合せに加えて、緊急会合と昼夜を問わずに集まって一緒に
悩んでもらいました。委員の皆さんがいなければ私は判断を間違っていたと思いますし、一つ一つの問題をじっくりと
考えることもできなかったでしょう。
建設委員会を立ち上げた以上、相見積りを取ることは避けられなかった。・・・皆さんのご寄付を無駄にしては
いけませんからこれは当然のことです。
そうして棟梁と私達の道は分れてしまった。
こうして、ここ二週間ばかりの濃密な経験をせざるをえなくなったことで、これまでに無かった自分の一面が
育ってきていることも感じます。それは次のようなものです。
- 起きている事実をそのまま受け入れる。
- その事実は自分に都合の悪いことが多々あるが、それを避けようとする気持ちを抑えること。
- 事実に対する自分の振る舞いへの家族の批判や意見がある。それに対して理屈を付けてとりつくろおうとする衝動をこらえて、よく考えること。
こういう姿勢を自分の中に見出しえたのは、今回の逆境が一つの機縁になったものと考えています。
(ちょっとおおげさかもしれませんが。)
その中で、自分の為すべきことをよく考え、人の意見を聞き、更に考えて判断していく。そういう過程の中で、
次のような言葉は現実味をもってとらえられてくるのではないでしょうか。
教えを聞く人は、もとよりこの身を無常なものと見、苦しみの集まるもとと見、悪の源と見るから、この身に執着しない。
しかしまた、この身を大切に養うことを怠らない。それは楽しみを貪るためではなく、道を得、道を伝えるためである。 (222ページ)
やはり私達は、他人との関わりの中で葛藤を起し、空しさを感じ、悔いを起す。そこから慚愧の心が生まれる
と思うのです。さらにそこから、それまで争っていたり憎んでいた他者を慮おもんぱかる心が起る。
それがここで言っている「道」を求める心ではないかと思います。
それを大切にしなければならない。怒りや憎しみや軽蔑や傲慢の気持ちに負けることがあってはならない。
そう自分を諫め、心を静かにして熟慮するところに他者への共感と憐れみと慈しみの情が出てくる。そしてこの気持ちが
己の心を広大なもの=仏の心に近づけていくのではないかと思います。その例として、また朝日新聞のインターネット版
からですが良い記事がありましたので引用しておきます。
「鬼と人との間でした」 母の介護10年、苦悩描く
(これは秋彼岸会法話「葬式と金」で話題にした記事とは違い、記者の文章はとても良いと思います。)
全世界を解ろうとする努力――覚りを求めるとはそういうことです――はとても大切なことです。そして、その努力の
末に解ったと思う瞬間が来ます。しかしなお、そうでありながら、目の前にいる他者とその成果を共有できない現実に
直面します。そこで葛藤が生じる。それもまたとても大切なことです。この記事にはその葛藤に直面して生きている
現実の尊さがあると思います。
2010/12/23 公開