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「仏の国」を考える
2012年2月18日 同朋の会「仏教聖典を読む 第37回」
仏の国(252頁) から
この本も終りに近づき佳境に入ってきました。
さて皆さんにお尋ねします。「仏の国」と聞いたとき、どのようなものを思われますか。
死んでから行くいいところ?、極楽?浄土?
へたすると「天国」も頭に浮かぶかもしれません。いまどきの葬式では弔辞でよく「天国から見守ってください」といった台詞を聞きますから。しかし天国は「神の国」です。「仏の国」とは違います。
「極楽」と「浄土」は同じことです。合せて「極楽浄土」とも言いますね。「仏の国」は「極楽浄土」のことです。本日はこの「仏の国」を色々調べてみましょう。
1 仏の国の「あり方」
仏の国は「ある」のか「ない」のか。この仏教聖典でも、色々な経典から引用していて「ある」といっているのですから、それを「ない」と言ってしまっては話が続きません。だから、わざわざ聞くな、と言われそうですが、ここではとりあえず「ある」として先に進みましょう。
ではその「あり方」はどうなんでしょう?本日の節から引いてみましょう。ちょっと長くなります。
教えが広まるというのは、心を養い修める人が多くなってゆくことであり、いままでこの世の中を支配した無明むみょうと愛欲の魔王が率いる貪むさぼりと瞋いかりと愚かさとの魔軍が退いてここに智慧ちえと光明と信仰と歓喜かんぎとが、その支配権を握ることになる。
悪魔の領土は欲であり、闇やみであり、争いであり、剣であり、血であり、戦いである。そねみ、ねたみ、憎しみ、欺あざむき、へつらい、おもねり、隠し、そしることである。
いまそこに、智慧が輝き、慈悲じひが潤い、信仰の根が張り、歓喜の花が開き、悪魔の領土は、一瞬にして仏ほとけの国になる。(253頁)
教えのしかれている世界では、人びとの心が素直になる。これはまことに、あくことのない大悲によって、常に人びとを照らし守るところの仏ほとけの心に触れて、汚れた心も清められるからである。
この素直な心は、同時に深い心、道にかなう心、施す心、戒を守る心、忍ぶ心、励む心、静かな心、智慧ちえの心、慈悲じひの心となり、また方便ほうべんをめぐらして、人びとに道を得させる心ともなるから、ここに仏の国が、立派にうち建てられる。
妻子とともにある家庭も、立派に仏の宿る家庭となり、社会的差別の免れない国家でも、仏の治める心の王国となる。(253頁)
この世界は、一方から見れば、悪魔の領土であり、欲の世界であり、血の戦いの場ではあるが、この世界において、仏のさとりを信じる者は、この世を汚す血を乳とし、欲を慈いつくしみに代え、この世を悪魔の手から奪い取って、仏ほとけの国となそうとする。(255頁)
先ず、「仏の国」などという言葉が話題にものぼらない、現代の私達の日常の世界があります。それは、3.11の震災が起り、原発汚染で生活が激変した人々がおり、沖縄は米軍駐留で苦しみ、中東では虐殺が続き、ユーロは崩壊の危機に立たされている、といったニュースが毎日流されている私達の日常世界です。
この世界はまさにここで言う「悪魔の領土は欲であり、闇やみであり、争いであり、剣であり、血であり、戦いである。そねみ、ねたみ、憎しみ、欺あざむき、へつらい、おもねり、隠し、そしることである。」
という世界でしょう。私達はこの文章を現実を表わすもっともな言葉だと納得できます。
しかし、引用した文章ではその悪魔の世界が、仏の教えを聞いた者にとっては、そのままに仏の国に変わると言っています。
そうして、仏の国に変わるとき、あるいは変わろうとするとき、私達は
「この世を汚す血を乳とし、欲を慈いつくしみに代え、この世を悪魔の手から奪い取って、仏ほとけの国となそうとする。」
という生き方をする、と言っています。
これも私達は十分納得できることです。人間は悲惨な絶望的な状況に追い込まれたとき、自分でも思ってもみなかったような、自己を犠牲にして他者を救おうとする美しい行いをするものです。そのとき、その人の犠牲の血は他の人のための乳となって、後々まで人々を潤します。
さてそうすると、ここまでの話をまとめるとこうなります。
「私達自身の心のあり方次第(すなわち、仏の教えを聞き入れるか否か)によって、私達の生きている世界が悪魔の国ともなれば、仏の国ともなる。」
つまり、私達の心のあり方によってこの世が仏の国とも悪魔の国ともなる、と経典の教えは言っていることになります。これは私達の経験に照らしてみてもある程度納得できることで、真実だと言えるでしょう。そこを指して
心が清ければ、そのいるところもまた清いからである。(253頁)
と言ったものでしょう。
2 仏の国のもう一つの面
しかし、まだこれだけでは、少々ふにおちない、十分に納得したとは言えない何かが残ります。
それはこういうことです。
私自身が仏の教えを聞くことができて、この苦しみの世界を仏の国ととらえられるようになったことは、実に嬉しくめでたい。
しかし、他の人で仏の教えを聞き得ていない者は無数にいる。その人々はこの世界が仏の国になり得ることを知らず、互いに苦しみ傷つけ殺し合っている。そしてこの苦しみの世界はどうも永遠に続きそうだ。この問題をどう解決すれば良いのだろうか。
つまり、自分が仏の教えを聞いて覚ったと思っただけでは事は済まないのです。この苦しみに沈む世界全体を救うことを考えなければなりません。これは途方も無いことです。さらに自分はいずれもうすぐ死にます。その死までの短い時間で、世界を少しでも仏の国に近づけることなどとてもできそうにありません。
しかし、経典の教える仏の国は実はこの難問も解決していたのです。
仏は彼岸ひがんに立って待っている。彼岸はさとりの世界であって、永久に、貪むさぼりと瞋いかりと愚かさと苦しみと悩みとのない国である。そこには智慧ちえの光だけが輝き、慈悲じひの雨だけが、しとしとと潤している。
この世にあって、悩む者、苦しむ者、悲しむ者、または、教えの宣布せんぷに疲れた者が、ことごとく入って憩いこい休らうところの国である。
この国は、光の尽きることのない、命の終わることのない、ふたたび迷いに帰ることのない仏ほとけの国である。
まことにこの国は、さとりの楽しみが満ちみち、花の光は智慧ちえをたたえ、鳥のさえずりも教えを説く国である。まことにすべての人びとが最後に帰ってゆくべきところである。 (255頁)
この国は休息のところではあるが、安逸あんいつのところではない。その花の台うてなは、いたずらに安楽に眠る場所ではない。真に働く力を得て、それをたくわえておくところの場所である。
仏の仕事は、永遠に終わることを知らない。人のある限り、生物の続く限り、また、それぞれの生物の心がそれぞれの世界を作り出している限り、そのやむときはついにない。
いま仏の力によって彼岸ひがんの浄土に入った仏の子らは、再びそれぞれ縁ある世界に帰って、仏ほとけの仕事に参加する。
一つの灯ともしびがともると、次々に他の灯に火が移されて、尽きるところがないように、仏の心の灯も、人びとの灯に次から次へと火を点じて、永遠にその終わるところを知らないであろう。
仏の子らも、またこの仏の仕事を受け持って、人びとの心を成就じょうじゅし、仏の国を美しく飾るため、永遠に働いてやまないのである。(256頁)
彼岸ひがん(彼の岸)は此岸しがん(この岸、この世界)に対して言われる言葉ですが、それは仏の国のもうひとつの広大な面を表わします。
それは、さきほどの「私が死んでしまったらこの世界はどうなるか」という問題を次のように解決してくれているのです。
「大丈夫だ。お前が死んでも、この世界にお前と同じように聞く心を持つ者が生れるかぎり、その者はお前と同じように教えを聞いて、この世が仏の国に変わることを知るだろう。こうして世代を超えて教えが伝えられていくことも仏の国の力なのだ。」と。
すなわち、仏の国とは
第一に、教えを聞いた私が、この世界を苦の世界から仏の世界へと転換してとらえることです。
第二に、私も含めた無数の人々が教えを聞き覚っていくべき源(それはこの世界ではありません)でもあります。その源は教えを聞き得た私が死んでから往いくべき場所でもあるでしょう。しかし、そこは往いったきりになるところではありません。すぐにまた、苦しみに沈むこの世界の人々を助ける力となって還かえってくるのです。
ということは、今、この私が仏の教えを聞き得て仏の国を実感しているということは、過去に仏の教えを聞いて、先に逝った人々が今の私に教えそのものとなって還ってきているということなのです。
その往いき還き全体をまた仏の国と言うわけです。
2012/02/19 公開