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仏ほとけの種たね
今回の話題は仏性ぶっしょうです。仏性は仏種ぶっしゅともいいます。仏に成る種です。
昔、ある人が友の家に行き、酒に酔って眠っているうちに、急用で友は旅立った。友はその人の将来を気づかい、 価あたいの高い宝石をその人の着物のえりに縫いこんでおいた。
そうとは知らず、その人は酔いからさめて他国へとさすらい、衣食に苦しんだ。その後、ふたたびその旧友にめぐり会い、 「おまえの着物のえりに縫いこまれている宝石を用いよ。」と教えられた。
このたとえのように、仏性ぶっしょうの宝石は、貧むさぼりや瞋いかりという 煩悩ぼんのうの着物のえりに包まれて、汚されずにいるのである。
このように、どんな人でも仏の智慧のそなわらないものはないから、仏は人びとを見通して、 「すばらしいことだ、人びとはみな仏の智慧と功徳くどくとをそなえている。」とほめたたえる。 しかも、人びとは愚かさに覆おおわれて、ものごとをさかさまに見、おのれの仏性を見ることが できないから、仏は人びとに教えて、その妄想を離れさせ、本来、仏と違わないものであることを知らせる。
(仏教聖典 79〜80頁)
このように私達のせわしなく動いている心の中に、仏になる種があることを経典では教えてくれているのですが、
このままでは現代の私達にはピンとこないところがあります。
言葉が豪勢すぎて、自分に関係のあるものとしてとらえきれないというか、いづれ私達は、この経典が書かれた
素朴で純真な時代とは遠く隔たってしまったのです。私達が仏性とは何かを理解するためには、現代の立場に
合わせてこの文章を解釈しなおさなければなりません。
さて、世相は「百年に一度の未曾有の不況」の只中にあります。
ほんの5ヶ月前の同朋の会で188円まで値上りしたガソリンの価格を話題にしましたが、
今日隣のガソリンスタンドに見に行ったら107円まで下がっています。実に43%の値下りです。
9月にリーマンブラザースの破綻の記事を見たと思ったら、それまでイケイケドンドンで回転していた
世界景気は、あっという間に墜落するような落ち込みを見せ、この年末を迎えています。
そして、あろうことかあの巨大企業のGMが消えて無くなるという話が流れています。
また、すさまじい「派遣労働者」の首切りがあります。私自身、サラリーマン時代にバブル後期とその崩壊、
失業も経験しましたが、このような無茶でかつ軽い扱いを受けた記憶はありません。「雇い止め」というこれまで
聞いたことの無いような奇妙な言葉が横行し、首切りを当然のごとく報道するマスメディア。
いつから人は、このようにいくらでも補充可能な小豆球 あずきだまのような扱いを受けるようなもの
になってしまったのでしょうか。
しかしまた、私達の生活の基盤が否応いやおうなく世界中と結び付けられてしまったために、
日本という国が憲法の「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」を保証することが難しい状況になって
しまった現れのひとつが「派遣切り」なのでしょう。
このような大きな動きが世相となり、雰囲気となり、金の動き、人の動き、物の動きを変えていき、私達の毎日
の生活に深刻な影響を与えます。
稼ぎ手の職を左右し、家計を維持できるかどうかの瀬戸際に立たされることがあります。近所の店や
スーパーマーケットの存廃につながり、毎日の生活がこれまで通り続けられるかどうかの不安に
さらされることがあります。
そういう漠然とした不安や恐怖があるとき、心に希望を持つことは難しいものです。毎日の生活で
前向きに生きていこうという気持ちはなかなか起きないものです。しかしそこで不安や恐怖に囚われて
しまうと、こんどは怠惰と無気力が心を占めるようになり、生きる意欲を失うことになりかねません。
生きようとするにつらく、だからといってすぐに自分をどうにかできるものでもありません。
また、私は次のようなことを思い出します。今年の夏のお盆のお参りであるお宅に行きました。
八十代の男性の一人暮らしで、奥さんは痴呆症で介護施設に入っています。息子家族が遠くにいるのですが、
ここ数年ほとんど行き来がありません。この方が私にこう言いました。
「年末年始に一人で正月の準備をしたり、雑煮を食べたりしていると涙が流れて止まらなくなる。
自分は何でこんなことをしているのだろうか、と。」
これを聞いて、私はすぐには返す言葉が出ませんでした。
このような立場にある私達に対して
「お前は仏に成る種を心の中に持っているのだ」
と言われても、まるで場違いに感じます。寝言を言うんじゃないと、片付けてしまいたくなります。
しかし、この言葉の意味をあえて考えてみるとすれば、どういうことになるのでしょうか。
私は、皆さんに話をするために自分なりに考えてみました。そしてこの言葉の意味は次のよう
なことだと思います。
「私は今、現に生きている」ということを認めること。
私が現に生きているこの場は、誰のせいでもない私自身が選び取って生活してきた結果として今ここにある、
ということです。
その結果として不安や不満や苦しみをかかえる身として今の自分があります。しかし、そこで自暴自棄に
なったり、絶望に走るのでなく、先ずはそのようにある自分を認めるのです。そこで生活しているのです。
そして、生活しているからには腹が減ります。腹が減れば食料を調達しなければなりません。そのための
金銭の工面をしなければなりません。金銭のためには働かなければなりません。
こうして、たとえ一人暮らしだとしても、その生活の中でさまざまな人々と接しなければなりません。
家族があれば、その生活を考えなければなりません。
そして、それが自分なのです。
自分が生きるとは、実は他の人々と共に生きるということであり、その中で喜びや悲しみを共にし、
不安や恐怖に打ちひしがれることもあるものなのだ、ということです。
そして自分とは、共に生きるみんなの中で、喜びや望みを少しでも大きいものにし、不安や悲しみを
少しでも小さいものにする努力をしていかなけれならないものなのです。
一見ごく当たり前の結論と思えますが、この立場に気づくことが自分の心の中の「仏の種」を見つけた、
ということではないでしょうか。そうして毎日を一歩一歩、着実にこなしていく努力を始めるのです。
その努力は、日々の生活の中ではすぐには目立った変化をもたらさないでしょう。しかし、地道な努力を
続けていると、成果は思いがけない形で訪れるものです。
あたかも、畑に種を蒔いて、毎日水遣りや草取りの世話をするようなものです。一日一日の変化は
あるようには見えません。しかし、種は少しづつ成長し、思いがけない時に花を開き、実を結びます。
親鸞は共に生きるということに気づかず、努力をしない人、またそれゆえ自分が苦しみ皆に苦しみを 及ぼす人のことを次のような喩たとえで表しています。
「無明の酒に酔うたる人に、いよいよ、酔いをすすめ、三毒(貪欲・瞋恚しんに・愚痴)を、久しく好み 食う人に、いよいよ毒をゆるして、好めと申し合いてそうろうらん、不便ふびんのことにそうろう。 無明の酒に酔うたる悲しみ、三毒を好み食うていまだ毒もうせはてず、無明の酔いも、いまださめやらぬ身にて、 おはしまし合うてそうろうぞかし。」
(訳)
無明という、ものごとを正しく掴むことができず、まるで酒に酔ったような状態にある人にいよいよ酒を勧め、 また、三毒(貪欲・瞋恚(怒り、恨み)・愚痴)を長い間好み食ってきた人に、いよいよ毒を勧めて好むよう に仕向けようとしている。情けないことだ。
無明の酒に酔うとは、悲しみ苦しみの迷路の中をさまよっていることであり、また欲望や怒り、怠惰や無気力に 長い間身をまかせていたためにその習慣が消えず、悲しみ苦しみの迷路からも離れられない、大変な状況にあるのだ。
親鸞聖人御消息集(広本)四
2008/12/21